自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ボースと新宿中村屋、父の恩人

2015年03月12日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

I was a fighter.... 12th March 2015***********

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 前回からの続きです;

命を救われたボース、その時29歳。 彼らを命がけで、匿(かく)

まった相馬愛蔵氏(新宿’中村屋’創設者)(写真上左)の心意気も

さることながら、妻の黒光氏の勇気も、中島氏の著書から知ること

ができた。

当時の黒光氏の感慨が記されている;

”(相馬1963;181) 

とにかくこのインド人を匿ったということは、政府がしないことを

こちらがあえてしたのであるから発覚すれば問題は大きい。

我々は何らかの処置に服さねばならないだろう。

その時は当の責任者として私が出頭しよう。

何故といって、二人を匿う部屋のこと、食事のこと、

その他一切の身辺わきまえるのは主婦なのだから、

それに私が捕らえられて家に居なくても、子供たちの

世話をしてくれるあるし、商売は本郷以来

【須田注;中村屋一号店は文京区本郷にあった】

私の名義のままで、それはちょうど、私が勝手な

振る舞いをできるという証拠にもなる。

相馬は’どうも、家内が出すぎたことをして’

そう言っていればすむ。

そうすれば商売にも影響はない。”

 

この言葉から、黒光女史の覚悟が伺える。

一般主婦でありながら、相馬黒光氏妻としての女傑ぶりを感じる。

政府にいわば抵抗する形で インドからの亡命者を命がけで守ろうと

するのだ。

ボース氏も命がけなら、匿うほうも命がけの覚悟が必要だっただろう。

 

日の当たらない 店の裏の、離れの6畳と4畳半二間の狭いれ家

ボースたちは数ヶ月の間、公の場に姿を見せず、外出もせず、

屋内生活を余儀なくされていた。 

銭湯にも行けないから、台所で湯を沸かし、せまい勝手場で

体を拭くのみだった。

ただ唯一の楽しみが、小さな台所で材料を買い求めて運んで

もらい、自ら創る郷土のカレー料理だったというボースだった。


それが 後の中村屋の代表的メニューとなった、

インドカリーの原型なった。

 

当時、多くの文士や文化人たちが中村屋のサロンに集まっていた。

井伏鱒二(いぶせますじ)は次のように記している;


”中村パン屋は新宿街におけるヌシみたいなものである。

いかなる意味からしても、立派な貫禄が具わっている”

 

'新宿’と題されたエッセイの一節だ。中村屋サロンには 

日本を代表する彫刻家・萩原守衛を初めとして高村光太郎や、

岩波書店の岩波茂雄、女優の松井須磨子など、大正期芸術文化

を担う人たちが集まってきていた。


そうした固定客の間には、喫茶部を要望する声もあり、

それから12年後にはボースの発案したカレーが、中村屋の

店内で一般向けに出されるようになり、好評を博すようになった。


文化人たちのみならず、新宿で中村屋のカリーとお茶を楽しむ。

それがハイカラな時間の過ごし方にもなったようだ。

 

後にボース氏は 相馬夫妻の長女 俊子と結ばれた。

頭山満氏の たっての頼みだったという。

相馬夫妻の長女俊子を、この革命の志士に嫁がせるのが、ボースの

身の安泰を計るベストな策だと考えた。

ボース氏と俊子にとっても 頭山氏が間に入ったこの結婚話を受け

入れないことはなかなか難しかった。


たとえ、ボース氏が日本女性と結婚すれば、ますますインド

に戻ることの難しさを容認せざる得ないと自覚していても・・・

だ。

 

そして、俊子にとっては、波乱万丈のボース氏の人生をともに

歩むことは、時には、命の危険を覚悟することを考慮しなけれ

ならないとしても・・・と双方命をかけての選択をせまられた。

 

しかし、俊子は決断した。

二人はこうして、頭山満氏の邸宅内で誰にも知られずにひっそり

と式挙げた。

俊子はインド革命家と結ばれた後も ひそかにボース氏を

捕らえようするイギリスに雇われた探偵たちに悩まされた。

ボースをインド政府に付きだそうとする探偵たちの目を

逃れるため短い間に、点々と住居を変えざる得なかった。

 

その場所も、普通の住宅地と異なり崖下の地や、日の当たらない

など、周囲に怪しまれることが少ない立地で、人気のない所が

だったという。


それでも、二人の子供に恵まれ、仲睦まじく暮らしていたが、

そうした日の当たらない陰気な家での長い生活は、恵まれた

生活を送ってきた俊子にとっては、不慣れで、過酷であったに

違いない。

肺炎を引き起こし、わずか28歳の若さでこの世を去ってしまった。


臨終の床では、夫のボースは、俊子のそばにつききりになり、

ボースが俊子の枕元で、懸命に唱える、ヴェーダのマントラ

を 聞きながら、かすかに口を動かし、一緒に唱和して、

最後の息を引き取ったという。

 

その後 再三にわたり、周囲から 再婚を進められたボース氏

だったどんなに、条件の良い相手であっても断った。


”あれだけの愛情を他の女性に持てると思わないし、

相馬夫妻を未だに父母と慕っている” というのがボース氏の

答えであり、心情でもあった。

 

’あれだけの愛情は持てない’と語った裏には、ある小さな事件を

さしていた。

頭山氏からの押し付け的な結婚で結ばれた俊子に対し、ボース氏

は自分への愛情を疑っていた。


仕方なく無理やり一緒にさせられた可哀そうな日本女性と

いう想いが、彼の心に残っていたのかもしれない

 

ある日、その思いはついに極点に達し、俊子にこんな質問

をした。

ほんとうに貴女は私を愛しているのか?

愛しているのなら、この欄干から下に飛び降りて死んで証明

できるのか?”


すると、俊子は口をつむぎ、まじめな視線を前に向けて

欄干めがけ走り、そこによじ登った。

まさに、今にも下に飛び降りようとしたという。

あわてて、それを引きとめたボースは、彼女の生真面目な

ひたむきの愛を納得したという逸話が残っている。

 

さて、こうした時代的背景を考え、ボース氏と中村屋の

相馬夫妻との係わり合いを改めて考えた。

さらに、私の想いは、若かりし青年だった私の実父の、

中村屋の相馬氏への崇拝と重なった。(写真上右が父)


若き青年で、夢と希望にあふれた父が、相馬愛蔵氏に初めて

会った時は、すでに戦後の平和な時代

父は相馬氏の著書を読み、ひたむきな、実直で誠実な、商業道

に感銘を受けた。

父は、相馬氏に、たびたび、連絡を取り、教えを乞いた。

その熱意を買われ、相馬氏から、父に中村屋で働くことを勧められた

が、次のように答えてお断りしたと、父から聞いた。


”自分は、お客様に頭を下げるのは良しとしますが、上司に頭

を下げる人生を送りたくないのです。

私のような人間は、会社には不向きなので、お断りいたします

と返答したそうだ。


そして、東京で、最も老舗の薬屋の娘だった、母と見合いし、

その仲人を相馬氏が務めてくださった。

上の写真は、その時の、当時の中村屋サロンである。

そこで、両親は、結婚式と披露宴をした。

 

父は人生の師として 心から相馬氏を尊敬し、心の

よりどころにしていた。

相馬氏を支えた妻黒光氏とともに、時代の潮流に逆らい、

自分たちの信念で危険を覚悟に、一人のインドからの

独立自由運動の、亡命者をかくまい、娘を捧げて、護り

ぬいた中村屋創立者の両人。

 

歴史に翻弄されたかのように、お嬢様と、ご両親とボース氏

の繰り広げた、一連の人間臭いドラマと、その後の父と相馬氏

とのかかわりあいの中に、私は生まれた。


不思議なことに、今現在、インド・ニューデリーの、

ボース氏と志を同じくする、独立運動志士たちの、隠れ家的

たまり場だった地区に気に入ったアパートを見つけ、そこで

生活をしている。


住所は、まさに、freedom fighters' colony

【自由の戦士たちのコロニー)とついている。

広いこのコロニーの一角には インドで、最も有名で尊敬を

集める独立の戦士チャンドラボースの銅像もある。


こうして考えていくと、人とのつながり、運命的な回り合わせ、

すべてがつながっている実感を覚え、しみじみと、相馬氏

ご夫妻の人生を回顧するきっかけにもなった。


さて、最後に、ここに、ボース氏が残した言葉がある。

I was a fighter.  One fight more. The last and the best."

(須田訳;私は闘志だった。 

もう一つの戦いを今。人生最後で最高の闘いを。 )


私たちもこの平和な時代、結局 人生のファイターなのだろう。

自分の中に潜んでいる最大の敵と戦う事も、一つのfreedom fighter

の姿なのかもしれない。



 

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参考;"中村屋のボース“ 中島 岳志(たけし) 白水社 2008年

 

 

 

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