教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

早稲田大学「医学部」、創設が現実味…東京女子医大“吸収”が最有力か、意外な障壁構成=長井雄一朗/ライター

2019年02月24日 14時16分51秒 | 受験・学校・学問

早稲田大学「医学部」、創設が現実味…東京女子医大“吸収”が最有力か、意外な障壁
構成=長井雄一朗/ライター





早稲田大学早稲田キャンパス(「Wikipedia」より/Kakidai)

 昨年、早稲田大学の学長選挙で医学部設置を公約に掲げた田中愛治教授が当選し、早大の医学部創設が現実味を帯びてきている。田中学長は、「単科医科大学を吸収合併する戦略に絞って考えていく」とコメント、裏口入学事件を受けて補助金を大幅に減額された東京医科大学を吸収するのではないかと取り沙汰されている。

「基本的に他大学の統合・合併というかたちで早大医学部を創設していくと思います。他大学の医学部を統合するのではなく、田中学長は単科医科大学の吸収合併を視野に入れています。その“お見合い相手”は、世間で候補とみられている東京医科大学ではないでしょう。慶應義塾大学の安西祐一郎元塾長は『大学の統合はお見合い結婚みたいなもの』と表現しました。お互いが違う校風や歴史を持っているなかで、一緒になるわけですから。

 これまでの大学の統合事例としては、慶應大と共立薬科大、関西学院大と聖和大、上智大と同じカトリック系大学の聖母大が一緒になっています。関学のケースでは給与体系などの違いの問題などもあり、当初の予定よりも1年延びていますから、大学の統合はかなりエネルギーを使います」(大学業界関係者・A氏)

 では、相手が東京医科大学ではないとすると、どこが有力候補となるのだろうか。

「東京女子医科大です。実は早大と東京女子医大は、日本初の共同大学院(専攻:共同先端生命医科学)を設立しています。ほかにも早大は東京農工大とも共同大学院を設立しています。東京女子大学の敷地内に早大が校舎を建てて研究していますが、こうした経緯もあり、最有力候補として東京女子医大が挙がってくるのです。共同大学院は2010年4月に開設されたので、以降、両大学の校風や歴史の相互理解が深まっているものと想像できます。もし、早大が“お見合い話”を持っていくのであれば、東京医科大よりも東京女子医大のほうが先だと考えるのが自然ではないでしょうか」(同)

単科医科大学、苦しい経営

 しかし、東京女子大側で反対意見は浮上しないのだろうか。

「確かに、東京女子大にとって最大の支援組織である同大出身者の間で『日本でただひとつの女子医科教育の場を放棄するのか』という声があります。障壁となるのは、OG会の説得ですね。しかし東京女子医大病院は2001年と14年に起こした医療事故に端を発し、病院経営が厳しさを増しています。事故を受けて、厚生労働省は特定機能病院の承認を取り消しており、患者が減少しています。当然のことですが、大学経営にも悪影響を及ぼしています。

 こうした状況もあり、同大出身者には現役医師も多く発言力も強いものの、理事会ではそれほど反対は出ないとみられています。教授たちも、自分の研究費が維持されれば満足するでしょう。さらに、東京女子医大は医学部と看護学部しかないので、総合大学に組み込まれることによって経営が安定するというメリットもあります。このほかにも、両大学とも場所も同じ東京・新宿区ですから、地の利もあります」(大学業界関係者・B氏)
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 つまり、名古屋大が岐阜大を救済するように、早大が東京女子医大を救済合併するという構図だろうか。
「そうなりますね。今まで私大が一緒になるケースでは、総合大学が単科大学を救済する意味合いもありました。特にこれから少子化が本格化するなかで、総合大学と単科大学が一緒になっていくケースが増えるかもしれません。

 早大が医学部を持つインパクトは、かなり大きいです。おそらく早大は研究型大学を目指し、研究分野を拡大したいのでしょう。たとえば、車いすの研究でも医学部創設により、自前でできるようになります。当然ですが、医学部を創設すると病院経営があり、医学生の研修先になります。ところが病院経営が悪化すると、体力のない単科医科大学であれば、大学経営も直撃するのです。実は早大を卒業してから、他大学の医学部に入りなおしている学生も一定数おり、そういう人材も吸収できます」(同)

多様な人材を集める

 早大は医学部創設で学生の裾野を広げようとする一方、実は一般入試の合格者を減らす方針を打ち出している。

「早大のみならず大学は多様な人材を集めたいという意向を持っています。早大には北九州キャンパスがあり、地方からも人材を集め、国際学生寮を東京・中野につくり、さまざまな試みを各種実施しています。一般入試に頼らずAO入試、留学生、推薦入試、付属高校からの進学組からも集めて、キャンパスの活性化を図る意向があるのではないでしょうか。
 
 もう一つは、昨今の文部科学省による大学定員の厳格化です。実は早大には仮面浪人組が一定数いて、大学に通いつつほかの大学入試にチャレンジし、翌年に東大や一橋大に合格したら早大をやめる学生が存在します。仮面浪人組は一般入試組だけなので、一般入試組の合格者を減らせば、2年次も定員の厳格化は図れるとの考えもあるようです」(大学業界関係者・C氏)

 ちなみに不正入試事件に揺れる東京医科大は、今年の入試志願者数が昨年の3分の1になるなど不人気ぶりをみせている。

「東京医科大は過去の入試分に遡って追加合格を出したので、今年の入試合格者枠は減少します。しかも医学部の合格者は100人程度なので、10人追加合格者がいると1割減るので難易度が高くなります。しかも、公平な入試をするので男子のボーダーラインが上がるため敬遠されました。ちなみに以前、ある大学の歯学部が入試をめぐり文科省から厳重注意を受け、無視するのであれば卒業しても学生に国家試験を受けさせないとの厳しい指導を受けたことがあります。東京医科大も公平な入試を行わなければ、学生が医師国家試験を受けることができない可能性も出てくるため、絶対に公平な入試を行うでしょう」(同)

 いずれにしても、“早大医学部”誕生は近いかもしれない。
(構成=長井雄一朗/ライター)』

早稲田大学も少子化による18歳人口減少を見据えて医学部の吸収合併を考えていると思います。
医学部を新設すると費用も掛かり、医師養成には大学院も設置して10年の年月を要します。
早稲田大学は、合併するに当たり早稲田大学のレベルを下げないような伝統と歴史が有り、医学部としての実績の有る社会的評価の高い私立医科大学としかしないと思います。
慶応大学には、医学部があるの早稲田大学にはないとい言う長年の悲願達成と思います。
医学部合併と同時に医学研究と必要性の高い薬科大学との合併
2008年に4月慶應義塾と学校法人共立薬科大学は合併し、慶應義塾大学薬学部・同大学大学院薬学研究科が設置されたように早稲田大学医学部、薬学部が、早稲田大学に誕生為る日が、来るように思います。



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ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献

2019年02月24日 10時52分32秒 | アート・文化


ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献

2/24(日) 9:37配信

ドナルド・キーンさん=東京都北区で2014年10月21日、宮間俊樹撮影


 日本文学の国際化に貢献した文化勲章受章者で米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが24日、心不全のため東京都内の病院で死去したことが分かった。96歳。通夜・葬儀の日程は未定。お別れの会を後日開く。喪主は養子のキーン誠己(せいき)さん。 

【写真特集】ドナルド・キーンさん死去 1953年ごろの貴重な写真も

 1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれた。コロンビア大の学生だった18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事。彼らが残した日記を解読するうちに、日本への関心をより深めていった。

 ◇三島由紀夫ら多くの文学者と交流

 戦後、大学に戻り、本格的に日本文学研究に打ち込み、53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。

 ◇2012年に日本国籍取得し話題に

 11年3月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明。生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。13年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。

 日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。

 近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、18年3月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。【中澤雄大/統合デジタル取材センター】

今の日米間の大事な時期に日本文学の国際化に貢献した文化勲章受章者で、米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーン氏が亡くなられたのは残念に思います。

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HOME 天木直人のブログ お言葉で天皇陛下は韓国に言及されるだろうか

2019年02月24日 10時27分19秒 | 国際・政治
お言葉で天皇陛下は韓国に言及されるだろうか
2019-02-24
 
天皇御在位30年式典のきょう、毎日新聞が天皇陛下の過去の活動を特集記事で報じていた。

 その中で私が注目したのは1992年10月の天皇陛下の訪中である。

 当時の記憶は薄らいでいるが、訪中の是非について議論があり、訪中で語られるお言葉についても議論があったはずだ。

 その事に一切言及なく、毎日新聞の記事は、北京の人民大会堂で開かれた夕食会で当時の国家主席である楊尚昆氏と乾杯されている天皇陛下の姿と共に、つぎのようなあいさつ文の一部を淡々と紹介している。

 「我が国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と。

 このお言葉は、93年の河野談話の中の、「・・・このような問題(筆者註:慰安婦問題のこと)を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と続き、そして1995年の村山談話で次のように結実した。

、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

 この談話こそ、それ以降の内閣が継承する我が国の公式見解となったのだ。

 それを見直そうとしたのが安倍首相だった。

 しかし、安倍首相でさえそれを否定する談話を発表する事はできず、そのかわり、なし崩し的に逆行する政策を取り続けて来たのである。

 天皇御在位30年式典のきょう、はたして天皇陛下は、訪韓してお言葉を発する事の出来なかった代わりに、この機会に韓国や日韓関係に言及され、歴史認識について、せめて中国で発せられたお言葉を発せられるだろうか。

 いや、もっと踏み込んで、村山談話と同じような反省とお詫びの言葉を語られるのだろうか。
 
 それとも、安倍首相の検閲に従って一切の歴史認識への言及がないまま、お言葉は終わるのだろうか。

 それは今日の午後にわかる。

 明日の新聞各紙はその事をどう報じるのだろうか(了)

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2月23日(土)のつぶやき

2019年02月24日 05時43分50秒 | 受験・学校・学問
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