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今日の話題はカレー。
話は少し飛ぶが、今回、部屋を整理していたら古い写真が出てきた。
両親の簡素な結婚式の写真だ。
父は簡素な式を望んだため、母に花嫁衣裳を諦めさせスーツ姿で並んでいる。
"派手な格好がよいのなら、花嫁らしく装えばいい。
でも、そうしたら、自分は褌(ふんどし)一丁で式に出る・・・”
と父は、母に言って、質素な結婚式を求めたという。
母は、花嫁衣裳を諦めたという。
横には仲人役の新宿中村屋創始者 相馬愛蔵氏が威風堂々、
威厳ある風情で写っている。
式場は新宿中村屋の2階。 そこでカレーが振舞われたかどうか
不明だが、当時は既にメニューにあった筈だ。
結婚した当初、父は相馬氏を師として慕い、相馬氏の商売道
を自分の指針として地道な小売商として新宿に自分の店
”茶の香取や”を出したばかりの頃だった。
さて、この相馬氏と父とのご縁は、娘の私にも及んでいるのでは
ないかと考えさせられた、
そのきっかけが 中島岳志氏の著書 ”中村屋のボース”
という本だった。
ボース氏とはラース ビハリー ボース。
1910年時代、当時、イギリスの植民地下にあったインドを
独立させんと独立運動の気運が高まっていた中、今でいう
テロリスト的な過激な独立運動派の主導者であった人だ。
この人こそ、中村屋のカレーの考案者であり、実際自ら、
味を吟味して商品として、店に出したということは、
父から聞いてはいた。
しかし、その辺りの詳しいいきさつは、父も知らなかっただろう。
まだ、父が生まれる前、あるいは、幼いときの話でもある。
ここで中島氏の著書から引用してみると;
"インド独立運動はこの後、1915年のマハーアートマー・ガンジーの
帰国によって新たな時代を迎えるのだが、それまでの数年間は
'運動の低迷期’が続く。
その期間、間欠的に起きたのが、爆弾を用いた過激なテロ事件
だった。
特に、時のインド総督ハーディングに爆弾を投げつけて負傷させた'
ハーディング総督爆殺未遂事件’は、この時期最大の事件だった。
この事件を引き起こした張本人こそが、他ならない
ラース・ビハリー・ボース、その人である”
こうして、イギリスからマークされたボースはインドに
留まることは命の危険にさらされることを感知して、
日本に逃亡する。
武力革命を目的として、資金と武器の調達のために日本へ
向かった。
その頃の日本は 日露戦争に勝利、国力を高めつつあった。
1915年 ボースは ノーベル賞作家であるタゴールの親戚と
いつわり、偽名を使い、国外脱出に成功、日本へ向かう
船上の人となる。
来日に成功したのもつかの間、疑惑のインド革命家として、
イギリス大使館を通して、日本外務省はイギリス本国からの
要請を受けて、国外退去命令をボース氏に出す事になった。
国外退去といっても、行く先は香港。
結局、そこでつかまり、極刑を受けることになることは
明白の理であった。
この窮地を救ったのが 中村屋の相馬氏の一言だった。
ドラマティックな場面の展開は、その一言から、始まった。
”12月1日
とうとう国外退去期限の前日を迎えた。
警視総監は 二人のインド人【須田注。ボース氏とグプタ氏】
12月2日午前10時に横浜港を出航する上海行きの船に、
なんとしてでも乗船させることを発表し、もし、2日、
午前7時までに東京を発(た)たなければ、強制執行に
とりかかることを宣言した。
猶予は、もはや、丸一日しかない。
相馬愛蔵はこのような事態に気を揉みながら
いつもどおりに店を開けた。”
気を揉みながら~とここに、ある。
というのも、その数日前 中村屋主人相馬氏は妻黒光と
こんな話を交わしていたからだ。
【相馬1963;175~176】
"大英帝国の申し入れに、おびえて亡命客を追い出すなんて、
何と言う恥さらしな政府だろうと、主人も私も憤慨した。
政府が無能なら、国民の手でどうにかならんものか、
もっと興論を高めなくてはと、顔を見合わせて気を
揉んでいた”
中村屋の店に、日本移民協会幹事長である常連客が、
ボースたちの日本滞在の最終期限日にやってきた。
相馬氏は、その客から注文をとりながら、印度人国外
退去問題について話題を向けた。
そして、状況が、いまだ打開策の無い事を知ると、相馬氏は
'かえって、私のようなものの所なら、どうにか
匿(かくま)えるのじゃないでしょうかねえ’と切り出した。
すると、その常連客は、その案を名案と考え、まじめに
取り上げた。
そして、主要な人たちを通して、当時の国粋主義者の
筆頭~頭山満(とうやま まん)氏に、その案が伝えられた。
ボース氏はすでに、頭山氏と面会したことがあり、知己であり、
今回の国外退去に関し、頭山氏に助けを懇願していた。
そのため、頭山氏は、石井外相にボース氏の出国期限を
延期するように働きかけた。
しかし、ボース氏に対し、ドイツのスパイ容疑がかかっており、
そのため、国外退去というイギリスの圧力を、日本政府は
かわす事ができなかった。
名案がないまま、とうとう、出国日の前日になった。
その朝、中村屋の主人が、ボース氏をかくまうという案は、
その日のうちに頭山氏に伝わった。
頭山氏は、それを聞き、それなら上手く行きそうだと
合点したという。
ボース氏の、出国期限まであと数時間に迫ったとき、
頭山氏の屋敷に招かれたボース氏とグプタ氏【革命志士】は
ひそかなこの雲隠れの案を聞かされた。
頭山邸では、周囲の監視の目から、この逃亡を、
カムフラージュするために、二人のインドの革命家の’お別れ会’
という名目で盛大な宴会が開かれた。
会もたけなわになった頃、静かに、二人は 変装して脱出する
という作戦をとった。
こうして、何とか追随の車に、付けられることなく中村屋の
敷地内に到着した二人の革命家。
まさに、国外退去前日の朝の相馬愛蔵氏の一言が、ボース氏の
運命を180度転換させたといえるだろう。
尾行の警察官を尻目に見て、無事に '神隠し的失踪’が成功した。
続く
参考;"中村屋のボース“ 中島 岳志(たけし) 白水社 2008年
Pictures; TATA Docomo Image