自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

完全なる自分を見出す眼力

2014年08月18日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

 霊力や精神力に頼るなとは?   平成26年8月18日

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ファイル:Nanga Parbat 029.jpg以下の記事は2013年7月9日に掲載しましたが、もう少しわかりやすく

読んでいただけるように、少し手をいれたものです。

 

 著者はしがきから

わたしは1894年に極東を訪れた、11人の調査団の一員であった。

3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。

大師は私たちが 偉大なる法則の働きを、実証されるのを実際に

見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許してくれた。


私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”

と題して、発表するが、そこに盛られた内容を、そのまま受け入れるか、

否認するかは、読者の自由である。

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調査団が紹介された、その方は、年齢不詳のヒマラヤの聖者、

エミール大師の尊敬する大師の一人だった。

エミール大師と同様、その方も、一見、日常出会っている

人たちと少しも変わることがない風情、いわば、普通の人である。


それでも、隊員達は、師には、その方を覆う、何かしら、遥かに

精妙なものを感じた。

それを言葉で、表現すると、その大師はこう答えた。

 

“それ(精妙なものを感じる理由)は、人間の可死的な部分を、

不可死の部分と比べるからです。

もし、皆さんが(すべての本質として潜んでいる)、神の性質

(実相)のみを見て、(表面上の)現象と現象との比較を

しなければ、ちょうど私に対すると同じような観方を、すべて

の人たちにすることができるでしょう。

 

言い変えれば、すべての人々の中にキリスト(神性)を求める

ことにより、その人たちの中にある、キリスト=神なる実相を

描き出すことになりましょう。”

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 

” 私たちは決して比較をしません。”

”私たちは、常にすべての人々の中にキリスト 即 神なる本質 

を見るだけです。

その意味では、私たちは 皆さんの’肉眼の視野’の中にはないわけです。

 

私たちは、人の実相なる完全さを見るのです。

言い変えれば、私たちには 完全な眼力~視力 があります。

 

ところが、皆さんは、他人の不完全な相を見ている、即ち、

不完全な眼力しか持っていない。”

ここで この大師は調査団に教示している。


完全な眼力とは 人の実相なる完全さをみることをさし、他人の

不完全な相を見ている限り、不完全な眼力でしかないという。


さらに、表面上に現れている(現象面)ことを見ないから

大師たちは比較をする対象はなく、実相のみを見る完全な眼力で

一元の世界(大本には一つの善、生命力、愛、智慧 があり、

そこから万物は派生している世界)をとらえているだけだと

いうのだ。

 

”このように、私が言うことを聴いても、あなた方が立派な方

に接して、その教えを受けるか、ただ今のように、私たち

(普段は下界で生活することのない)を見たり話したりのできる

ところまで意識を高め得ない限りは、私たちの教えが何か

わからないでしょう。


ただの、インスピレーションを受けたみたいにしか思えない

でしょう。

しかし、私たちが誰かと語るとき、あるいは語ろうとするときは、

インスピレーションを伝えるのではありません。”

 

”それは 本当のインスピレーション が受けられるようになるまで

導いていく、一種の教えなのです。” …略…

 

すべて、神の手にゆだねず、人間の我の手に、移すときに色々な

問題や困難がおこるのです。

私たちが 少しもあなた方と異なる者でないことは、先ほどに

言った通りです。

異なるのは理解の仕方だけであって、ただ それだけです。”

 

”総てを神にゆだねる”、 概念ではわかっても、どのように現実生活

の中で、それが可能であるのか?


修道院にはいらない限り、神にゆだねる生活は経済的・現実的では

ないと思う方もいるだろう。


ここで 大師がいう ”神にゆだねる” とは決して、現実生活を放棄

して、神様助けてください と祈る生活ではない。

神とは私たちの中にある生命力 私たちを生かそうとする愛、

私たちの本質的な絶大なる力や意志力などの総称であると考える。


そして、大事なことは ”比べない”と語った大師の言葉にある

ように思う。

現象面に覆われて隠されているが唯一のリアリティー、真実、現実

つまり私たちは本来,光,同様、この上なく自由で明るく、闇を制覇

するものであるという認識と 信念を持つよう努力することなのだ

と思う。

 

 ”いろいろな 違う主義、教え、教条、あらゆる角度のあらゆる

宗教は、本来は皆善なのです。

なぜなら、それらは、いずれも終局において、一切のものの底には、

今日まで 把握し損ねた実存というある深き因子、触れえなかった

もの、本来 おのれのもので 正当に所有し得る、また、正当に

所有すべきあるもの、が存在するという悟りに導くからです。”

 

”まず、想念が 神の意識から人間の意識の中 に直接押しだされ、

先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に、何かがあることが

わかる。

 

ところが、ここで人間はたいてい、過ちをおかして、この想念を

もともと 自分のものと誤認してしまうのです。

 

こうして、彼は神から離れ、神の完全なる表現の媒体となる

代わりに、自我流を冒し続けて 本来完全となるべきものを

不完全な表し方にしてしまいます。”

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

”すべて善き想念は神の直接、完全なる表現です。”

 

 ”人間が学ばねばならない重大なことは、霊力や精神力 (*1)

とは永久に縁を断ち、直接に神を表現することであります。(*2)

 

霊力というの、すべて、人間自らの創りだしたものであり、

ともすれば、人を誤らしめるものであります。“[145148 

 

”霊力や精神力と縁を立つ”という意味?


”自分で何かを成し遂げた”

”この霊力は自分が人よりスピリチュアルということだ”という

”小さな我” の自負するような自我の助長をもたらす精神力や 

霊力をいうのだろう。

 

こうした資質は、最終的に放棄しなければならないのかもしれない。


霊力も精神力も、常識的な意味とは相反して、ここでは 自我の力と

大師は理解しているのだろう。


人は、最後は、”自分が”という 自分 に、捕らわれた概念すら

なくなり、自分の個性を持ちながら、大いなる生命と愛の海原

にたどりつく。

この時、すでに、気張る心(精神力)も、霊力 も必要なく、

そのまま、自分自身 であり、真の自我、リアリティー、

そのものであるに違いない。 


その時こそ、真の眼力に目覚め、真の(地上的でいうところの)

霊力をもつに違いない。

さらに、何よりも大切な、愛と喜び、いわゆる至福を味わう瞬間の連続

となるだろう。

 

 ファイル:Nanga Parbat 029.jpg

 

直接に神を表現すること”、と大師のいう神は、特定の宗教上での

神をさしてはいない。

大師は、神とは ”法則であり、かつ、人間の概念でいえば、

愛である” ともいう。


私たちが 本来の”幸福で心身健康な生活”の基盤となる健康な身体を

保持できるのも、生かそうとする(神=リアリティーの)法則に則って、

体の中の細胞隅々で、自然法則が正しく機能しているからに他ならない。

 

大師のように、年齢や時間 空間を 超越して存在できる生命に至る

までは長い道のりがかかるかもしれないが、だれでも、それを達成

することは可能であり、それが、即ち、神を 表現すること~と 

大師は意図しているのだろう。

 

参考)

ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻

S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 空の神秘~読者の方の投稿です。 実物はもっと美しいのだと思います。 日没時の情景。

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