たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

平岩弓枝著 「華族夫人の忘れもの」 新・御宿かわせみ2

2021年01月26日 05時36分10秒 | 読書記

図書館から借りていた 平岩弓枝著 「新・御宿かわせみシリーズ」第2弾目の作品「華族夫人の忘れもの」(文春文庫)を 読み終えた。
本書には 表題の「華族夫人の忘れもの」の他、「士族の娘」、「牛鍋屋あんじゅ」、「麻太郎の休日」、「春風の殺人」、「西洋館の亡霊」の 連作短編6篇が収録されている。

数年前までまるで読書の習慣等無かった爺さん、我ながら信じられないことだが、前作「御宿かわせみシリーズ」(全34巻)を 一昨年3月から1年10ケ月間掛けて、昨年12月になんとか読み切った。乗り掛かった船?、その続編である「新・御宿かわせみシリーズ」も読んで見たい気になり その2巻目だ。
「新・御宿かわせみシリーズ」は 時代が幕末から明治に変わり、「御宿かわせみシリーズ」の主要登場人物の子供達が主役になっており、ストーリーも一変、一見して現代小説風に思えてしまう部分もあるが、旧作品の事件や登場人物との関わりが面々と底に流れており、時代小説と現代小説の狭間のような作品だと思う。
神林東吾は 生きているのか死んでしまったのか・・・、
るいや千春がいつの時点で 神林麻太郎の出生の秘密を知るのだろうか・・・、
そんなことに気を揉ませながら 次々と起きる事件を 麻太郎、源太郎等若い世代が解決していく展開になっている。


読んでも読んでも、そのそばから忘れてしまう爺さん、読んだことの有る本を、うっかりまた借りてくるような失態を繰り返さないためにも その都度、備忘録としてブログに書き留め置くことにしている



「華族夫人の忘れもの」

春日井蝶子(春日井第3夫人)、金港屋銀三、
旅館「かわせみ」の女主人るい、女中頭お吉、大番頭嘉助が お吉の義姉の法要のため箱根に出掛け、るいの一人娘千春、番頭になったばかりの正吉、女中頭代理お晴、若い三人が「かわせみ」を取り仕切っている間の出来事。日本橋で古美術商を営んでいるお千絵、お千代(畝源太郎の母妹)の紹介で 初めて「華族」を宿泊させることになった「かわせみ」。春日井夫人とはいったい誰?、鶴賀喜久太夫?、お蝶?、神林麻太郎との関わりは?


「士族の娘」

畝源太郎、おみち、お秀、久根芳次郎、花世、
頼まれて古代裂屋「入川」の用心棒をしていた源太郎は 母親のお千絵に反対されやめたが、そのあとがまの久根芳次郎は元 旗本の次男坊(士族)。「花にはわかっているのです。必ず怖ろしいことが起きます。そうなってからでは遅いから・・・」、花世の予感した通りの結末になってしまう。


「牛鍋屋あんじゅ」

お安、太郎吉、与戸屋金之助、乙助、吉平、
通りすがりに独楽の回し方を教えた子供太郎吉にすっかり懐かれてしまう神林麻太郎。前作「御宿かわせみシリーズ」の主人公神林東吾と容姿も言動も生き写しのような麻太郎が活躍する「新・御宿かわせみシリーズ」、作者の意図するところだろうか。読者は 前作を読み直しているような錯覚さえ覚える。「乙助は横浜で写真をとったんだな」・・「写真」という言葉が 初めて出てきた。


「麻太郎の休日」

河内屋信兵衛(元神奈川奉行所役人村尾信兵衛、士族)、勘吉、お雪、お柳、角之助、松江
バーンズ医師の診療所で働く神林麻太郎が7日毎の休日、ぶらり出掛けようとした時、顔見知りの若者勘助が走ってきて 「神林先生」「俺、親父を殺した・・・」、何事?、角之助が急病?、畝源太郎、麻生宗太郎も駆け付け・・、万年青(おもと)?


「春風の殺人」

梅千代、八重丸、福み(おふく)、染千代、寄居忠兵衛、清水喜兵衛、
元旗本(士族)で武器商人として成功した横浜の寄居忠兵衛が探す「お千加」という娘は、いったいどっち?、源太郎が依頼され、麻太郎も乗り出すが・・・、大川からの烈風が見送っている人々の顔に正面から襲いかかった。


「西洋宿館の亡霊」

村崎彦次郎、三佐緒、村崎安三郎、お松、湊屋勘兵衛、おきみ、高山仙蔵、
旅館「かわせみ」の隣家の隠居所が取り壊されたことで 「かわせみ」もネズミの跳梁に手を焼いている折、るいの留守中、仏壇の内外を掃除していた千春が 引き出しから父親神林東吾署名の「遺言のこと」という巻紙を発見、ついに 神林麻太郎の出生の秘密を知ってしまう。衝撃を受けた千春は 「かわせみ」を飛び出し、麻太郎に会いに向かうがあいにく麻太郎は横浜へ出掛けており、無我夢中の千春は 陸蒸気で横浜へ向かおうとする。偶然、源太郎、長助が千春を見付け、源太郎が同行、行き着いた横浜の宿屋湊屋で甲高い女の声、「うちの人、村井安三郎が神林東吾という人と会う約束で・・・」、「神林東吾」という名前を聞き付けた千春、源太郎・・、事件に巻きまれる?。千春がピンチ、神林麻太郎が・・、麻生宗太郎が・・・、


(豆知識)

「華族」

明治2年岩倉具視の政策による廃藩置県が行われ、同時に 明治維新後の「公卿(公家)」(5家)、「諸侯(大名等)」(15家)を廃止し、その他407家、合計427家を 「華族」と定められた。更に 明治17年には「華族令」が発布され 華族の当主は 「公爵」、「侯爵」、「伯爵」、「子爵」、「男爵」の五階の爵位に叙され、その華族制度は 昭和22年(1947年)5月3日、「法の下に平等」を定めた「日本国憲法」施行まで続いた。

「士族」

明治維新後 江戸時代の武士階級や公家、寺院の使用人で 「華族」に組み入れられなかった者に対して与えられた身分制度の族称。「士族」階級に属する者には 「士族」の身分表示が許され、昭和22年5月3日、民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。「士族」の中には 知識や人脈、既得権益を生かして実業家として成功する者等もいたが、「士族」に対する恩典は 次々剥奪され 次第に 名分上の栄誉も無く、単に戸籍上における「士族」に過ぎなく、馴れない商売に手を出し失敗する例が多かったという。それを揶揄した「士族の商法」という 言葉が生まれた。 


 

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寒の内忘れる陽気に弾む足

2021年01月25日 15時47分45秒 | 散歩・ウオーキング

当地 今日は 1日中 快晴、
最低気温 4度前後、最高気温 13度前後だったが、
昨日、一昨日の 冷たい雨降りの後だけに
体感的には 気温以上の温かさで、
部屋の窓を開け放ったくらいだ。

昼食後、好天に誘われて 近くをちょこっと歩いてきた。
こんな日には 歩け、歩け・・・、
尻を叩かれれる牛のごとく、
いつもより 少し多めに・・。
スマホの歩数計で 約12,000歩。 

ピンクユキワリイチゲ?

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追想「中山道を歩く」その6(再)

2021年01月25日 10時05分03秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


追想「中山道を歩く」
その6 第5日目 「本庄宿~新町宿」

第4日目「熊谷宿~深谷宿」を歩いてから半年以上も経ってしまっていた晩秋の休日に、急に思い立って 「中山道を歩く」の続きをすることになり、前回の終点JR深谷駅に向かった。

午前9時30分頃、JR深谷駅を出発→深谷本陣跡→常夜燈→清心寺→滝宮神社→岡部神社→源勝寺→普済寺→百庚申→八幡神社→傍示堂→「本庄宿」金纉神社→浅間山古墳→泪橋由来の碑→神保原一丁目交差点→八幡宮金窪神社→一里塚→(国道17号線)→神流川橋・常夜燈・埼玉県群馬県境界線→「新町宿」神流川古戦跡の碑→陸上自衛隊駐屯地→八坂神社→諏訪神社→行在所公園・高札場跡→JR新町駅


「深谷本陣跡」

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                  「常夜燈」


                                                  「清心寺」
平清盛の弟 平忠度(たいらのただのり)の供養塔が有る。
昔、このあたりは 岡部六弥太(おかべのろくやた)の所領だったが、
源平一の谷の戦いで 文武に優れた平忠度を討ち取った岡部六弥太は 
武勇に優れている一方、情け深く、
自領で最も眺めのよいこの地に平忠度の菩提を弔う五輪塔を建て、
その死を悼んだという。
現在も岡部町という地名になっており、
岡部待ちは 関東一の漬物名産地と言われているようだ。

「普済寺」
岡部六弥太の墓が有る。
このあたりの街道沿いは 
農家や元農家の広大な敷地の大邸宅が立ち並んでいる。
古い建物を壊さずに 残している家が多いようだ。

「島護産奉神社」

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「百庚申」

 


「本庄宿」

江戸から10番目の宿場、深谷宿から二里半七町
天保14年(1843年)では 
人口4554人、家数1212軒、本陣2,脇本陣2、旅籠70軒、
旅籠も多く繁華で、飯盛り女も100人以上いた宿場だったとう。

室町時代に武蔵七党の武士団児玉党一派本庄実忠が本庄城を築き 
江戸時代には小笠原信嶺が本庄城主となって 
城下町として発展し 武州路最大の宿場だったという。


その日は 丁度 本庄祭りの山車行列が通りを通過中で 大変な賑わいだった。

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「金鑚神社(かなさなじんじゃ)」
鬱蒼とした樹林に囲まれた神社。寛永16年(1639年)に
本庄城主小笠原忠真が創建した神社。

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「泪橋の由来碑」
諸大名が通行する度に馬を借り出される農民が
身のはかなさを嘆いて涙を流したことによるという。

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「神流川橋」

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「新町宿」

江戸から11番目の宿場、本庄宿から二里、
中山道が開かれた当時は 寂しい寒村だったが、
後に町並みが出来、落合村と笛木村が合流した。
天保14年(1843年)では
人口1437人、家数407軒、本陣2、脇本陣1、旅籠43軒の
宿場だったという。

「神流川古戦跡の碑」
「神流川合戦」とは 
小田原北条軍と 織田信長の家臣 関東管領 滝川一益との戦いで、
信長が本能寺で光秀に討たれたことから始まった戦い。
滝川軍の戦死者3760人という戦史に残る大激戦だったという。

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「常夜燈」         「諏訪神社」

「高札場跡・行在所公園」                                        明治天皇が北陸巡幸の際の宿泊場所。

「JR新町駅」
帰宅所要時間を考え その日は JR新町駅を終点とした。
JR新町駅には 午後3時30分頃到着。

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「中山道を歩く」5日目は 約18キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


(つづく)

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薄化粧?厚化粧?の山並み

2021年01月25日 08時56分04秒 | 暮らしの記録

一昨日、昨日、南岸低気圧、強い寒気の影響で 大雪?注意報が出されていた当地、
結局 一昨日夕方 一時的に霙が降った程度で 平地は積雪に至らず、
身構えていた分 肩透かし?になった感有りだが、
本当に久し振りにまとまった雨が降り、大地が潤い、
快晴の今朝は しっとりとした温かさ。 
体感的には 春が来たような陽気になっている。
薄化粧?、厚化粧?した周辺の山並みが
朝日に映えている。

昨日の写真

大岳、三頭山、雲取山 方面

秩父方面

道志方面

 

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18歳と81歳の違い(再)

2021年01月24日 17時04分24秒 | つぶやき・うんちく・小ネタ・暇つぶし・脳トレ

「18歳と81歳の違い」、
どうも 日本テレビ系列で毎週日曜日の夕方放送されている長寿番組「笑点」の大喜利コーナーで出されたお題「18歳と81歳の違い」に対する回答がネタ元のようだが、余りにも面白過ぎるということで 巷で話題になっているもの。
川柳と同様、ユーモア、機知、風刺、奇想天外な発想、ジョーク、
次々と閃く お笑いの世界の人達の傑作、
おもしろーい!、
以前に書き込んでいた記事を コピペ、再編集、リメイクしてみた。

すでに81歳系の爺さん、
どれもこれも 当てはまり 愕然としてしまうが
最後の 「嵐」というと 松本潤を思い出すのが18歳、鞍馬天狗の嵐寛十郎を思い出すのが81歳」には まさしく 「その通ーり」と 言ってしまう部類。
笑ってしまうしか無い・・・。

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「若者よ」

2021年01月24日 09時55分33秒 | 懐かしいあの曲

南岸低気圧と強い寒波の影響で 降雪、積雪が予想されていた当地だが 昨日夕方 一時的に霙が降った程度で 積雪には至らず 今の所 平地には雪景色が見られない。午前中 冷たい雨が降り続いており、次第に回復する見通しのようだ。
北海道や東北、北陸等日本海側で 例年にない大雪になっているという今冬、当地では 昨年暮れから まとまった雨の日がまったく無く、小さな川は干上がっている状況、やっと大地が潤うような雨になり なんだかホッとしている。

雨の日曜日、
これから 食料等の買い出し?の付き合いになりそうだが 
ふっと思い浮かんだ曲、「若者よ」。

若い頃、歌声喫茶で良く歌われたり、学生運動で歌われたり、フォークダンス曲であったりした「若者よ」という曲。当時 ラジオ等からも よく流れていたような気がする「若者よ」。
今更になってネットで調べてみると
「若者よ」は 作詞 ぬやまひろし(西沢隆二)、作曲 関注亮の 歌詞が1番しかない短い曲。

わかものよ
からだをきたえておけ
うつくしいこころが
たくましいからだに
からくもささえられる
ひがいつかはくる
そのひのために
からだをきたえておけ
わかものよ

「若者よ」、実は 戦前共産党員だった西沢隆二(詩人としての筆名・ぬやまひろし)が 昭和21年に著した「詩集・編笠」に収録された詩で、作者にとっての歌意は 「暴力的に粉砕する革命期がやがてやってくるので、その日のために身体を鍛えておけ」だったのだという。つまり、単純な青春歌謡でもなければ、反戦歌でもなく、フォークダンス曲では無かったが 昭和20年代、30年代の若者は 歌意を深く考えることもなく 大声で歌っていたような気がする。戦後の貧しい暮らしから立ち上げろうとする若者達には 自分達を奮い立たせる歌だったのかも知れない。 

ボニージャックスの「若者よ」 (YouTubeから共有)

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「中学生日記より」その6(再)

2021年01月23日 09時06分45秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。
「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記のことだが まさか 数十年後になって ブログで第三者の目に晒されるとは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その6「焼山登山」


昭和31年7月28日(土)、天気 晴、

1限目 理科 昆虫採集
2限目 音楽 アロハオエ、山登りの歌
3限目 第4回生徒会 (1)1学期の反省(クラブ活動・各部)、(2)夏休みの件

焼山登山
1、午後2時半 学校集合、午後3時 学校前よりバスで出発、

中学生時代、全校生徒で(と言っても 1学年1クラスの小さな中学校、欠席者もいたはずなので 50~60人程度だったと思われるが)、学校登山をしたこと自体は覚えていたが、当時は カメラを持っていなかった時代、写真等1枚も無くて、日記を見つける前は その記憶はすっかり喪失していた。拙いメモのような日記から なんとなく 当時の記憶の欠片が炙り出されてくる。
夏休み直前の7月28日、29日に 「焼山登山」をしたことが書かれている。


昭和31年7月28日(土)

湯川内(ゆのこうち)までバスで
午後4時40分頃、湯川内分教場へ入る
午後8時半頃まで寝て(仮眠して)
午後8時半に 広場に集合、出発

登山口に近い学校の校舎に入り、仮眠したような記憶は有ったが 分教場?、地元出身の教頭が話を付けて、借用させてもらったのかも知れない。 
子供のこと、眠れと言われても 昼間 眠れる分けは無し、不眠のまま、午後8時半には 登山開始したようだ。
北陸の山村の子供達、当時、登山靴等持っている家等無かったはずで 何を履いて行ったのだろうか。長靴?、地下足袋?、ズック?。速乾性のポリエステル製の衣類等知る由もない時代、せいぜい木綿の長袖シャツ?、毛糸のセーター?等 着たのかなあ。ヘッドライト等見たことも無かった時代、昔の大型で重い懐中電気?、持っていたのだろうか。登山用の雨具、ザック等普及していなかった時代、農作業用の雨合羽?、持参したのだろうか。どんないでたちで 学校登山したのだろうかと想像するとおかしくもなる。


昭和31年7月29日(日)

12時10分(午前0時10分)、池ノ平付近を歩き続けていた

随分 時間を掛けて登っている。登山等生まれて初めてする子供達、参加した5~6名の教師達も登山不慣れ、多分 地元の案内人もいたはずだが 危険な夜行登山、落伍者が出ないように頻繁に休憩しながら 慎重に、ゆっくりと 登ったのだろう。


昭和31年7月29日(日)

午前5時半、頂上到着
ご来光にちょっと遅れた。
天気が良かったので 白馬、駒が岳、妙高、火打等 方方が良く見えた。

ひ弱だったM男、おそらく 遅れ、遅れで、ヨレヨレになって 登頂したのではないかと思うが とにかく写真が1枚も無く、その様子や展望風景等 思い出そうとしても思い出せない。
ただ 登山途中だったか、山頂でだったか、記憶曖昧だが、「職業家庭」担当のずんぐりむっくり、髭面のI先生が 突然、「みんな こんな歌知ってるか」等と調子っぱずれ、超スローなテンポで歌を披露。当時、井の中の蛙だったM男達のこと、初めて聞く歌だったが、随分後年になって ダークダックス等の歌で それが「雪山讃歌」で有ることが分かり 超音痴なI先生の印象が忘れられないものになっている。今でも 「雪山讃歌」を聴く度に I先生の顔が思い浮かんでくるから困ったものだ。

2017年2月5日の記事 I先生と「雪山讃歌」  こちら


昭和31年7月28日(日)

頂上にて約1時間半~2時間休み、
午前7時頃 頂上出発(下山)

午前12時頃 笹倉温泉に到着
午後3時頃まで休む。風呂に1回入った。

3時に バスで出発し 学校へ。

とにかく 写真が1枚も無く 思い出そうと思っても無理。
覚えているのは 「焼山登山をした」・・だけで、

「へー!、そうだったかな?」である。


昭和31年7月30日(月) 天気 晴、起床 6時、

1限目 保体(保健体育)
2限目 国語
3限目 社会
(1限目、2限目、3限目 授業をせず)登山のよもやま話、焼山の歴史

1,ここが痛いだけだった。(足の部分)
2、明日、登山経費 150円を持ってくること。
  (明日)第1学期 終業式、掃除、
3、登山で使った金、ガム 20円、キャラメル 20円、

学校登山の翌日、多分、参加した生徒も教師も 登山の興奮や疲労が有り 授業は取り止めにし、その余韻を楽しんで雑談で終始したようだ。なんとも のんびりした時代だった。
ひ弱だったM男のこと、「ここが痛いだけだった」等と強がりを書いているが 腿、脹脛、足の脛、足指・・・、相当参っていたんだろうなと思う。登山経費150円?って なんだろう。キャラメル1箱 20円だったようだ。そんな時代だったか。


焼山(やけやま)
新潟県糸魚川市と妙高市にある頸城山塊(くびきさんかい)の標高2,400mの活火山。妙高山、火打山と共に「頸城三山(くびきさんざん)」と呼ばれ、日本山岳会による「日本三百名山」の一つにも選定されている。
約3000年前に活動が始まった比較的若い火山で、火山活動が活発、爆発、噴火が観測される度、再三 入山規制、入山禁止、規制解除、禁止解除を繰り返している山で、現在も尚 気象庁が24時間体制で観測を行っている常時観測火山の一つになっている。


 

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コロナストレス解消には自然の中を歩くのが一番

2021年01月22日 15時35分47秒 | 散歩・ウオーキング

今朝の南の空、
彩雲?っていうものなのだろうか

当地、今日も 日中は穏やかに晴れ渡り、気温も上がり
春先のような陽気、
こんな好天に 家籠もりではもったいない?
午後になって ほとんど人と出会わない、
近くの川沿いをちょこっと歩いてきた。
スマホの歩数計で 約8,500歩。
薄手のジャンパーでも汗ばんでしまい 
帰ってから着替え。

キセキレイ
ちょこまか動いて 撮らせてもらえない・・、

いた、いた、今日もいた カワセミ
動くなや

遊歩道にカラスの群れ、
集団でなにやら拾い集めているような・・、

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追想「中山道を歩く」その5(再)

2021年01月22日 05時18分50秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


追想「中山道を歩く」
その5 第4日目 「熊谷宿~深谷宿」

第3日目「桶川宿~鴻巣宿」を歩いた次の週の休日、やはり好天だったこと、仕事に支障がなかったことで、「中山道を歩く」の続きをすることになり 前回の終点JR行田駅に向かった。

午前9時30分頃、JR行田駅を出発→(久下の長土手)→(熊谷の八丁堀)→久下橋→上久下宿碑→東竹院→仏説寺→八丁の一里塚跡→「熊谷宿」熊谷駅踏切→(熊谷市街地)→銀座一丁目交差点→札の辻跡・高札場跡→高城神社→熊谷寺(ゆうこくじ)→八木橋デパート→旧中山道碑→一番街→八坂神社→(旧道)→新島の一里塚跡→忍領石標→新勝寺→(深谷の並木)→熊野大神社→愛宕神社→国済寺→見返りの松→常夜燈→庚申塚碑→「深谷宿」行人橋→本庄町交差点→JR深谷宿


「JR行田駅」
 

「久下(くげ)の長土手」                                    荒川の土手、
菜の花が咲き乱れ、のどかな春の田園風景が広がっていた。

「久下の長土手、深谷の並木 さぞや寒かろ淋しかろ」
久下の長土手は中山道の一部だったが 歌の文句の通り淋しい場所で、
明治時代末期まで 「追い剥ぎ」が出没していたという。

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「八丁の一里塚跡」

 


「熊谷宿」

江戸から8番目の宿場、鴻巣宿から四里六町四十間。
「熊谷宿」は かって忍藩(おしはん)領で忍藩陣屋が有った。
今でも陣屋通りが有り、陣屋跡が有る。
天保14年(1843年)では 
人口263人、家数107軒、本陣2,脇本陣1,旅籠19軒
宿場だったという。

「札の辻跡・高札場跡」       「高城神社」

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「熊谷寺(ゆうこくじ)」                                        熊谷は 熊谷次郎直実の出身地。熊谷寺には 直実の墓がある。

「旧中山道碑」
旧道は 八木橋デパートの中を通っている。

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「新島の一里塚跡」

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「見返りの松」
俗謡に歌われていた「深谷の並木」は、
江戸時代には松、杉合わせて4000本も有ったが 現在は
「見返りの松」が昔日の面影を残しているだけになっている

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「深谷宿」

江戸から9番目の宿場、熊谷宿から二里半九町
天保14年(1843年)では 
人口1928人、家数526軒、本陣1、脇本陣4、旅籠80軒
の宿場だったという。
旧道沿いに脇本陣跡や問屋場跡が有る。
造り酒屋や古い商家が多い町並みで落ち着いた雰囲気が有る。
明治時代の実業家渋沢栄一の出身地としても有名。

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時間的に 本庄宿まで歩くのは無理、
「中山道を歩く」第4日目の終点は JR深谷駅と決め
午後3時頃到着した。
東京駅を模した 立派な、しゃれた駅舎。

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「中山道を歩く」第4日目は 約17キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


(つづく)

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上天気 

2021年01月21日 15時28分14秒 | 散歩・ウオーキング

風も無く、穏やかに晴れ上がり、
陽だまりに入ると 春のように温かい日になった。
こんな日に 1日中、家籠もりでは もったいない?
近くの川原に出掛け そぞろ歩いてきた。
毎度のこと、コンデジで やたらカシャ、カシャ撮りながら
スマホの歩数計で 約7,500歩。

シジュウカラ

ジョウビタキ

ダイサギ

カワラヒワ(河原鶸)? かな、
カワラヒワのメスかも・・、

鳥に疎い爺さん
数年前までは 
「君の名は?」だった鳥達、
そのいくつかは見分けられるようになり・・、
これもブログをやってきたお陰かも?

ゆっくり、ゆっくり 猫と散歩する女性

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