現象世界で生きて死んでそれで終わりでない私たちの生命 2014・10・2
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私たちは身体をもって地上生活を送っている。
ユクテスワ師によると、こうした日常生活の中でも 幽体や観念体は無意識の中に
私たちの行動を作動しているという。
例えば、五感の感覚が起動しているとき、食べたり、聞いたり、嗅いだり、
触ったりというときは、肉体が作動している。想像したり計画したりするときは、
おもに幽体が作動している。深い思索や内観、瞑想などのスピリチュアルな活動の時は、
観念体が主体的だという。
だからユクテスワ師の言葉によれば、人間は“官能的人間”、”知能的人間“
”霊感的人間“ に分類される。ヒトの意識について言えば、目を覚ましている
16時間は自己意識は“肉体”に置かれ、睡眠中は幽体、もしくは、観念体にあるという。
夢を見ている時は幽体にあるので、幽界にいる人のように、夢の中でいろいろなものを
想念で作り出すことができる。夢を見ないほど、熟睡しているとき、眠りが深いときは、
観念体に意識を移している場合がある。
この場合は短い睡眠でも、十分心身疲労の回復に役立つ。反対に幽体に意識が在る
場合は 疲労回復力があまりなく、逆に悪夢などみて、疲れてしまうこともたまには、
あるかもしれない。
最後に肉体死後復活して、幽体でありながら肉体の衣をまとって、ヨガナンダ師の前に
姿を現した、ユクテスワ師は愛弟子にこう語った。
“ヨガナンダ、私は今お前に私の生と死と復活に関する事実を語った。
私が肉体人間の住むこの神の夢(須田注:リーラの世界)にすぎない地上界から
幽体をまとった魂たちのすむ、同じ神の夢である、幽界の星に復活したことを
広く人々に伝えなさい。
そうすれば、夢の死に怯えたり、嘆き悲しんだりしている人の心に新しい希望が
わくだろう。“
このメッセージは死におびえている人達だけの朗報ではないだろう。
筆者が読んで印象を強くした点は、今現在、肉体と幽体とアートマ体を備えて
生きている私たちも、この地球に居ながらにして、幽体の資質をもっと強めて、
日常に生かすことができるということだった。
幽体人たちは3つの眼をもっているとユクテスワ師は語る。
第三の眼というもので額の中央に垂直方向についている。
地上人と同じく、目 、耳、鼻、舌、皮膚などの外面的感覚器官を備えているが、
感覚情報は”直覚”で経験するという。
つまり、目は必ずしも見る機能だけを持つのではなく、耳や鼻や皮膚を通して
みることもできるというのだ。目は聞くこともでいるし、舌も同様、食べる事
味覚のみの働きに限定されていない。
第三の眼[霊眼)が開けた僧に、かつてインドで会ったことがあるが聖者は
私の言葉を聞くまでもなく、過去に起きたことを、第三の眼でみていて、
その時点での軋轢や不満などを第三の眼で聴いていた。
そしてしかるべき忠告を、与えてくれた。
その対面の間、わたしが話したことといえば、”ナマステ”(こんにちは)と
”ダンヤバード”(ありがとうございました)という挨拶以外には、最初から
最後までほとんど無言で、僧侶(スワミ)の言葉をただ、聴いているだけであった
と思う。その時、高僧からの私への質問は何もなかったのだ。
”何を聴きたいか?”ということも問われる前にすでに知っていらした。
だから、高僧は心の赴くままに話し、その答えを出してくださった。
第三の眼とは誠に不思議なものだと感を深くした体験だった。
ところで、地球人の肉体は常に傷つきやすく、事故や危険から障害を防ぐために
服などで防御されている。ユクテスワ師の肉体の衣を脱いだ後に、選んだ星では、
住人たちは、”精妙で希薄な幽体は時には、肉体のように切り傷や打ち傷を
つけることがある” そうだが、彼らは想念の力~エネルギーで”治そうという
意思を働かせることによって、ただちに治してしまう”と、ユクテスワ師はいう。
一方、地球に生きて肉体を維持する我々も、瞑想や内観でこの第三の眼を
開かせることはできると 現代のヨギの大師は教える。
そして、第三の眼を開くのと同時に、幽体のパワーを全力に開けば、すでに
内在している、アートマエネルギーを駆使して肉体細胞の隅々を活性化して、
新陳代謝や浄化作用を促して健康な状態を保てるはずである。
幽体になったら この地上人として持っていた魂の個性はどうなるのだろう?
ユクテスワ師は教える:
”過去世において、愛したものの外観がその後、幾生涯の間に変化しても
幽界人はその正確な直覚を用いて相手を見分け、自分たちの新しい幽界の家に
向かい入れる。なぜなら宇宙のあらゆる原子には、消すことのできない個性が
与えられているからだ。”
それはちょうど、役者がどんな役柄を演じても、服装を合わせて変えても、
その役者の持ち味はアイデンティティとして我々には理解できるので、役者の
個性までがその役柄でわからなくなるということが無いのに似ている。
そうは言っても、誰でも あと~日の命です・・と宣言されたら、今与えられ
ている命を懸命に生きようとできるのだろうか?
執着を感じ、この世から離れ去りがたく思うものなのか?
ユクテスワ師も 幽界人の死について語り、
”幽界人はその光の幽体を脱ぎ捨てる際に、死と苦闘する必要がない。
だがそれでも、多くの者は、より霊妙な観念界へいくために、
着なれた幽体の衣を捨てなければならないと思うと、いくらか心残りを
感じるものだ” と言っている。
肉体人間、幽体人間にしろ、”体”をまとっている以上はそういう執着感は
多少なりともつきまとうものなのだろう。ユクテスワ師が述べるように、
”魂は本来、姿や形を持たないものであって、身にまとう衣、すなわち、
体を持つことによってのみ、識別される。しかも、一つでも体を持っている
ということは、また、満たされぬ欲望があることを意味している。”
充たされない欲望、ユクテスワ師の師匠であるラヒリ・マハサヤ師でさえ、
最期の"欲望"を果たせぬまま、ババジの弟子としての前世を終わり、今世では、
再び、目の前に現れた師ババジがその欲望を顕現せしめて、マハサヤ師のカルマ
を取り去ってくれたというエピソードを先回ご紹介した。
マハサヤ師には”荘厳な宮殿を一度見たい”という密かな願いがあったのだが、
たぶん潜在意識の奥に埋もれていたのだろう。
それを空っぽにしない限りはまた体をもって生まれる宿命を否めなかったのだろう。
それを知る、師のババジだからこそ、’お前の、最期のカルマをとるために’ と
マハサヤ師のためにヒマラヤ山中で宮殿を出現させたと ヨガナンダ師の自叙伝には
記されている。
まさに、からだ(身体)を持っている我々には、カルマが残っているという
ユクテスワ師の話は、マハサヤ師をもってしてもそうだった・・・と納得する
とともに、聖人君子に見える人格者でも、もしかしたら、潜在意識の奥深く
に眠る多かれ少なかれ、物質的欲望がまだ、くすぶっているの
かもしれないと思うと、愛おしい存在のようにさえ感じてしまいそうだ。