教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

18歳一橋大生、飲酒後死亡=寮で新入生歓迎-東京

2008年04月28日 15時29分17秒 | 受験・学校

「  27日午前7時ごろ、東京都小平市学園西町、一橋大学小平国際キャンパスの学生寮の部屋で、同大1年の男子学生(18)がぐったりしているのを友人が見つけた。学生は病院に運ばれたが、約2時間後に死亡が確認された。 /> 男子学生は前夜に飲酒しており、警視庁小平署は、急性アルコール中毒とみて死因を調べている。 調べによると、男子学生は26日午後8時ごろから寮内で、1、2年生11人とビールや焼酎などを飲んでいたが、27日午前3時ごろに体調が悪くなり、自室に戻って寝ていた。この日は寮生の一部が集まり、新入生を歓迎するコンパをしていたという。 」時事通信 >毎年大学では、新入生の歓迎コンパでこのよう事件が起きています。急性アルコール中毒で亡くなったのは残念です。体質的にアルコールが合わない新入生の学生には無理じいや、勧める問題です。酒に弱い体質か強い体質か自分で判断して一気飲みやお酒をチヤンポンするのは止めましょう。大学生になったからと言って未成年者がお酒を飲んだり、タバコを吸ったらするのは止めましょう。未成年者は法律でアルコール類の飲酒が禁止されていると大学側がなぜ教え、注意を喚起しないのか分かりません。大学生になると、タバコも、飲酒も自由なのでしょうか。大学生何ですから、自主性を持って各自が判断すべきです。大学では、毎年このような事件が起こらないように対処して下さい。せっかく大学合格したのにアルコール中毒で亡くなるのは、本当にもったいない話です。これまでの頑張って来た努力が水の泡です。未成年者禁酒法を下に書かせて頂きました。

未成年者飲酒禁止法  

大正11・3・30・法律 20号  改正昭和22    ・法律223号  改正平成11・12・8・法律151号--改正平成12・12・1・法律134号--改正平成13・12・12・法律152号--第1条 満20年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス

 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者若ハ親権者ニ代リテ之ヲ監督スル者未成年者ノ飲酒ヲ知リタルトキハ之ヲ制止スヘシ
 営業者ニシテ其ノ業態上酒類ヲ販売又ハ供与スル者ハ満20年ニ至ラサル者ノ飲用ニ供スルコトヲ知リテ酒類ヲ販売又ハ供与スルコトヲ得ス
 営業者ニシテ其ノ業態上酒類ヲ販売又ハ供与スル者ハ満20年ニ至ラザル者ノ飲酒ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
第2条 満20年ニ至ラサル者カ其ノ飲用ニ供スル目的ヲ以テ所有又ハ所持スル酒類及其ノ器具ハ行政ノ処分ヲ以テ之ヲ没収シ又ハ廃棄其ノ他ノ必要ナル処置ヲ為サシムルコトヲ得
第3条 第1条第3項ノ規定ニ違反シタル者ハ50万円以下ノ罰金ニ処ス
 第1条第2項ノ規定ニ違反シタル者ハ科料ニ処ス
第4条 法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ前条第1項ノ違反行為ヲ為シタルトキハ行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ同項ノ刑ヲ科ス

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休みたいなら辞めろ」発言は暴論?正論? ネットで波紋広がる

2008年04月28日 14時03分28秒 | 社会・経済

『 「休みたいならば辞めればいい」――。そう会見で述べたとされる日本電産の永守重信社長の発言への反響が広がっている。連合会長がメーデーで非難したのに続き、ネットでも永守発言に対して多くの「意見表明」がされた。批判が多いが、なかには「正論を言ってくれた」と支持する声もある。この記者会見で「休みたいならば辞めればよい」と発言したと報じられた。  「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」
 と述べたとされている(asahi.com 2008年04月23日)』
 その後、連合(日本労働組合総連合会)の高木剛会長が4月26日のメーデー中央大会で、この発言を「言語道断」と激しく批判。

以前厚生労働省の審議会の派遣会社社長の某女性の委員が、休日が多すぎる労働基準法も要らないと言われた発言を思い出す。過労死が問題に人なり、今日暴言と言わざるを得ない。「一将功なりて、万骨枯る」では困ります。亡くなった零細企業に勤めていた私の父も昭和42年二過労死直前まで行き掛かっていた開業医の先生に休まないと死ぬよと言われました。残業手当や休日手当ても無く、結局その年の9月に疲労からオートーバイに乗り、大手ゼネコンのダンプカーに当てられ交通事故に会いましたが頭と鎖骨を折り一命をとり止めましたが。入院と転院しましたが、休業中も得意先が取られると言われ社長の車で得意先周りをさせられました。交通事故の休業補償費を打ち切られなくて良かったのは、先方が大手ゼネコンの下請けで助かりました。零細企業の従業員の労働条件は、大企業の従業員に比べ劣悪です。ワンマン経営者が多く、使ってやっているという封建思想も強いのです。社員は使い捨、消耗品でしょうか。従業員の家庭の幸せや子供の家庭教育をないがしろとにしても宵のでしょうか。適者生存で相手の会社や零細中小企業を乗っ取ったり、潰しても皆に恨まれるだけで、直系の親族で会社を永続するのは難しいと言われています。Dスーパマケットの創業者の息子さんに友達がお前の親父のお陰で、うちの親父の会社潰されたと言われた逸話が残っています。社長の自分だけ儲け、良い思いをし、従業員は使ってやってるのだから、本人も家族も犠牲になったら良いでは民主主義社会は発展しません。企業は、一代限りが多いと言われています。社員が、使い捨てで消耗品という発想は、戦前の日本軍の論理で、兵隊は消耗品と幹部の言った言葉です。結局物量とアメリカの経済力二基づいた工業技術力の差で、日本は負けました。精神力で一辺倒の休息も食料も十分取れなかった日本軍とは違い豊富な食料で栄養と休養を十分取った体力とも優れたアメリカ軍の兵隊の威力です。NHKの番組「プロジエクトX」の名言集・カシオ計算機の生産紹介で言われた名言「部下の幸せの為には、上司がいる。」を書かせて頂きました。若いうちは、リゲインの宣伝のように二十四時間働け頑張れると良くく言われますが、若い人でも過労死で亡くなった人もいるのも事実です。長い人生ですから命を大切にして下さい。いつか精神力も身体も限界が来て再起不能の体にならないようにして欲しいと思います。健康を回復することが出来なかった元外食産業の店長ことが、以前新聞書かれていました。体力も過労の為突然倒れ帰らぬ人となられた新聞記者を私は思い出します。日ごろ元気だからと言って無理を重ねた為亡くなってしまったのです。過労から鬱病になったり、自殺した人も要る今日の日本です。過労死の屍を乗り越えて、企業が発展しても先進国日本とは言えません。封建的独裁経営者の元父の休日も無い仕事とばかりで両親ともこぎ使われ家庭が犠牲になり、家族旅行にも行けなかった子供の頃の私の辛い思い出を思い起こすだけです。企業は人なりで、三代続いている企業は、福利厚生を充実し従業員を大切にし、亡くなった従業員の供養をしている会社と言われています。

☆私は、下に本田技研の創業者本田宗一郎氏のエピソードを書かせて頂きました。

本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は日本実業家技術者。 本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。ソニー井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。血液型はA型。

、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年本田は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。記者から「本田さんは工学博士は無理でも、ロの付いたエロ博士はすぐ取れる」と言われた事に、「これからの未来は、女性が車を乗る時代が来るだろうし、女性にアピールする車を作らないといけない。世の中に女性がいなかったら、俺は毛生え薬を試す事はないだろうし、服はドンゴロスに穴を開けたもので十分だが、女性がいるからこそ、クルマも女性に注目されないといけない」と言った。  青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。 勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、その服装で出席しようとした(もっとも、さすがに周囲に止められ、最終的には礼服で出席)。 米国に初めて工場を建設した際、「正装」のツナギ姿で現れ、現地工員ひとりひとりと握手して激励した。工員たちは、伝説的存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ格好で親しく接してくれたことに感動し、米国に進出した日本企業を必ずと言ってよいほど悩ませていた労働争議が、ホンダに限っては一度も起きなかったという。本田の膝下で働いていた社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。 「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。」 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある。」 「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」(1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し)などがある。生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。そのかわり控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。 ある日、宗一郎がふら~と工場を巡回していると若い工員が「おいっおっさん!なにズボンのポケットに手突っ込んで歩いてんだ!転んだらどーすんだ!」と注意した、暫くしたら「正装のズボン」からポケットが全て取り外された。現在もズボンのポケットは無い。テレビのインタビューを受けた際「私は年寄りだからもう新しい開発からは手を引いてるが、一応今の若い(開発者)連中が何をやってるか見せて貰っている。でも(何をやってるのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやってるのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれてることが僕は一番嬉しいんだ」と語った。藤沢武夫のコメント記のような神話的エピソードが喧伝されることについて、ホンダ副社長だった藤沢武夫は深い危惧を覚えていたという。いわゆる「本田宗一郎伝説」が、長期的に見てホンダにとってマイナスになりかねないと考えていたかららしい。 』

藤沢武夫のコメント

  • 上記のような神話的エピソードが喧伝されることについて、ホンダ副社長だった藤沢武夫は深い危惧を覚えていたという。いわゆる「本田宗一郎伝説」が、長期的に見てホンダにとってマイナスになりかねないと考えていたかららしい。
    • ホンダはレース活動に熱心である為、市販車両に対しても同様のイメージを持つものが多い。その顕著な反動が、オデッセイのヒット以降のミニバン屋という揶揄である。しかし実際には、単純な技術自慢(あるいはキャッチコピー)として、スポーティなイメージを主張することはあるが、最初からスポーツ性を重視した車種は、ホンダの商品ラインナップとしては、むしろ常に少数派の部類である。
    • 「本田宗一郎伝説」はかなり都合良く脚色されている面も多いと批判する者もある。例えば、「身内を入社させなかった」という件に関して言えば、宗一郎の実弟の弁二郎はホンダの重職にあった。藤沢が定めたとされるルールは、正確には「役職者の身内を(縁故)入社させない」ということである。弁次郎は、宗一郎同様にアート商会で奉公した後に、現在のホンダが創業される以前から宗一郎の下で働いており、現在のホンダに縁故入社したわけではない。また当然であるが、職場結婚をした場合、身内が社内に在籍することになるが、それに関して特に制限などは無い。ちなみにホンダのアフターパーツメーカー無限を創業したのは本田の長男本田博俊であるが、無限はあくまで契約上のパートナーという位置づけである。[4][5]

盟友 藤沢武夫

ホンダ=本田宗一郎と見る向きもあるが、副社長だった藤沢武夫の存在を語らずにホンダを語ることはできない。本田宗一郎なしに藤沢武夫の功績はなかったかも知れないが、藤沢の存在なしに現在のホンダは到底ありえなかったと見る者が多い。

派閥解消と企業の活性化の為に役員大部屋制度を作ったり、役員の子弟は入社されないといった規則を作り、本田カラーの基盤を確立した。また、本田宗一郎に自転車につけるエンジンを開発させた上で、全国の自転車屋に手紙を送り、自転車屋を二輪販売代理店にしてしまうといった魔術的な戦略を得意とした。さらに鈴鹿サーキットは当初、藤沢個人の邸宅を抵当に入れて作られた。一般道でスピードを出して死んでいく若者達に心を痛め、またより良い製品を作り出す実験場として作られたという。「マン島レース出場宣言」や「資本金を大幅に上回る価格で外国製工作機械を購入」といった「本田宗一郎伝説」の逸話は、あたかも本田が独断で行ったかのようなイメージで語られる場合が多い。しかし本田は常に藤沢に意見やアイディアを求めており、藤沢の後押しがあるからこそ大胆な計画を発表できたのだと言われる。本田は藤沢の手のひらの上で踊らせてもらっていた、と評する者もいる。本田の数々の逸話は、藤沢が創作・脚色したものも多いという。(社長引退のエピソードなど)

考察

本田と藤沢については、例えば松下電器松下幸之助やソニーの盛田昭夫井深大など日本における理想的な経営像として語り継がれると思われるが、本田と藤沢の場合には、強い経営者(実質的には藤沢)と強い理念・ビジョンの構築者(本田)が同時に両立できていたという点で、日本社会では非常に特色があるといえるだろう。特に米国など企業経営が進化する現代に求められている経営スタイルの一つがこのようなものであり、例えばGoogleYahoo!など新興大企業も似たスタイルを取っている。

日本においてはカリスマ経営者がいたからといって、その企業が必ずしもビジョナリーカンパニーになるわけではなく、その経営者は”個性あるオーナー”や”中興の祖”として終わり、ビジョンが引き継がれ、そのビジョンが更に会社の発展に寄与することは少ない。ホンダの場合には米国MBAの教科書にも載るほどのグローバルに認められたビジョナリーカンパニーとなったのは、本田の個性よりも藤沢の姿勢に負うところのほうが大きいとも言えるだろう。

藤沢の死後、本田宗一郎は日本人として初めてアメリカで自動車殿堂入りを果たした。 授賞式を終え、帰国後、本田は成田から直接藤沢邸に向かい、藤沢武夫の位牌に受賞したメダルを見せながら語りかけた。 「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ・・」

ホンダはレース活動に熱心である為、市販車両に対しても同様のイメージを持つものが多い。その顕著な反動が、オデッセイのヒット以降のミニバン屋という揶揄である。しかし実際には、単純な技術自慢(あるいはキャッチコピー)として、スポーティなイメージを主張することはあるが、最初からスポーツ性を重視した車種は、ホンダの商品ラインナップとしては、むしろ常に少数派の部類である。

  • 「本田宗一郎伝説」はかなり都合良く脚色されている面も多いと批判する者もある。例えば、「身内を入社させなかった」という件に関して言えば、宗一郎の実弟の弁二郎はホンダの重職にあった。藤沢が定めたとされるルールは、正確には「役職者の身内を(縁故)入社させない」ということである。弁次郎は、宗一郎同様にアート商会で奉公した後に、現在のホンダが創業される以前から宗一郎の下で働いており、現在のホンダに縁故入社したわけではない。また当然であるが、職場結婚をした場合、身内が社内に在籍することになるが、それに関して特に制限などは無い。ちなみにホンダのアフターパーツメーカー無限を創業したのは本田の長男本田博俊であるが、無限はあくまで契約上のパートナーという位置づけである。』
    • 本田宗一郎出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
      より編集者の方には申し訳ありませんでしたが。引用させて頂きました。
URLhttp://www18.ocn.ne.jp/~abc8181

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