図書館から借りていた 浅田次郎著 「お腹召しませ」(中央公論新社)を 読み終えた。本書には、表題の「お腹召しませ」の他、「大手三之御門御与力様失踪事件之顛末」「安藝守様御難事」「女敵討」「江戸残念考」「御鷹狩」の、6篇の短編が収録されている。いずれも、作者自身、幼少期に祖父から聞かされた昔語り、浅田家の伝説を題材にし、身の回りで起きたエピソードと絡めて、江戸時代末期から明治維新の頃に空想、想像を馳せ、創作した時代小説である。特徴的なのは 各篇共、作者自身の言葉で、物語を書くきっかけ等の前書きが有り、後書きが付け加えられている点が有る。
読んでも読んでも、そのそばから忘れてしまう爺さん、読んだことの有る本を、うっかりまた借りてくるような失態を繰り返さないためにも その都度、備忘録としてブログに書き留め置くことにしている。
浅田次郎著 「お腹召しませ」
「お腹召しませ」
後書きで、作者は 記憶に残っている祖父の昔語り、「切腹の場から逃げ出した侍が、死装束のまま未明の町なかを疾走し、蜆売りや納豆売りを仰天させた話」「入婿の不始末で切腹を覚悟した御隠居が大政奉還であやうく命を拾った話」、二つの話を繋ぎ合わせて、勝手に作った物語である・・と記述している。
幕末、高津又兵衛は 家督を継がせた入婿与十郎が藩の公金に手をつけ、吉原の女郎と逐電した責任で 家を守るためには、腹を切るしかないと 追い込まれる。妻と娘からも、いともあっさり、「お腹召しませ」と言われる始末。又兵衛が下した決断は・・・。一家の主のドタバタ物語で、悲壮感無く、コメディータッチで描かれている。
「大手三之御門御与力様失踪事件之顛末」
大手三之門詰め所の御百人組の与力横山四郎次郎が忽然と姿を消した。組頭の本多修理太夫から探索を命じられた昵懇の長尾小源太。表向き「神隠しに有った」と言わざるを得ない状況だったが・・実は・・・
「安藝守様御難事」
前書きで 作者は 級友の某君が先輩役員20人を飛び越して社長に就任、某君は「自分が一番驚いている」「なに、じきに慣れるさ」と無責任に励ましたことを記述。そこから発想、想像を飛ばし、本家主筋の血縁も持たず英才教育も受けていなかった若い浅野茂勲(もちこと)が第14代安藝広島藩の藩主になり、苦労する物語を創作している。「斜籠(はすかご)の儀」・・「なにそれ?」と問うことも出来ず、ひたすら練習、当人は必至、気苦労が絶えないが 傍目からは、コメディ風な物語。茂勲は 後年 第二次長州征伐や徳川処分論等の調停役を務め、維新後の晩年は 浅野長勲(ながこと)侯爵となったが、その著作「徳旧記」を元にした創作したという。
「女敵討(めがたきうち)」
前書きで 作者は 名前の変遷で、「貞」という字が 「死字」(名前から消えてしまった文字)になっていることを記述、「貞」から、発想、空想を飛ばした創作物語にしている。
奥州財部藩士御徒組の吉岡貞次郎(35歳)は江戸藩邸警護のため江戸へやってきて2年半になる。御目付役稲川左近から 国元に残した妻ちかの不義密通が知らされ、急遽国元に戻るが、さてその結末は・・・、
「江戸残念考」
代々御先手組与力を務める浅田家の浅田次郎左衛門は、祖父の代からの郎党孫兵衛から、薩摩長州と戦いになるやも知れぬという情報を入手。明治維新に際しては 徳川の御家人達に残された道は 駿府へ落ちた徳川家について江戸を出ていくか、薩摩長州に寝返るか、脱走して上野の山に籠城し命を落とすか、武士を捨て町民として生きていくか、だった。彼らにとっては それらは全て「残念、無念」なことで、「ざ、残念!」が 流行語?になっていたが、娘さよと祝言を上げたばかりの石川直右衛門が・・・。孫兵衛「残念はもうこれきりにいたしませぬか・・・」。作者が 浅田家の先祖を想定、空想して描いた作品だと言える。
「御鷹狩」
ある新月の夜、まだ前髪が取れぬ若者、檜山新吾、間宮兵九郎、坂部卯之助の3人は 薩摩長州の田舎侍に抱かれる江戸女は許せないと 夜鷹狩に出掛けた。奉行所、定廻り同心も機能しなくなっており、官兵もあてにならず、江戸の町は荒れ放題、将来が見えない不安にさいなまれる少年達。檜山孫右衛門、嫡男小太郎、五郎蔵、おつね・・・。「よもや、とはおもいまするが」
作者の祖父は 明治30年生まれ、曽祖父は明治2年生まれ、この物語は 曽祖父の生まれた年の出来事として描かれている。作者は 後書きで、幼少期に祖父から聞いた話は 「浅田家が御一新の折には大変な目に遭った」という言い伝えだけであって、それがいったいどういうことだったのか等は語り継いでおらず、ほとんど空想的な話に仕上げていると 記述している。