自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

イスラムと神への全託 

2015年03月30日 | 神秘と神の大地”インドの香り”


 形而上的癒しの根源~イスラム教から(6)   2015.3.30

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前書き)

30代の初めからインド生活においてのほとんど、

私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの宗教的行事に

参加することはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダンには、断食をし、

5回の祈りを捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残されたイスラム教の

聖地といわれる場所(モスク)にはイスラエル・シリア

を含めすべて回ることもできた。

 

かつて、キリスト教、仏教、神道、ヒンズー教など様々

な宗教の門をたたいてみたが結局 どのような宗教も、

一つの心の宗教、に帰一するのだということを学びから

得た現在だ。 

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいてはなかなか理解

できないのかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰と運命などを

これから数回に分けて簡単だがお伝えしたい。

そして、最期に 形而上的癒しとの結びつきを考え 

自然治癒力との関連に触れられればと思う

 

 

アザーンといって礼拝の時を知らせるモスクの人の呼びかけが

一日5回高らかこだまする。

 

アラブ人と約束事をしたとき、”神の御心のままに” 

と必ずつけ添える。

時間に遅れても 他の約束を反古にしても、アッラーの意思

ではなかったなどと、いわれて面白くないという話を

聞いた事がある。

 

先回のブログのテーマだった、天命とか定命 でも

このことを見てきた。

こちらからすれば、遅れたことは神の御心ではなくて、

単にあなたの”ケアレスミスでしょ”といいたいところだ。

イスラム教信者は 約束事にとどまらず、自分の希望を

口にしても、何事に対しても、”神の意思に叶うのならば” 

という一言を添える。

アラビア語では ”インシャーアッラー” という。

 

イスラム教聖典 クルアーンの33章3節には

“神にすべてを託しなさい。本当に、神は管理者として

万全であられる”という言葉がある。

このインシャーアッラーは、その心を言葉にしているのだ。 

全知全能の神に委ね、不安なく、どんな結果にしても受け入れ

ようという積極的な心持こそ、心の平常心と平安を保つ術

からだと考える。

 

神の御心に添う、そして、平安を感じる、このことを アラビア語

では“タワックル”という。 

先回のブログの内容と重複しそうだが、そのタワッフルは、

何もしないで状況の流れに任せていれば良いということでもない。

すべて努力をした上で、智恵を働かせ、周囲に愛を注ぎ、

バランスをとりながら自由意志に基づいて選択していく。

 

最善を尽くして、あとは、神意にまかせる。

そういう心持をタワックルと呼ぶのだ。

平安を求める心と裏腹に、私達人間は本来、顕在意識に、

あるいは潜在意識に、必ずと言ってよいほど、恐怖心を

持って生きているものだ。

未来に何が起こるかわからない、どんな事故に巻き込まれる

のか、災害が起こるのか、家族に不幸が見舞うのか、予測が

付かない上にさらにそれを思い過ごせば恐怖心となって、

心の片隅に水垢のように、根付く。

 

それに縛られないよう、タワックルの心持を持てば、

未来への不安が和らぎ、今与えられている幸福に気づき、

足元を見つめながら希望とともに明日への一歩を踏み出せると、

メヴァラーナは考える。

 

メスネヴィー3巻3105・3109には次のような寓話が

書かれている;

”一匹の雌牛が種々の甘い香草が生い茂る島にくらしている。

牛は一日中これらの草を食べ続けている。

日暮れ近く、彼女は満腹になり夜になれば体を横たえるが 

なかなか眠りにつくことができない。

明日もまた今日t同じように、満足のいく食事が出来る

だろうかと考える。

そしてもしできなければと悩む。

この悩みのせいで、彼女は一晩で針ほどにもやせ細って

しまわんばかりだ。

やがてまた、朝が訪れる。 

彼女は昨日より、さらに青々と牧草が生い茂っている

場所を見つける。

そこで安心して草を食べ、再び超え太るのだが、日が沈めば、

昨夜と同じ悩みに苦しめられる。

彼女は長い年月、このようにして過ごしてきた。 

実際に牧草が食べられなかった日は一日たりとして無かった

にもかかわらず、である。“

 

この寓話は筆者の心の中に潜む 不安な心持、感謝を忘れた心

などを浮かび上がらせた。

きっと、そういう体験をした方もおおいだろう。

その日与えられた食事や健康に感謝せずに、

これから煩わせるだろうと想うことに気をとられ その対策を

考えたり、ああしたらよかれ、こうしたら良かれと考え、

ついには、解決策も思い浮かべることなく、不幸がきても

居ないのに自分の不幸を嘆きたくなるようなブルーな気分で

眠りにつく。

反対に、良いことを感謝し、悪い事もいつかはもっと良くなる

為の手段と考え、結果的には善をもたらすと信じる。

そうした心持、積極的になるために、タワックルを身に着ける。

 

さらに一歩すすんで メヴラーナは 預言者ムハンマドの言葉

とともに 説明を加える。

“神に祈れ。だが、盗まれたり逃げられたりすることの無いように、

ラクダは繋いでおけ”

というムハンマドの言葉こそ、タワックルの根本にある原則でも

あるというのだ。

 

ラクダは砂漠では車以上の乗り物だ。 

ラクダを盗まれればたちまちに炎天下の熱の中で人間の小さな身は

一歩も進む事ができず、砂嵐に飲まれてしまうだろう。

自分の糧は自分で作り、その糧(かて)はきちんと管理して

守護するという生きる基本的な常識があってこそ、タワックル

が可能となる。

 

メヴァラーナは 続けていう;

【神の道を進むのに】ただやたらと歩けばよいというもの

ではない。

眼が見えぬわけでもないのに、見ようともしていない。

何の確信も根拠もなく、ただ漠然と歩みを進めているだけだ。

戦場で敵を信用すれば、どのような眼にあうか思いつきも

しないのか。

さいころの目にうつつを抜かす賭博人の自惚れのようなものだ

(メスネヴィー4巻・2921・2922

 

勤勉に働き労苦を惜しまないこと。

だから、クルアーン(クルアーン28章77節)には

“神が与えたこの世におけるあなたの務めを見出しなさい

人間はその努力したもの以外、何も得ることは出来ない

【同。53章39節】

“誰もがその稼ぎに対し、報酬を受ける

(同上・52章21節)

 

道を歩むときには手段と方法をしっかり考えなければならないという。

嘆きの道にも喜びを見出し喜びの道には油断なく目標を見据えて

歩み続けなければならない。

 

メヴァラーナは詠う;

“金銀財宝は常に人知られず 荒れ果てたところにそっと

隠されるもの。

誰しもが思いつくような場所に隠したのでは意味がない。

すぐに見つかる場所に宝を隠すものはない。

だからこそ、こうも言う。

‘歓びは常に嘆きの下に潜む’と。“

 

神の御心のままに、という言葉には、その行為に献身と

自助努力を惜しまない姿勢がある。

天は自ら助けるものを助ける ということわざにあるように、

精一杯努力をしたあとに神に任せるということをさすのだろう。

そのあとで神に委ねる、その感覚こそ、タワックル といえるだろう。

最後にメヴラーナは言う。

“神を信仰するのなら、代償として努力を惜しむな。

額に汗して、種をまき、その上で神に委ねなさい“

 

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  A Muslim Saint, Mystic and 

Poet Original title; Mevlana Celaleddin Rumi

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 メヴァラーナ トルコ・イスラームの心と愛

2006年 丸善プラネット株式会社 訳 西田今日子

 

 

 

 

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