平和な地球と恐れの撲滅 2014・8・21
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8月18日ブログ内容の続きともなっている。
1・ 私たちは決して比較をしません。
私たち(スダ注:大師たち)が比較をしない
というのはどういうことなのだろう?
私たちの社会では常に比較対象しながら、改善をはかり、
反省に反省を重ねて、進歩がみられると思われている。
健康に関してもそうで、健康な人のそれぞれの機能の
基準値が定められ、比較することで、基準値より、
高い低いでそれ相応の処置をとることが常識だ。
このように、私たちの生活レベルで比較しないで
いること~はまず、難しい。
大師がここで言っている比較 とは 何を指している
のだろうか?
私たちの人間性について限定して 使われているの
だろうか?
あの人はまだまだだ…未熟だ…よくできている…・
私の方が~だ・・・
兄弟でも性格がこうも違う・・・などなど、比較を
して相手を評価することが、その人の本来の資質を
限定してしまう。
人はそれぞれ異なる個性でその奥には ’大我’という
素晴らしい資質を持っている以上、そういう表面的な
現象をみて、比較すべきでない~という意味なのだろうか?
しかし、もしかしたら、比較対象は人間だけでなくて、
この世の中に存在する、生きとし生けるもの、あるいは、
無機質に見えるモノ、あるいは、目に見えない資質など
すべてを含んでいるのだと 読み直してみると思えてきた。
宗教一つとってもいえることだ。
~教は ”こうでああで、他の~教と比べれば こういう
ところが ああなのだ。”と比較や分析をして、この宗教では
”だから、救われない”とか、”救われる”とか論議したり、
ましてや”正しい” ”正しくない”で 裁きあっている現実。
いかなる場合も、争うことの原因は ”比較すること”
から来ているのだ。
自分の信念と、価値観と、正義か非正義か、善か悪か、・・・・・
宗教はすべて善である~とも大師はいう。(*3 に述べる)
大師は、どんなものに対しても、”比較をしなければ”、
本当の眼力が開けるとも語る。
現象から現象を超越した本質へ、表面から内奥へ、
意識や分別から 超越意識とアセンションされた世界へと
心の眼を移しなさいと 暗に述べているように思える。
2・宇宙の創造時には たぶん 想念のエネルギーが動いた
大師が語るこの一言。
何かが生まれるという背景には、必ず、そこにエネルギーある。
存在させるためのエネルギーは物質的なモノではなく、それを
実現(創造)させようという、”想念[思念]エネルギー”がもとに
なっているという。
旧約聖書で 創世記の中に、人は神の似姿として創造された
とある。
神の創造性と人間の創造性はそういう意味ではスケールが
違うにせよ同一のものだと大師は言う。
人間の ”創造しようとするときのエネルギー想念” は
本来、神の天地創造の原理に生かされたエネルギーと
同等のものと大師は考える。
しかし、現実世界では、物事は思うように、簡単に展開し
現実化しないものだ。
その理由を大師は次のように述べる:
”まず、想念が 神の意識から人間の意識の中 に直接押し
だされ、先へ先へと進んでさえおれば、きっと前途に、
何かがあることがわかる。
ところが、ここで人間はたいてい、過ちをおかして、
この想念を、もともと 自分のものと誤認してしまうのです。”
つまり、人間の中に植えつけられた 神の資質である、
”愛や善”、”調和の念” と 人間の心が直結しないから、
宇宙の意思のとおりに物事が運ばない。
人は考えて希望し、願いのままに生み出したいと欲する。
ところが、その欲望が 自分自身(小我)の ”想い”
から発せられているのなら、他者を踏みつけても、
満たしたいと願うだろう。
すべては自分のため。
自分の利のため。
この場合、”自分”を第一義にする 人間の小我癖によって
宇宙~地球も含めて、私たちの内外(周囲)に満ちている、
本来のパワフルな創造的エネルギーの波動と合わなくなって
しまったというのだ。
3. あらゆる宗教は、本来は皆善
大師は言う:
”なぜなら、それらは、いずれも終局において、一切のもの
の底には、今日まで 把握し損ねた ”実存 ”という、ある
深き因子、触れえなかったもの、本来 おのれのもので
正当に所有し得る、
また、正当に所有すべきあるもの、が存在する という
悟りに導くからです。”
とはいっても、どんな宗教を選んでも、選ばなくても、
いつか、必ず人は”善なる自分の本性”に行きつくと
大師は信じている。
人間の生み出した 宗教 は だからこそ、皆 善きなる
ものと結論できる。
その行きつく先は善に 他ならないから。そして、大師の
冒頭に述べた ”比較しない” という言葉どおりに
宗教の優劣を論じるのは矛盾に満ちているというものだろう。
狂信的新興宗教や、オーム真理教など、世間を騒がせ、
危害を与える組織はどうなのだ?と 問う人もいるだろう。
羊の皮を借りた狼のように、宗教というヴェールで本質を隠し、
小自我(パワーや自負心、プライドや名誉を求める)を満たす
獲物を虎視眈眈と狙っている狩猟動物のようなものかもしれない。
兎の皮をかぶった虎の子(狩猟動物)に
”何故お前は 兎のような温和な愛らしい癒しを与える
存在ではないのだ” と言っても、意味がない。
狂信教的宗教集団が善でないということはたやすいが、
その集団をつくっている人達一人ひとりにもアートマがある。
大師のカンガエでは、それも承知した上のことかもしれない。
狂信的な宗教の罠にはまっても、ある意味、一瞬の
”迷いの閃光”のようで、必ず、いつか、自分の本質 に
目覚める日が来て、本来の魂の路線に戻ることを大師は
知っているのかもしれない。
たとえ、数代の人生の輪廻が必要としても・・・だ・
死んだ人達は?
例えば、オウム真理教の犠牲になって、サリン事件に
巻き込まれた人達は?
大師は言うだろう・・・
所詮魂は生き通しだ。
これもまた、裁きは地上の法廷の話で 宇宙の営みの中では
廃棄される魂というのはありえないのだ~と。
必ず、更生され、犠牲になった魂もより高い次元へと飛翔する
チャンスが与えられている(いく)のだろう。
一口で宗教と言ってもさまざまだ。
大師が述べるようにすべての宗教が善であるとは 信じがたい
かもしれない。
信じる方も選択する責任が当然あるのだろう。
真理は必ずしも宗教にあらず。
宗教は必ずしも真理に非ず
そこの舞台の裏のからくりはあまりにも 深淵すぎて筆者も
想像すらできないのだ。
一切のものの底には、今日まで 把握し損ねた実存という
ある深き因子、があると大師は言う。
一切 とは 総て。
総てのものには、誰もうまく把握できないが、確実の存在
する因子、つまり実存なるものがあるという。
実存(ほんとうの自分)に還ろう、実存とは何か?
掘り下げていこう。
実存を知り さまざまな不幸の素になっている、
恐怖を無くそう・・・・
一人ひとりの こうした気づきの中に、それぞれの
立ち位置で 心地よく生きていける 平和な社会・・
の下地が造られるはずだ、
地球という大地の母が 原発の大気汚染や海水汚染、あるいは
森林の見境ない伐採などの 不安をかかえず、 安心して
地球上の、生きとし生けるものをやさしく抱擁してくれる世界・・・
を創造するためにも。