「朝日新聞の素粒子に『ご夫婦でゴルフをしませんか』と君が誘ったから○月○日は汚職記念日〔守屋被告、具体的な日付を記入して下さい〕とおもしろく書かれて有りました。』2008年4月22日朝日新聞夕刊より引用」
守屋次官以外に、おまけに歴代防衛庁長官の名前も浮かび上がっていましたね。防衛庁から防衛省になっても仏作って魂入れずでは困ります。国民の信頼を裏切るものです。防衛事務次官は大臣に次ぐ要職で、防衛庁長官は、昔で言えば陸海軍の長です。今は、防衛大臣です。接待や業者のにぎにぎ、防衛団子三兄弟では日本の国を本当に守れるのでしょうか。イジース艦の事故や不祥事続きで、『一将功成りて、万骨枯れる』のような結果になったら困ります。『将は、将たる器』という諺どおり、人の上に立つ人は、劉邦のように人柄は謙虚で、庶民的感覚を忘れないで頂きたいと思います。小池百合子防衛大臣は、マッカーサー中将が1942(昭和17)年3月31日、日本軍の猛攻で、「アイ・シャル・リターン(I shall retum)=私は必ず帰ってくる」との言葉を残してコレヒドール島からオーストラリアへ退却を余儀なくされた。」時のマッカーサー将軍の言葉を「私は帰る」という残され去られましたが。私は、第二次大戦で亡くなられた多くの戦死者を追悼し、父から戦争の最前線(野戦と戦前の軍人は言いましたが) の恐ろしさ、悲惨さを聞き、不正と汚職事件ばかりの情けない平成の防人省を憂い、大和男としてここにi書かせて頂きました。父の尊敬していた乃木希典(のぎまれすけ)将軍は、『1849年~1912年生まれ、長州藩(山口県)の軍人、西南戦争・日清戦争に出征、日露戦争では第3軍司令官として旅順を攻略した。後学習院院長。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死しました。』乃木希典陸軍大将は、弁当箱の蓋に付いていた米粒まで、残さず大切に食べられた逸話が残っています。質素を旨とされた清廉潔白な人柄を未だ慕う人が多いです。
私の父は、京都市伏見区墨染に本部が有った陸軍第十一師団中支派遣軍嵐兵団に所属し〔麦と兵隊の歌で有名な中支那〕最前線で7年間軽機関銃手で、陸軍伍長として従軍し闘い生き残り、本当は軍曹になれたのに申請が遅れ成都の飛行場攻撃で負傷し、終戦後病院船で博多に帰って来た父から生前教わった『軍人勅諭』を下の部分に書かせて頂きました。今の人には、文語体で読み難いかも分かりません。父は、生前水も大切にしましたし、野戦で水に不自由したそうですから。戦死した戦友に申し訳ないと言い自分は、傷痍軍人の申請をしませんでした。右目も不自由で頭に迫撃砲弾の玉が入ったままで死ぬまで取れませんでした。野戦病院で三日間意識も、無く薬も無く寝かされ、誰が輸血してくれたので助かったと言っていましたが、血を頂いた方も戦死されました。父の戦死した戦友の皆さんとこの方のご冥福をお祈りしまして、戦後33年目に西国巡礼三十三所の第十八番札所の六角堂・京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町に目の不自由な父に代わり写経をお納めさせて頂きました。
軍人勅諭・ぐんじんちょくゆ。
明治15年陸軍省 達乙第2号1月4日本日別紙之通 勅諭有之候条右写相添此旨相達候事(東京鎮台士官学校戸山学校教導団ヘハ「勅諭本書ハ追テ可相渡候事」ノ但書ヲ加フ参謀本部監軍本部近衛局ヘ通牒尤近衛局ヘハ但書ノ趣意ヲ加フ)以下略。
1.ひとつ、軍人は忠節を尽すを本分とすべし
凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況(ま)して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ
1.ひとつ、軍人は礼儀を正しくすべし
凡(おおよそ)軍人には上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし。
1.ひとつ、軍人は武勇を尚(とうと)ふべし
夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらんものは常に能く義理を弁へ能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
1.ひとつ、軍人は信義を重んすべし
凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき
1.ひとつ、軍人は質素を旨とすべし
凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨(はし)り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり節操も武勇も其甲斐なく世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等閒(なおざり)にな思ひそ右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや
明治15年1月4日御名
☆軍人勅諭は、ひとつづ、ひとつと読んで行きますので、戦前兵隊に行かれ方はご存知ですが。戦後生まれの方にあえて書かせて頂きました。失礼を致しました。
今回のイジース艦事故や事故後の処理、守屋防衛次官の不祥事を太平洋戦争で戦死した兵隊さんは、草葉の影でどう思っているでしょうか。平成の防人、自衛隊の幹部の皆さん、『軍人勅諭』を読んで見て下さい。皆この「軍人精神」に反する情けない行為ばかりでは有りませんか。拝金主義の平成の軍人や偉い事務官ばかりで、「武人の精神」を忘れていると嘆くでしょう。きっと情けない日本人ばかりで、国が守られるかと嘆くでしょう。日本男児の風上にも置けない人物ばかりです。国家の公人としての責任感が゛無いのではありませんか。未だ第二次大戦の激戦地で厚生労働省によると、沖縄と硫黄島を含む在外戦没者約240万人のうち、115万人の遺骨がまだ帰っていない。 政府による南方地域での大がかりな遺骨収集は、75年度で終了した。05年、尾辻秀久厚労相(当時)は国会で「集中的に収集し、ある意味で線を引くべきだ」と発言。06年度から「おおむね3年間」の計画でフィリピン、東部ニューギニアなどで調査を始めた。 だが、収集予算は02年度から減り続け、今年度は約1億9800万円だ。 ハワイに本部がある米国防総省の戦争捕虜・行方不明者捜索司令部(JPAC)は今年6月、8人の調査チームを、激戦地・硫黄島に派遣した。目的は、62年前に倒れた1人の軍曹を捜すことだった。当時の軍の記録や証言に基づき、約10日間かけて崩壊した洞窟などを調査し、今後、発掘作業のチームの派遣を検討するという。 JPACのスタッフは425人で、予算は年5千万ドル・55億円。約8万8千人の未帰還米軍人を捜している。 後は、民間などから情報があった場合のみ収集している。当時を知る人が少なくなり年々困難になっている。かつての激戦地には戦死した当時のまま放置されている白骨遺体もある。「国のために犠牲になった人々に責任を持ってほしい」。高齢化が進む遺族らは訴える。日本だけが遺骨収集が十分行われずに野ざらしなっているのです。今日の日本の平和は、戦死者の貴い血と犠牲であがなわれているのです。 戦没者の遺骨収集がなぜこんなに遅れているのでしょうか。戦後補償は問題になっても、なぜ今まで日本の国の為に死んだ人の遺骨を放置したのでしょうか。お金に為らないからとの声もあります。海外の激戦地の荒野に長年ほったらかしにされていたのでは、戦死者の霊もさ迷い浮かばれません。皆さん日本にお帰りになりたいと思われていたでしょうね。最近戦没者の遺骨を見世物にしていると言う報道も有りました。心無いことで、言語同断です。海外の激戦地も長年年月が、経過しますと自然の風水害により地形も変わり遺骨収集も場所の特定は当時と比べが難しくなると思います。海外の激戦地跡の人々が、なぜ日本は、戦死した人達の遺骨をなぜ野ざらしにして置くのだろうと思われて来たと思います。日本政府の信用に関わる問題です。私は、何よりも戦没者の霊にまことに申し訳ないと思います。世界に冠たる経済大国日本です。予算と人手を確保し、戦死した人達の霊に報いるべきです。兵隊も戦争加害者だと言った有名な亡くなった評論家や軍人恩給も支給せずにアジア諸国の戦後補償に支払うべきだったと言った京都の某大学国際文化学部教授もいます。命令による厳しい上位下達方式の日本軍隊では、兵隊には責任がありますか。上官の命令には、絶対服従です。ロシアや中国でも、アメリカでも国の為に戦った人達を英雄として大切に顕彰しているでは有りませんか。ロシアや中国でそんな事を言えば強制収容所送りか国外追放です。命を犠牲にしたり、命を的に闘つた人達へは、国家が補償するのは当たり前です。その人達が戦後補償や戦後戦争責任を問い、長年支持している国で、日本人が拉致され、ミサイルが日本近海に飛んで来る危ない状況では有りませんか。100%日本国内にミサイルが飛んで来ないと信じているのですか。 戦後の厳しい食料難事情で、飢え死にした人もいます。国の為に闘った兵隊さんの家族の人達が飢え死だら成仏出来ません。戦死した人達に申し訳ないではありませんか。父は、戦争に実際に行き、最前線で闘った者しか戦争の悲惨さや戦争の恐ろしさは分からないといつも言っていました。右派の人達から見れば、左翼思想家、自分達は革新系と主張する文化人は、戦前を生き抜いて、苦労した日本人の皆さんを裏切る反日国家分子です。本当の国賊です。私も思想的限界を感じますが。戦前のように命がけで自分の主義主張を通すような立派知識人や政治家が日本に何人いるでしょうか。戦前のように衆議院議員で、尾崎行雄氏や斉藤隆夫氏、浜田国松氏のように議会で筋を通す気骨ある政治家はいません。おそらく口先だけのインテリが大多数では有りませんか。日本人として魂を忘れた政治家や知識人が多すぎるのです。亡き父が中支戦線の「麦畑」の情景を思い出すと言い良く歌っていた「麦と兵隊」の歌を書かせて頂きました。野戦、最前線の状況を良く現していると言っていました伊藤久男さんの「暁に祈る」の歌、5 番目の歌詞 が、
暁に祈る
作詞:野村 俊夫 作曲:古関 裕而 著作権:有(詞・曲)
一、 あああの顔であの声で 手柄頼むと妻や子が ちぎれる程に振った旗 遠い雲間にまた浮かぶ
二、 ああ堂々の輸送船 さらば祖国よ栄えあれ 遥かに拝む宮城(きゅうじょう)の 空に誓ったこの決意
三、 ああ軍服も髯面も 泥に塗(まみ)れて何百里 苦労を馬と分け合って 遂げた戦闘(いくさ)も幾度か
四、 ああ大君の御為に 死ぬは兵士の本分と 笑った友の戦帽に 残る恨みの弾丸(たま)の跡
五、 ああ傷ついたこの馬と 飲まず食わずの日も三日 捧げた命これまでと 月の光で走り書き
六、 あああの山もこの川も 赤い忠義の血がにじむ 故国(くに)まで届け暁に あげる興亜のこの凱歌
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昭和十五年五月 松竹映画「暁に祈る」主題歌 コロムビア100021 伊藤久男唄から引用 |
……「軍馬のための歌」を作れといわれた作詞者が三回書き直しても許可が出ず、「あーあ」とため息をついたところ、そばにいた作曲者が「それそれ、それを出だしにしてまとめなさい」と助言しこの曲ができたという。 作詞、作曲、唄と福島出身者で、「新福島民謡」などとも言われた。 |
野戦そのまま姿だと生前父が私に教えてくれました。皆さんも一度下のYouTubeで聞いて見て下さい。最前線で食料が途絶え、夏の軍装で、真冬の冷たいクリーク、中国の運河の水に漬かり、蛇まで食べ、死体の一杯浮いた池の水も飲んだと聞かされました。歯医者が居なかったので父の歯は、ぼろぼろになり全部入れ歯になっていました。中支戦線で戦死された父の戦友の嵐兵団の皆さん方にこの歌を捧げます。本当に皆さんご苦労様でした。ご冥福を心からお祈り申し上げます。麦と兵隊の歌詞やYouTubeを作られ方の著作権法に触れるかも分かりませんが。今日の日本の平和の礎になり、日本の国の為に闘って亡くなった戦死した人達の為に使わせて頂きましたので、何卒お許し願いたいと思っています。私のプログから伏してお詫び申し上げます。中支派遣軍の英霊に捧げ! 最敬礼です!
英霊と言いますと軍国主義者だと言われ私が批判されます。戦死された方々の御霊と書かせて頂きます。
☆実録、「麦と兵隊」の東海林太郎さんの歌入りをYouTubeクリックして下さい。
麦と兵隊 戦争 日本軍 war song 軍歌 Japanese armed forces ... 麦と兵隊. 03:21 投稿者: slhs0083 ... 麦と兵隊 東海林太郎 (附・徐州戰實況) 04:50 投稿者: akiraplastic ...
jp.youtube.com/watch?v=AfSYGJ4_1Vw -
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麦と兵隊
作詞:藤田 まさと 作曲:大村 能章
歌:東海林太郎
著作権:有(詞・曲)
一、 徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りゃ お国訛りのおけさ節 髯が微笑む麦畑
二、 戦友(とも)を背にして道なき道を 行けば戦野は夜の雨 すまぬすまぬを背中に聞けば 馬鹿を言うなとまた進む 兵の歩みの頼もしさ
三、 腕をたたいて遥かな空を 仰ぐ瞳に雲が飛ぶ 遠く祖国を離れ来て しみじみ知った祖国愛 戦友(とも)よ来て見よあの雲を
四、 眼(まなこ)開けば砲煙万里 鉄の火焔(ほのほ)の狂う中 夕日ゆらゆら身に浴びて 独り平和の色染める 麦の静けさ逞(たくま)しさ
五、 行けど進めど麦また麦の 波の深さよ夜の寒さ 声を殺して黙々と 影を落として粛々と 兵は徐州へ前線へ
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文部省推薦 昭和十三年十二月 ポリドール2687から歌詞引用 |
URLhttp://www18.ocn.ne.jp/~abc8181
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