自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

クリスチャンサイエンスのいう、果実とは?

2015年01月12日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

果実を結ばない木  2015・1・12

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実をもたらさない木は刈り取られる。

果実園の話だけではなく実際、

この世に生きている私たちの人生を果実に

喩えるのなら、果実のならない

生き方は切り落とされるという

ことになるのだろうか?

 

もう少し果実という言葉を吟味したい。

香しい花が咲き、蜂や小さな鳥たちが

花粉を散らして、雄蕊とめしべが合わさり

果実ができ、そして、そこに次代を

になう種が造られている。

私たちの人生も、たゆみない

地道な努力のあとに華々しく

活躍する時代があり 家庭をもち

子供たちが生まれ、そして

引退して静かな安穏な余生

を送るのが好ましいとされている。

 

果実を結ばないとは、こうした

生活をさしているだけでなく

もっとここでは深い意味が隠

されている~と賢者は考える。

 

それは、家庭をもっても、

もたなくても、子供がいてもいなくても、

適応される真理を含んでいるからだ。

そこでの果実という言葉の意味は、

何だろう?

飛躍して結論を言えば、

”自己内在する神性に適合した人生”

を送ってきたかどうか

ということになるらしい。

子供を愛するのは慈愛でもあり、

本能でもある。

他人を愛するのは、慈愛である。

自分を犠牲にしても他人を救いたい

とおもうのなら、これは無我の愛である。

本能なら、自分を守りたいと

思う心が先立つだろう。

誰でも自分は他人より大事だし、

他者はともかく、自己の命を真っ先

に救いたいと思うのが人の性(さが)

でもあるのだろう。

他者への愛から、この無我の愛

で行為したとき、自己内在の神性が

喜ぶ。

一方 人の心には、

他人から何か害されたら、報復したい

と思う気持ちもある。

子供を殺された親は 犯人は死刑

になるべきだと思う。

そんな状況の中、”相手を赦せ”とか 

”右の頬をたたかれたら、

左の頬も差し出せ” 

という言葉など到底納得できないだろう。

だからこそ、”赦す”こと、これが

愛と同様、最も難しいことなのだ。

神は 総てを許している。

あなたは悪人だから太陽に当たる

権利はない~ということもない。

無条件の愛と赦し、二つの実践が、

私たちに内在する”神性”から

くるということは疑いようもない。

 

無我の愛と赦し、この二つの神性は、

二極化した価値観のある人の世界では

なかなか、実現できない。

政治の舞台でも そのような甘い認識は、

日本の安全を脅かすことになると

考えられるだろう。

たとえば、尖閣諸島に もし、中国の漁民たち

(実際は兵士でも)が上陸しても

許せとは誰も言わない。

しかし、

”形而上的癒し”を求めるならば、政治社会

や常識を超えて 二つの神性な心的

要素は不可欠になる。

秀吉が辞世の句を残した。

贅沢三昧をつくした 金の部屋をあしらえた

城の一室で”夢のまた夢” と自分の人生を

振り返って最後の一句を読んだ。

魂が今こそ、身体から出て行くその瞬間を

予知した秀吉の脳裏には、自分の闘ってきた

乱世の戦いの数々の場面が浮かび

上がったことだろう。

それらはすべて壮大な”国取物語”の

夢の一片の舞台にすぎなかったのだと、

悟り知ったことに違いない。

死の床では誰でも平等だ。 

幸いに布団の上で死ねるのなら、一枚の布団と

一つの自分の肉体と、それを見つめる

魂しかその人には残されていない。

秀吉という名前は 日本の歴史に残った。

だが、宇宙の営みの歴史の中に 

秀吉の生涯が、どれほどの価値があったのか

ということは神のみぞ知るのだろう。

果実を結んだ生き方だったのか否か?

 

クリスチャンサイエンスの創始者エディ夫人

は次の用に果実のならない木のことを

次のように書いている。(*1)

God is Love.” More than this we cannot ask,

 higher we cannot look, farther we cannot go.

To suppose that God forgives or punishes sin according

as His mercy is sought or unsought, is to misunderstand

Love and to make prayer the safety-valve for wrong-doing.

Jesus uncovered and rebuked sin before he cast it out.

Of a Sick woman he said that Satan had bound her,

and to Peter he said, “Thou art an offence unto me”

He came teaching and showing men how to

destroy sin sickness, and death. He said of the fruitless tree,

“ It is hewn down.”

 

協会訳)

“神は愛” なり。

これ以上の質問はできないし、

これ以上高いものを見上げることはできない。

さらに、これ以上 先にはいけない。

神の慈愛を求めるか求めないかで 

私たちへの赦しや罰が決まるとするのは

神の愛を誤解している。

それは、悪い行いへの安全弁として

祈りを捉えていることだ。

イエスは人が罪を取り捨てようとする

前に、暴露して叱責した。

病んだ女性に、イエスはサタン

(悪魔)が取りついていたと言い、

ペテロには “汝は私に逆らうものだ” 

と言った。

イエスはこうした病や死に対し、

それをどのように滅ぼすべきかを

教えるためにこの世に来られたのだ。

だから、イエスは 果実を結ばない

木に対しては“切り取られるべきだ”

と言ったのである

 

聖書の中に出てくる有名な話だ。

一つは病んだ女性を癒し、さらに、

死の床についていたペテロを生き返らせた

と言う話がここに出てきている。

病んだ女性に対しては、サタン、

つまり、悪のエネルギーに体が縛られていると

いう言い方をして、ペテロには、

死をイエスは認めないのだから、

自分に逆らった行いをしていると

叱責したのだ。

それによって、ペテロは生きを吹き返す。

 

ここで、果実 の定義が出てくる。

つまり、真理、ほんとうに存在する

ものは何なのか?~を考えなければ

ならないということだ。

存在しているように見える悪ではなく 

本来 そこに実在している”善”、

そして 物質は必ず朽ちるという”死”

ではなく 物質を生かしている”生命”

への新たな認識である。

これを、私たち人間の本性の特質に

重ね合わせる、

すると、本質である”神性”~アートマ、

魂、に帰るという内側への向き合いが

生まれる。

まず、これが、果実を結ばせることの

第一歩の心の振り向き方になるのだろう。

そしてそこから得たものが 肥やしになる。

自己の本質が満足できる果実を 

いつかは、実らせるのだろう。

それこそが、刈り取られる身体 

ではなく、永遠に生かされる 魂 に自分を

重ね合わせるのだと、エディ夫人の

メッセージは語っているように思う。

形而上の癒しとは、愛と赦し を

基盤に、自分の神性意識に戻ったとき、

外見では自然と本来の完全に近い

健康に戻ること、

内見では 安らぎで恐怖心のない

調和と愛の波動に

限りなく近づくことをいうのだろう。

 

 

 *1)”Science And Health With Key 

to the Scriptures ”

by Mary Baker Eddy 、 

1982、

   Boston,

The First Church of Christ Scientist

 

 

 

 

 

 

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