たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

「おお!キャロル」

2021年01月21日 08時35分57秒 | 懐かしいあの曲

当地 今日も いい天気になりそう。
気温も 幾分上がり 陽だまりは温かい。
ふっと思い浮かんだ曲、「おお!キャロル」

今更になってネットで調べてみると
「おお!キャロル(Oh! Carol)」は ロッカバラード得意の歌手であり、作曲家、シンガーソングライターのニール・セダカ(Neil Sedaka)が 1959年(昭和34年)にリリースした曲、アメリカで大ヒット、全米チャート第9位を記録、日本でも 当時 ラジオ等からよく流れていた。ミッキー・カーチス、かまやつひろし等、数多の歌手がカヴァーしていたが、やはり 本家のニール・セダカの「おお!キャロル」が一番等と思ったような気がしている。
ただ、当時は 来日公演を見た分けでもなく、実物の映像も知らず、ただただ 曲に耳を傾けていただけで、今回YouTubeを見て 「へー!、これが ニール・セダカか」、
なんだか 初めて見るような気がしている。
ニール・セダカには 「おお!キャロル」の他、「恋の片道切符」、「すてきな16才」、「小さな悪魔」、「悲しき慕情」等の大ヒット曲が有る。

ニール・セダカ(Neil Segaka)の「おお!キャロル(Oh! Carol)」 (YouTubeから共有)


ロウバイ(蝋梅)が 見頃?

2021年01月20日 16時47分39秒 | 散歩・ウオーキング

関東西部山沿いの当地 今朝の気温は ー5度前後、
日中も 7度前後までしか上がらなかったが
雲一つ見えない快晴、
体感的には 気温より やや温かくも感じられた。
あまりにも良い天気、
買い物に出掛けたついでに 少し足を伸ばし
雑木林の公園、都立小宮公園に行ってきた。
お目当ては ロウバイ(蝋梅)。
園内の一区画に 
およそ100本程植樹されているというロウバイ(蝋梅)が
開花、見頃を迎えている・・・との情報が有り、
そう言えば これまで この時期に 
同公園を訪れたことは 無かったような気がして、
とりあえず 行ってみよう ということになり・・。

ロウバイ(蝋梅)
クスノキ目、ロウバイ科、ロウバイ属、落葉樹、
原産地 中国、

満開、7分咲き、5分咲き、・・・・、
ややバラツキが有ったが 快晴の空の青さに映えていた。

快晴と言えども 寒さ厳しい冬の日、
来園者の数は 極めて少なく、まばら・・、
雑木林の公園、広い園内に人影がほとんど見えない。
1時間程、のんびり園内を散策して帰ってきた。
スマホの歩数計で 約6,000歩。

新型コロナ禍、感染第3波の襲来で、緊急事態宣言が出されている当地、
基本 家籠もりの暮らしになっているが 健康管理は 自己責任。
動かないことで 心身の不具合、健康障害を生じてしまったら元も子もない。万全の感染防止対策をとった上で それぞれが自分流に工夫して暮らしていくしか無いと思う。

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大寒(だいかん)

2021年01月20日 10時16分11秒 | 暮らしの記録

2021年1月20日は 二十四節気の「小寒(しょうかん)」から数えて15日目、「大寒(だいかん)」に当たり、さらに「立春」までの期間が 「大寒」と呼ばれる。「小寒」から「立春」までの30日間は「寒の内」で、「大寒」は その真ん中に当たる。

おおさむ こさむ 
やまからこぞうが
とんできた 
なんといってとんできた 
さむいといってとんできた

「大寒」という文字を見ると 「おお!、寒!」と読んでしまいそうだが、一年中で最も寒さ厳しい時期。
今冬は、北海道や東北、北陸等の日本海側で 近年にない大雪になっており、雪による災害、事故も発生している。日々の暮らしの中で 雪との格闘のご苦労は 北陸の山村育ち故 ひしひしと感じる。まだまだ冬の真っ只中だが、「冬来たりなば、春遠からじ」、「春よ、来い、来い」・・春の到来が待ち遠しい季節ではある。

(ネットから拝借画像)

 


「幸せをみつけられるように」(再)

2021年01月19日 18時20分06秒 | 懐かしいあの曲

最近の音楽、知らず、分からず、覚えられずの爺さん、若い頃に聴いたことがある音楽ばかり、繰り返し聴いている類であるが、数多のブログを拝見する中で 比較的新しい音楽で初めて知る曲であっても、聴いてみると、なるほど いい曲だなあ・・と 感じる曲も多々有る。
たまたま その時の精神状態で 心に沁みたのかも知れないが、何回か聴いている内、脳裏に焼き付いてしまい、そんな曲は たけじいの「懐しいあの曲」の1曲にしてしまっているような気がする。

確か 5~6年前のことだったと思う。
大手術を宣告されてもおかしくない病巣をかかえながら 経過観察精密検査を受けた後、ホッと胸をなでおろす結果説明が有った日のこと、妻と祝杯(?)を上げ、その日拝見したブログで初めて知った曲で 「幸せをみつけられるように」が有る。なんとなく ジーンと聴き入ってしまったような気がしている。

今更になってネットで調べてみると
「幸せをみつけられるように」は 作詞 田中琴乃・Kurei、作曲 Kim Dong HyeoK、唄 クリス・ハート(Chris Hart)で 2014年(平成24年)に リリースされた曲だった。

歩んだ道 重ねた日々
心に残る思い出たちは 笑顔の記憶
ここまでの道は 平坦ではなかった
それでも かけがえのない人たちに
支えられてるから
幸せをみつけられるように
僕らは今日も 一步踏み出すよ
涙を流すのは 自分のためよりも誰かのため
この旅が 終わるころには
大事なものが 見つかっているはず
生きていこう 一度きりのストーリー
伝えたいことは この足跡に
蕾から花へ 花から空へ
笑顔の種からまた咲く花を
幸せをみつけるたびに
僕らの未来 輝いていくよ
涙を流すのは 悲しい時よりも嬉しい時
言葉では伝えられない 優しい心 触れるたびに 「ほら」
紡いでく 一つだけのストーリー
ありふれたことも 輝かせ
愛してく 夢も愛も涙も

クリス・ハートの「幸せをみつけられるように」 (YouTubeから共有)

 


追想「中山道を歩く」その4(再)

2021年01月19日 09時15分18秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした。


追想「中山道を歩く」
その4 第3日目・「桶川宿~鴻巣宿」

第2日目「蕨宿~浦和宿~大宮宿~上尾宿」を歩いてからまもなくの2004年春の好天の休日、切りの無い仕事にケリをつけ、「中山道を歩く」の続きをする気になり、前回の終点JR上尾駅に向かった。

午前9時頃 JR上尾駅を出発→遍照院→雷電神社→(旧中山道・国道164号)→「桶川宿」桶川市境界→富士見通り交差点→竹村旅館→桶川市駅前交差点→旧北本宿碑→本宿交差点→「鴻巣宿」本町交差点→鴻巣駅入口交差点→鴻神社→加美交差点→(旧中山道・国道365号)→箕田観音堂→箕田氷川八幡神社(綱八幡)→吹上駅前交差点→吹上間の宿碑→榎戸踏切→久下・権八地蔵→(久下の長土手)→JR行田駅


JR上尾駅前

 


「桶川宿」

江戸から6番目の宿場・上尾宿から三十四町、
天保14年(1843年)では
人口1444人、家数347軒、本陣1、脇本陣2、旅籠36軒の
宿場だったという。

「武村旅館」
江戸時代、旅籠「紙屋半次郎」だった建物に大正時代手を加えられたもの。
間取り等はそのままで江戸後期の遺構として貴重であり
国の登録有形文化財に指定されている。    
       

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蔵造りの商家、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡等 旧桶川宿之中心部。

旧北本宿碑・本宿交差点~                                        宿が鴻巣に移された後 元の宿という意味で本宿と呼ばれ 
桶川宿と鴻巣宿の間、「間の宿(アイノシュク)」として 賑わったという。


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多聞寺

北本駅前交差点~浅間神社~鴻巣市境界・深井二丁目交差点


「鴻巣宿」

江戸から7番目の宿場・桶川宿から一里三十町 
天保14年(1843年)では 
人口2273人、本陣1、脇本陣1、旅籠58軒
の宿だったという。                        

この宿は 慶長7年(1602年)に 
本宿村(現在の北本市の本宿)の宿場を移して「鴻巣宿」とされたという。
人形の町、有名な人形店が軒を連ねている。
江戸時代から 雛人形産地。
関東三大雛市の一つとして繁栄してきた。

本町交差点~鴻巣駅入口交差点~鴻神社~

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加美交差点~(旧中山道・国道365号)~箕田地区~                        静かな農村地帯

箕田観音堂~箕田氷川八幡神社(綱八幡)~

「武蔵水路」
町並みが途切れて水田地帯が広がっています。

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吹上駅前交差点

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「権八地蔵」                                              歌舞伎で 白井権八が ここで 人を殺し 金を奪ったのを見ていた地蔵に
 「このことは 他言するなよ」と話すと 
地蔵が 「われは 言わぬが お主も言うなよ」と言ったところから 
「物言い地蔵」とも 呼ばれているそうだ。

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「久下(くげ)の長土手」                                         「久下の長土手 深谷の並木 さぞや寒かろ寂しかろ」等と謡われている荒川堤防。
熊谷八丁堤とも言われているようです。のどかな景色が広がっています。

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第3日目は 「熊谷宿」まで歩く予定だったが、
久下から「熊谷宿」までは さらに 1時間半程掛かりそうなため
「中山道を歩く」3日目は この辺りで止めることにし 
最寄りに駅JR行田駅に向かった。

午後4時頃 JR行田駅に到着。
約20km歩いたようだ。

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(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)
 


(つづく)


追想 スイスの旅 「ユングフラウヨッホ」

2021年01月18日 19時02分56秒 | 旅行記

外付けHD内に保管している大量の古い写真、コンデジで撮った拙劣写真ばかりだが、その中から引っ張り出して 以前は 「デジブック」にしたりして自分流に楽しんでいた。その「デジブック」も 昨年3月31日をもって無くなってしまったため 写真は またまた外付けHDにしまいこんだままになっている。
改めて 「デジブック」に代わるようなでデジタルアルバムにしたいものだと模索したことも有ったが、いい加減な性分、なかなか手が出ず、取り組めないでいる。
不慣れな動画作り、一度出来ても 直ぐまた忘れ 一から出直し、
もたもたの繰り返しだが 
多少は 脳トレにもなるのかも知れない等と 思い込んで
練習、練習・・・、
テキストもなんとか挿入したが 何故か 表示されない??。
半日以上掛かって ただ写真を並べただけのお粗末な出来、
まっ!いいか!、アルバム代わりに・・・・、
恥も外聞も無く YouTubeにアップロード、

YouTube  「追想 スイスの旅 ユングフラウヨッホ」

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池波正太郎著 「忍者群像」

2021年01月18日 15時32分45秒 | 読書記

図書館から借りていた 池波正太郎著 「忍者群像」(文春文庫)を 読み終えた。本書には 「鬼火」、「首」、「寝返り寅松」、「闇の中の声」、「やぶれ弥五兵衛」、「戦陣眼鏡」、「槍の忠弥」の7篇が 収録されている。


(主な登場人物とあらすじ)

「鬼火」
松尾九十郎(銭屋四兵衛)、おふく、坂巻伝蔵、伴太郎左衛門資宗、織田信長、明智光秀、
織田信長に信頼されていた伴太郎左衛門資宗は配下の忍び松尾九十郎を明智光秀に潜入させていたが、謀反を見抜けなかった。光秀は密書を忍びの坂巻伝蔵に託すが、それを追う九十郎、忍び同士の死闘のすえ・・。30年の歳月が流れ、豊臣、徳川の時代になり・・、「おい、松尾九十郎」・・・。

「首」
岩根小五郎、助七、山中大和守俊房、桜野宮内、
明智光秀を討ったのは自分と思っている甲賀の忍び岩根小五郎は 光秀が生きていると聞き愕然とする。「光秀の行方をたしかめねばならぬ」。裏には甲賀忍びの統領山中大和守俊房の思惑が有り・・、数個の車手裏剣が・・・、「甲賀を離れたものの最期は これじゃ・・」

「寝返り寅松」
小出寅松、飯道弥平太、山岸主膳之助、北条氏邦、山中長俊、お万喜、
豊臣方の山中長俊の配下で鉢形城に潜入していた忍び小出寅松が 仕えていた山岸主膳之助に正体を看破されたことと、豊臣秀吉の小田原城攻めとの関わり、忍び仲間同士の死闘が描かれている。

「闇の中の声」
西尾仁左衛門、弥五兵衛、真田幸村、
甲州郡内地方が領地だった鳥居元忠の配下で 徳川家康の上田城攻めに参加した時 西尾仁左衛門は17歳だった。幸村に迫ったが・・・。「殺すなよ、弥五兵衛」、真田幸村の声を 朦朧とした意識で聞いた。功を焦る西尾仁左衛門、大阪夏の陣では 幸村の死首を・・・、「十年ぶりでござるなあ」、弥五兵衛の眼は笑っていなかった。あの男との4度目の出会いは 声だけだった。そして 仁左衛門は・・。

「やぶれ弥五兵衛」
奥村弥五兵衛、小たま、梅春、加藤清正、真田幸村、徳川家康、
徳川家康は秀忠に将軍職を譲り、大阪城の豊臣秀頼、淀君の扱いに思案中、加藤主計清正が動く。配下の忍び奥村弥五兵衛を真田幸村との連絡に使うが 九度山には 徳川方の見張り忍びの存在有り・・、「さらば、甲賀の敗れ忍びの取る道は一つじゃぞえ」、女忍び小たまの声が途絶えた。

「戦陣眼鏡」
水野監物忠善、笠原助右衛門、
水野監物忠善が 三河国岡崎に国替えとなるが 尾張の徳川義直の動向を監視する役目を 勝手に勘違いし気負い、近習の笠原助右衛門と名古屋城下に潜入、堀の深さ等を調べたりするが 実は 助右衛門は 実は、老中 酒井忠勝配下の公儀隠密、なんとも 困ったちゃん。そんな殿様に惚れてしまった助右衛門は・・・。

「槍の忠弥」
丸橋忠弥、お節、お万津、乗杉七兵衛(岩根十兵衛)、由井正雪、松平伊豆守信綱、
徳川幕府三代将軍家光の時世、丸橋忠弥が乗杉七兵衛という浪人と出会うところから物語が始まる。忠弥は親しい間柄になった由井正雪から 反乱計画を持ちかけられ・・・、結果は・・。「なにもかも うまくはこんだ」・・・松平伊豆守信綱は 七兵衛に言った。七兵衛、実は 幕府隠密岩根十兵衛。


 

 

 

 


「中学生日記より」その5(再)

2021年01月17日 13時29分06秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

「中学生日記より」

「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に 一度書き込んだことの有る「中学生日記より」を 改めてリメイクしてみようと思っているところだ。
「中学生日記」とは 中学生だった頃のM男が ほんの一時期付けていた日記のことだが まさか 数十年後になって ブログで第三者の目に晒されるとは 当時のM男は想像もしていなかったはずで 下手な文章、下手な文字、誤字脱字多しの日記である。


その5 「雪割り」


昭和31年3月5日(月)、天気 晴、起床 6時、就床 9時、

1、授業なし、
 中道の雪割り作業、中学全員、僕たちは 組合、役場前、一番かたいところ、
2、今週は 週番だ、
3.やぶが 氷った(凍みた)、


1、車社会以前の時代である。M男の暮していた北陸の山村では、降雪積雪が続く 12月中旬頃から2月中旬頃までは、道路や敷地内も、今日のように 地面までの除雪する等 ほとんどしないのが普通だった。
村人も 生徒児童も 積雪の上に カンジキで踏み固めた一筋の道を往来するという風だった。
日本海を渡ってくる 強い北西の季節風の影響で 冬季は極めて 晴天の日が続くこと少ない山間地だったが 2月下旬頃になると ようやく春の陽射しが強まり 雪解けが始まるのだ。
この時期になると 1日でも早く 黒い地面を歩きたい思いが強くなるもので 大人も、子供も 敷地内の雪や道路の雪を 少しづつ スコップで掘り進めたと思う。
住民は夫々 自分の家の周りから スコップで 1m幅とか2m幅とかの通路を作り進め 隣り近所の家と繋げたり 次第に 学校や駅まで 地面を歩けるようになるが その仕事を M男達は 「雪割り」と 言っていたようだ。除雪機械等無かった時代、自治体が除雪する等も無く 全て 住民の人手で行っていたのである。この日は月曜日であるが 「雪割りも授業の一環」とされたのだろうか、授業は休みで 多分 教師も 周辺の住民も参加して 村落の主要道路の 雪割り作業をしたようだ。M男達は 村落の中心部にあった役場や農協の前の道路の雪割りをしたようだが 建物の影で日が当たらない道路や踏み固められてガチガチに氷りついた場所で 難渋したのだと思う。

2、1学年1クラス、全校生徒も100人程度の小さな中学だったが 登下校を一緒にする集落毎に班分けされ 順番に 「週番」が回ってくるのだが その週は 「週番」になったようだ。
下校時に、最後まで居残り、教室等構内を一巡し 窓の閉め忘れ等を確認する程度の任務だった思うが 最後に 教員室の前に整列し 担当教師に 「特に 異常有りません」等と報告しなければならず、面倒臭い・・という感じだったと思う。

3、当時 M男達が 「やぶ」と言っていたのは 一面 根雪となって雪原状態になった田んぼの上のことだった。前日 温かく、雪原の表面がやや解けて、夜間晴れて 急激に冷え込んだ(いわゆる 放射冷却)場合の翌朝には、滅多には無かったことだが 田んぼの上(やぶ)が凍みて(氷状ではなく)、その上を歩いても平気な状態に成ることが有った。「やぶが しみる」と 言っていたように思う。
「やぶが しみた」朝は カンジキで踏み固めた一筋の雪道等を歩かずとも、田んぼの上を自由に歩いたり、駆け回ったりしながら 登校したものだ。ただ 農業用水の上だったり、しっかり凍みていない場所等もあって危険であり、大人達からは制止されていたような気がする。青空の下、真っ白な雪原に 朝日を浴びて出来る長ーい影を交錯させながら、登校した情景が思い浮かんでくる。


 


追想「中山道を歩く」その3(再)

2021年01月17日 06時18分55秒 | 旅行記

新型コロナウイルス禍が続く中、最近のテレビ番組等でも、新規番組製作が出来ない等の事情?で、過去に放送した番組を再放送しているケースが増えているようだが、ブログネタも限られてきて、このところ、過去に書き込んだ記事をコピペ、再編集したりしている次第。
「gooブログ」に引っ越してくる前、「OCNブログ人」時代に書き込んだ記事、17~18年前の話、「中山道を歩く」を リメイクしてみることにした


追想「中山道を歩く」
その3 第2日目・「蕨宿~浦和宿~大宮宿~上尾宿」

第1日目 「日本橋」からJR埼京線戸田公園駅まで歩いてから ほぼ1年後の2004年の春になってから、好天の休日、ふっと「中山道歩き」の続きをする気になり、前回の終点、JR戸田公園駅に向かった。。

午前 9時頃 JR埼京線戸田公園駅を出発→「蕨宿」・本町一丁目交差点→(国道17号線)→警察署入口交差点→(旧中山道)→蕨本陣跡・歴史民俗資料館~錦町三丁目交差点~辻二丁目交差点・一里塚跡~六辻・六辻水辺公園~焼米坂~調神社(ツキジンジャ)~「浦和宿」・玉蔵院~慈恵稲荷~(北浦和市街地)~北浦和駅東口交差点~(針ケ谷)~大原陸橋東交差点~与野駅東口入口交差点~「大宮宿」・さいたま新都心駅~大宮氷川神社入り口~(参道・古中山道)~大宮氷川神社~保険センター入り口交差点~大宮警察署~北区役所前交差点~加茂神社~「上尾宿」・宮前駅前交差点~南方神社~氷川鍬神社~JR上尾駅


「蕨宿」
江戸から2番目の宿場、「板橋宿」から2里十町。
江戸時代、幕府は 江戸を護るため、戸田川(現荒川)に
橋を架けず、渡船(戸田の渡し)だった。
 
「蕨宿」は 渡船調整に必要な宿場だったようだ。

 

国道17号から右へ。旧中山道に入ると 
「蕨宿」は 天保14年(1843年)には 
人口2223人、家数430軒、本陣2,脇本陣1,旅籠23軒の
宿場だったという。
旧中山道沿いは、歩道や建物等 時代を感じさせる街並み造りがされている。

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「辻の一里塚跡」

「予期せぬ出会いと旅は道連れ」
辻の一里塚跡で写真を撮っていた時 後方から近づいてきた女性有り。
なんと 仕事関係で旧知のKEさん。
同じコースを 同じ方向に しかも同じ時間に 中山道を歩いていて 
奇跡的に出会ったもので お互い 信じられず びっくり仰天。
思い掛けない道連れが出来て 上尾宿まで一緒に歩くこととなった。

「焼米坂(ヤキゴメザカ)」

兎の狛犬で有名な「調神社(ツキジンジャ)」


「浦和宿」
江戸から3番目の宿場、蕨宿から一里十四町。
天保14年(1843年)では、
人口1230人、家数273軒、本陣1,脇本陣3、旅籠15軒の
宿場だったという。

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ケヤキの大木有り、六国見と呼ばれていた区域。

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「大宮宿」
江戸から4番目の宿場、浦和宿から一里十町。
「大宮宿」は 天保14年(1843年)では
人口1508人、家数319軒、本陣1,脇本陣9,旅籠25軒、
脇本陣の数が多い宿場だったという。

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「大宮氷川神社」
旧中山道が通っていた、欅並木の参道がなんと2km、

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武蔵国一宮、広大な神域、朱塗りの神門社殿、

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高鼻町住宅街を抜けて 国道に戻る。


「上尾宿」
江戸から5番目の宿場、大宮宿から二里。
「上尾宿」は天保14年(1843年)には 
人口793人、家数182軒、本陣1,脇本陣3,旅籠41,
宿場女郎(飯盛り女)数多で大変賑わっていた宿場だったという。

「氷川鍬神社(お鍬さま)」
宿場の鎮守だった神社。今はビルの合間に有る。


午後4時頃、JR上尾駅に到着、
「中山道を歩く」2日目は 約19キロ歩いたようだ。


(「中山道を歩く」(山と渓谷社)から拝借画像)


 

 


あっという間に ピラカンサの実 食べ尽くされており・・、

2021年01月16日 18時55分50秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

つい先日まで まるで見向きもされず 
たわわに付いていたピラカンサの赤い実、
今日 気がつくと 丸坊主になっており、
地面にも大量の赤い実がバラバラ・・、
多分、ヒヨドリが 集団で押し寄せ、
一気に食べ散らかしたに違いない。
今年はまだ 降雪、積雪が無い当地、
周辺の野山や雑木林、川原、畑等に
食料となる木の実や虫が豊富だったのだろうが
そろそろ 少なくなってきたということだろうか。
今日は 日中の気温が 18度前後にまでなり
3月中旬並みの温かい日となった。
明日からは また ぐんと冷え込むようだが
冬来たりなば春遠からじ・・
を感じた1日だった。

メジロもやってきているが 
今年は 緊縮財政?
庭先の餌台に、ミカン、キウイ等を置いていないため
ヒヨドリが食べ散らかして、地面に落ちているピラカンサの実を啄んだり、
裏のお宅の マユミ?の木で 夢中で食事中。
ゴメンネ!、ゴメンネ!、


寒中の好天にやってきたメジロ

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