自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

純粋意識は絵に描いた餅ではない

2014年08月09日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

自然治癒力は純粋意識から   2014・8・9

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自然治癒力が活性化するためには何をしたらよいのか?

という質問を時々受ける。

”私のアートマがこうだと言われても、ピントこないし・・”

”生体の能力を信じたいけど、やはり、薬に頼りたくなる”

”人の話はなるほどと思うけど、自分が同じようにできるかと

言えば、自信はない。”

など、自然治癒力 という言葉は知っていても、それが果たして

何ぞや?となると意外とピント来ない方も多いようだ。

 

 

絵に描いた餅 は 食べられないよ~と生前の父は、20代の私に

よく言っていた。

理想的な世界や心の領域を話していると、観念的だと捉えられることが

多かった。

 

観念的なのだろうか?

現実とは程遠い話なのだろうか?

と当時はまだまだ体験が不足していて、自信を持って

それ以上そのこと(自然治癒力やアートマについて)

を父と論じる気にもなれなかった。

しかし、それから何十年もたって、自分自身の余命宣告や、

友人知人に施術させていただいたアートマセラピーの臨床的

結果から、決して、観念的ではないと言えるようになってきた。

これまでずいぶんといろいろな体験を踏ませていただいたものだ。

 

話しを戻すと、”本来の生体の持つ力”を発揮させるには

私たちの心がけることはまず、純粋意識に還る事と

いえるだろう。

 

純粋意識を、スーパー超越意識、とか、無の境地とか

いろいろな言葉で表現することができるのかもしれないが

それぞれの言葉への理解は人それぞれなので

ここではあえて、純粋意識=アートマ意識と言う言葉で

統一してみたい。

 

この意識は、これまで クリスチャンサイエンスや ハワイの

ホ・オポノポノメソッドなどで取り上げたことがあると思う。

 

自分を含めて、

人を責めない、分析しない、原因追究をしない、決めつけない、

ということを心して、たとえば、瞑想に入る・・・・

いろいろな感情が雲のように流れていくのを、ただ

見つめる・・・その客観的な眼、そして、雲が流れ去って見せる太陽の

光りと青い空、それを認識する眼、さらに 深く入ると、

その何もない大空と太陽の世界が”自分自身の心”であるという

ことが忽然とわかる。

その無限の拡がりの中に溶けていく~そうした境地が純粋意識の

領域だということは以前にもブログに書いたように思う。

 そこには常識的な価値判断基準値は存在せず、

人類が数千年の間築き上げた共通社会通念も存在しないだろう。

ただ、アル、存在する、そこに晴れやかな空間が広がっているという

意識のみだ。

だから、誰がどうだ、こうだ、問題がああだこうだ、という 日常的な

私たちの意思活動からはかなり次元の違うところに入り込む。

その時 体の生命力も 本来備わっている活力を知るだろう。

 

自然と、今の体の状況に何が必要か、コンピューターより精密に

即座に体が対応しようと動き始めるに違いない。

それが、”自然治癒力”と 呼ばれるものだと私は理解している。

 

瞑想が苦手な人もいるだろう。

そうしたら、魔法の言葉(言霊)を唱えればよいかもしれない。

南無阿弥陀仏 と念仏すれば救われるといった高僧がいらしたが

無心でとなえれば、”自分の中の仏性”に触れ得るのだろう。

インドでは 念仏などの唱える言霊をマントラという。

以前ご紹介した ソーハム などの短い言葉から、オームという聖音、

羯諦羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー)から始まる般若心経のマントラ部分、

あるいは、神道でいうところの”お祓い”の言葉、など、

その人が一番心になじむ”言霊”を一心不乱に唱えることは

とても効果的だと思う。

 

純粋意識 というのは 絵に描いた餅でない。

だから、自分では意識していなくても、その資質を十分持っている

人たちは少なくない。

そういう人達の共通点は、

静寂を愛し、柔軟性で寛容、包容力があり、相手に決して嫌な思いを

与えず、それでいて自然に振る舞っているから表裏がない。

一緒にいて、何とも心が安らいだり、不思議と力を与えられたり

やさしい気持ちになったりするものだ。

~ねばならないという気負いがないから、一緒にいて楽だし

気負いがなくてもやることは何となく自然にこなしている。

 

そんな人になりたいと筆者も想うものの、なかなか、我(エゴ)が

顔出しそうになって、反省の毎日だ。

だから その週のテーマなどを決めている。

たとえば、”~しなければいけない”という想いを見つめなおす週と決める。

”朝起きてまず、これこれ、”と 毎朝の日課を”せねばならぬ”から

”気が向いたらする”程度の気楽さでかまえる。

すると、神棚にお榊や水などを備えるときも今までは、

”これをまずしなければ、始まらない”と、無意識に自分を縛るところが

あったのだが、少々遅れても・・と気がむくよう そこそこ進めていくと

自然のペースで楽しみながら?のんびりとできる。

それでいて、決して、一日の朝の時間の有効性が少なくなっているわけではない。

まず、~ねばならぬを 解きほぐす。

すると、5時から8時までの 3時間に、今まで気張ってしていたから

できなければ、イラついたり自己嫌悪になっていたことなどが

不自然に思えるほど、自然の気の向くままの流れに任せて

終わっていく。

いろいろなことが 順不同ではあっても、意外に能率よく達せられて

”この方法で良いのだ”という感じがしてくる。

 

たとえば、

朝の瞑想、ヨガエクササイズ、神棚のお供え、般若心経、祝詞、犬の散歩、

ごみ出し、カメの餌やりと洗濯、金魚の水替えと植木の水遣り 朝食準備 などなどを

3時間の間でこなすことは 気張っている分、ストレスになりがちだったが

何となく気張らなくなった分だけ、余裕が生まれている。

 

こんな気張らない朝の体験でも、それなりの意味があるという充足感につながる。

充足感が ”こうして、毎日同じことを繰り返すことができて、

生きているんだなあ” という感謝を呼びおこして

結局 自然治癒力には、やさしい心持で、”細胞の活性化”につながっていく

ような気がする。

 

ネバならぬ~から ”今を味わう”~ということがこんなことから

始まるのかもしれない。

”今を味わう”ことが なかなかできないほど、いつも どことなく、

せわしない想いと (心の)&(実際の肉)眼をつぶっていてもできるような、”習慣性”で

日々のルーティーンに向かっていることを省みることもできる。

 

 

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