自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

イスラムと心と知識 

2015年03月21日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 形而上的癒しの根源~イスラム教から(3)   2015・3・21

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前書き)

30代の初めからインド生活においての

ほとんど、私はイスラム教に入信していた。

(あるきっかけがあり、イスラムの

宗教的行事に参加することはなくなった。)

その間、メッカに行き、ラマダン

には、断食をし、5回の祈りを

捧げていた。

数年かけて 中東に各地に残された

イスラム教の聖地といわれる場所

(モスク)にはイスラエル・シリア

を含めすべて回ることもできた。

かつて、キリスト教、仏教、神道、

ヒンズー教など様々な宗教の門を

たたいてみたが結局 どのような

宗教も、一つの心の宗教、に

帰一するのだということを学びから

得た現在だ。 

 

イスラム教はヒンズー教同様、国内にいては

なかなか理解できないのかもしれない。

外地でよりその真髄を体感出来うる宗教

のひとつかもしれない。

イスラム教の愛、倫理、人生哲学、智慧、信仰

と運命などを、これから数回に分けて簡単だが

お伝えしたい。


そして、最期に 形而上的癒しとの結びつきを考え

自然治癒力との関連に触れられればと思う。

 

 

”心”への向き合いかたは 多くの人達のテーマだが、

トルコ人にとっては、永遠のテーマであるという。

それを伺い知り得るのも古典詩や,民謡などの古典芸能

のテーマからだ。

それも、トルコの中世スーフィー聖者 メヴラーナの

影響が決して少なくないだろう。


メヴァラーナこそ、”心”について深く洞察して多くの

詩篇を残している。

 

イスラム教では 心をどうとらえているのだろう?

"心"は サウジアラビア・メッカにある、最大の巡礼地、

カアバ神殿 に例えられる。


それは

“神ご自身がご覧になる神聖な場所であり、神がその

計画の一端を知らせる神秘の座である”

と考えられているからだという。

 

10年以上前になるが、私は、”オムラ”と称する巡礼を、

サウジアラビアのメッカで行った。

カァバ神殿に 祈りを捧げる、それが最大の巡礼の行事

一つでもあった。


心は カアバ神殿に匹敵するというのなら、大切な尊い

ものであるということは疑いない。

もし、その心が、磨かれずに、埃にまみれていては、

その本質を発揮することはできないという。

心を鏡に喩え、埃のついた心であるなら、神の意思を

映し出すことができないと考えるからだろう。

その埃とは、イスラム教では、現世の欲望や嫉妬などをさす。

 

鏡が常に磨かれて塵埃で姿を完璧に映し出すことが

できるように、心も常に純粋で愛と誠実に満ちた

状態であることが望まれる。


戒律を守り、一日5回の礼拝をして、体を常に浄める。

とはいっても イスラム教では、心のその状態に重きを

置くために 決して行為そのもの、結果そのもの

に固執するわけではない。

 

ムハンマド(モハメッド)は そのことを簡単に、

“神はその姿や形をご覧にならずに、その心と意図と

をご覧になる

といい、野心や貪欲さを隠した善行、それは偽善に

ほかならならず、神が受理されるものではないと

言い切る。

 

同様の意味で、メヴァラーナはメスネヴィー5巻(874-886)

で次のように詠う;

 

“預言者 ムハンマドはこのように申された。

神は外に顕れるものをご覧にならない。

されば、何事かをなすときは、心を占めるものは

何か自問せよ。


だが自らの行為に満足したものは、それ以上の探求は

しない。

そして、自らの心を、心と称してはばからない。

7層の天のごとくに、7百もの無知のヴェイルに覆われ、

視界からも遮られているものを、そのような得体も

知れないものを、心 とは呼べない。


神はこのように、申された。

礼拝の際、どれほど深く頭を垂れたか、どれだけの金

を喜捨したかを見ているのではない。

あなた方の心の占めるものを通して、我はあなた方を

測る。“

 

愛は人と人との間で問われる資質だけではなく、神と

人との間にも重要性を持つ。

知性や論理で神を知ることはできずに、愛 という

確実な情感を持って知り合う関係が 神と人の間にも

あるという。

 

だからこそ、メヴラーナは 

“神の愛によって満たされた心は、神の太陽を照り返し、

光にあふれ豊かに繁栄する”、【メスネヴィー1巻・53】

と詠い神への愛を持つ事のない人との区別をしている。

 

神への愛を持たないということは、神以外の何かに

その心をゆだね、想いを注ぐこと。

そういう人達のことを、メヴラーナは”不信心“な信者 

呼び、神の庇護は受け付けない、かたくなさで

“戦場のごとく不穏な空気に包まれ、荒れ果てた

街のような心情に苦しむだろう”

という。【4行詩篇】

 

冒頭に述べたカアバ神殿は 、イスラム教信者は

一生に一度は、巡礼する、メッカの地にある。

そして、その神殿の周りを回り、神への信仰 を新た

にするのだ。

心をカアバ神殿に喩える一方、メヴァラーナは次のよう

に詩にした。

 

“カアバは聖者たち、預言者たちのための家。

そこには神の言葉が宿る。

しかし、それを理解する心なくして、カアバに何ほどの

意味があるだろう?“

 

心とは純粋に保たれるとともに、神聖なものに対する

純粋な愛と理解も同時に持たれるべきものだと、

メヴァラーナは言う。


さらに付け加えるのなら、愛とともに不可欠で、それを

補い合うものが 知性であるとメヴラーナは考えた。

 

知性には2種類あるという。

一つは 個別知性、個々人がそれぞれの体験や学びから

得ている知性であり、他方は普遍知性といわれ 宇宙の

すべての法則に浸透している、創造性のある知性である。

 

イスラムではこの普遍知性を ムハンマドの真実と言う

意味の言葉“ハキーカテ ムハンマディーイェ”

と呼んで区別する。

 

個別知性を獲得するために人は常に学び続ける。 


しかし、普遍知性は魂の奥底で真理を直観したときに

得られる。

預言者という言葉が良く使われる。


ムハンマドはイスラム教で最大の預言者であるが、

一般的には、預言者とは普遍知性と個別知性との橋渡し“の

役割を果たす”普遍知性の持ち主”をさす。

 

個別知性は、それのみでは究極的な救いを人に与える

事ができないから、普遍知性を述べ伝え、福音として

人々に自分の内なる神、全能者への愛を訴える役目を

預言者たちは持ち続けてきた。

 

メヴラーナはだからこう詠う。

“病人を医者の許へと連れて行くのは、知性【個別知性】

働きによる。

だが実際の治療には、この知性は何の役にも立たない

 

治療して治る ということはどういうことか?


究極的な癒しとは、その人の中にある普遍知性が

その人の体の管理能力を発揮することで完治できると

考えている。

 

ここに 彼の考える形而上的癒し根本的考え方がある。

薬や医者の言葉はある意味、その自主管理能力を発揮

するための、一つの動機や手段に過ぎないと考える。

 

だから、さらに続けてこう詠う;

“単なる知性が網羅できるのは良くても現世までのこと。 

だが、神の友の知性(普遍知性)は来世までをも

網羅する”

 

愛がこの世を渡る大海原に走る帆掛け舟だとしたら、

知性【個別知性】は自己意識過剰な、泳ぎ手の名手と

思い込ませる自我に似ている。

 

メルヴァーナはこう詠う;

知性の働きとは海を泳いで渡ろうとする判断に似ている

泳ぐのをやめよ。 

一時の見栄や敵意を捨てよ。


ここはただの海ではない。 

深い助け手もいない海。

知性を売り払い、直感を買い求めよ。


愛の帆掛け舟に乗り、愛を助け手とし、知性を捨てよ。”

 

個別知性は、部分に対する私見に過ぎず、

普遍知性は直感に連なり、全体を見渡すヴィジョンを

与える。


預言者は、個別知性をして普遍知性を与えた全能者、

つまり神へと 人々を導くが、その道には愛という

芳しい優しい花の香りにつつまれていることを

メヴァラーナは私達に教えてくれているようだ。

 

 

 

参考;“JALAL AL-DIN AL RUMI’  

A Muslim Saint, Mystic and Poet

Original title; Mevlana Celaleddin Rumi 

Written by Prof.Dr.Emine Yeniterzi

Translated to English 

by Prof.Dr.A.Bulent Baloglu

日本語版 神秘と詩の思想家 

メヴァラーナ 

トルコ・イスラームの心と愛 

2006年 丸善プラネット株式会社 

訳 西田今日子

 

 

 

 

 

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