自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

イスラム と 自由意志

2015年03月27日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

 形而上的癒しの根源~イスラム教から(5) 2015・3・27

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前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんど、私はイスラム教

に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的行事に参加することは

なくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、断食をし、日々5回の祈りを

捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残されたイスラム教の聖地といわれる

場所(モスク)にはイスラエル・シリアを含めすべて巡礼した。

 

このように、キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教など様々な宗教

の門をたたいてみたが結局 どのような宗教も、一つの心の宗教、

に帰一するのだということを学んだ。

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいてはなかなか理解できない

のかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰と運命など

これから数回に分けて簡単だがお伝えしたい。

その目的は、その最後に、自然治癒力との関連性に触れられる と

思うからだ

 

 

イスラム教では 神の定めた道筋、定命 への信仰がある。

所謂 人は神の定めた運命によって生きているという。

すべては、神によって決定づけられ、用意されていると考えられた。

ならば、それ以外の道、つまり人が自由意志によって

決めることのできる範囲はあるのかどうかという問題になる。  

 

人間には行為を選択する自由意志はなく、

ある人物がたとえどのような振る舞いに及んだとしても

その行為の責任はその人物ではなく、神に帰される“と 

一般的イスラム教では主張する。

 

一方、人間の自由選択を主張する人もいて、

”この自由には、限界はない、時には神の予定を退けることが

出来る“ と反対意見を述べる。

前者をジャブル、後者の考え方をイフティヤールの能力と

それぞれ呼ぶ。

 

トルコの神秘主義のスーフィーの聖者メヴラーナは 双方の

意見を知った上で独自な意見を展開した。

二つの極論の間にある、中庸な道を説いた。

つまり、神の定めた道と人間の自由意志とは相反することなく、

両立するというように。

 

ルーミー物語には興味ある、次のような話を載せている。

“イブラヒーム・アドハム(#1)が狩猟に出かけた日の

ことである。

一頭のカモシカに眼をつけた彼は夢中で馬を蹴り

その後を追った。

いつの間にか側近たちも遠く離れて、一人きりになった。

うら若いこの王子とカモシカはやがて、寂莫とした

荒地にたどり着いた。

その時、カモシカが振り向き突如として、彼の心に

直接語りかけた。

あなたは狩猟のために創られたのではない。 

神の 意図はこのようなことにはないものを‘

 

この言葉を聴いてイブラヒーム・アドハムは

自らの創造の神秘と神の意思を雷に打たれたように

はっきりと知覚させられた。

たちまち、悔悛の感情が沸き起こり彼は馬から飛び降りて、

馬具も武具も身に着けていたきらびやかな外衣も

脱ぎ捨てた。

そしてたまたまそこを通りかかった羊飼いにすべてを与えて

代わりに羊飼いが着ていた粗末な衣を身に着け、彼は

そのまま神秘道を歩むものになった。“

 

 

 カモシカを追いながら、神に狩られた身の上を

メヴラーナはつづった。

これを例にとり、神の意思とは何かを描いたのだった。

もう一つ、面白い実話をとりあげている。

 

“ある晩 ファラオ(エジプトの王)は夢を見た。

彼と彼の王国が滅亡の日を迎えるという不吉な夢だった。

イスラエル人によって、それはなされることになっていた。

そこで、ファラオは国中のイスラエル人たちの夫婦の関係

を引き裂き、互いに合えぬようにした。

 

さらに、占星術師からすでに滅亡させる指導者、モーセが

誕生して居る事を知ったファラオはその年に生まれた、

何十万という男の赤ん坊を殺させた。

 

モーセの母は ファラオ軍の殺戮からわが子を守るため、

生まれたばかりの赤ん坊だったモーセを籠に入れてナイル川

に流した。

その籠は河の流れに運ばれて、やがて、ファラオの宮殿内部

に漂着した。 

赤ん坊を乗せたこのゆりかごに最初に眼を留めたのは、ファラオ

の妻だった。

彼女はこの赤ん坊が何故ここに、たどり着いたのか知る由もない

まま、彼女の庇護のもとに大切に育てられた。

この様にして、ファラオの策略は成就しないまま、彼の宮殿の中

育っていることを気づく由もなく、王国の滅亡の日を迎える事

になるのだった“

 

このエピソードの中でメヴラーナは神の意思と全能な力を人は

どんなに策略を施しても覆す事ができないと、私達に教えている。

同時に自由意志として、どの道を私達が選ぶかは判断と責任を

課して自由を与えたとする。

 

もし、アダムの時代から自由意志が与えられていなかったとしたら、

なぜ、アダムが楽園の禁じられた果実を食べ、罪意識を持ったか

矛盾することになるという。

 

“私達は、自らを裏切ってしまいました”

といって、悔悛の涙をアダブが流したとき、禁断のリンゴを口に

する誘惑を撥ね退けられなかったアダムの心情は、自由意志から

生まれたものだからだ。

がんじがらめに神が彼の心にまで蹂躙して、自らの意思に従わせ

ようと手足を縛ったのなら、むしろ、こうした罪意識を抱く行為

はしないですんだのかもしれない。

 

恥じる事、困惑すること、後悔すること、など、そうした、感情

神が定めた道で起きるはずはないとメヴラーナは想うのだ。

 

“自由意志は呵責の念として映し出される。 

もしも自由意志が無いというのならつきまとう、恥の感情をどう

説明するのか?

この悲しみ、罪の意識、困惑、羞恥をどう説明するのか?”

 

さらにユーモアに富んだ例も挙げている;

“泥棒が判事に向かって訴える。’判事様、私はただ、神の定められた

とおりにしたまでのことでして。。

 

判事もまた泥棒にこう応える

私もまた、神の定めるままにすべきことをしているに過ぎない’

 

双方は神の意思のままという言葉を使って自分の行為を正当化

したがるものだ。

もし、そこに自由意志がないとしたらだ。

しかし、神は自分の原型に基づいて人を創り出した。

神に意思があるのなら、人間にも同様に意思が与えられている

はずだ。 

最終的に、メヴラーナの考える自由意志と神の定命との関係は

次のように言えるだろう。

 

人間は地上において神の代理を務める力を与えらた。

多くの知識と智恵を与えられ唯一生物の中で神を賛美することが

できる能力を持つ。

人間は選択する力、自由意志でそれを行使する事が赦されている。

この特権を持つ以上、責任も負わされる。

つまり、自分で撒いた種は自分で刈り取るという因果の法則が

それである。

 

神に責任を負わして、自らは怠惰に、停滞を赦すことは自由意志

を有意義に使っている事にはならない。

するだけのことをして、最後には神の手に任せるという選択は、

日本語でいう、人事を尽くして天命を待つ“という態度にも匹敵

するのだろう。

 

 

 (#1)777年没。本来は、バルブの子だったが、悔悛し地位を得て

修行の道に入ったとされる伝説的なスーフィー

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  A Muslim Saint, Mystic and Poet 

Original title; Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 ”神秘と詩の思想家 メヴァラーナ 

トルコ・イスラームの心と愛”

2006年 丸善プラネット株式会社 訳 西田今日子

 

 

 

 

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