自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

宗教包括的癒しと仕組み

2015年04月11日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

般若の智慧と普遍知識  2015・4・11

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人が生まれてきた目標?

自然治癒力セラピー協会的に答えれば、

本来の健康を保持して最後まで人生を全うすること、そして、

健康が心に抱く考え方や感情に大きく作用されていることを知り、

平和で安寧な心持ちで日常を過ごすこと。

そのためには 本来の自分を知ること…身体は心の影だから・・・

 

自分を知ること。

ほんとうの自分、つまり、自分の本質が神性であることを知ること。

 

だとすれば、

イスラムのメヴァラーナがいう所の自分の中の神の似姿、

ヒューレン博士がハワイの秘法でいうところの 自分の中の真の

アイデンティティー.クリスチャンサイエンスのいう、聖霊に

満たされた自分、古神道でいうところの ”神は人なり。人は神なり” 

の ”自分”、キリスト教でいうところの、”我は真理なり、愛なり”

と説くキリスト的自我,仏教でいうところの仏性,それらすべてに

共通しているのは 求めるべき 真の存在する自分の姿だ。


その自分に立ち戻るとき、病も不完全な姿も消える。

 

なぜなら、“神の善と愛と完全しか存在しないから病気も

とどのつまりはない。

それは神と等しい自分を発見することで 自然と必然的に癒される“

という法則が適応されるからだ。

 

その時、原因、つまり、仏教でいうところの因縁、ヒンズー教で

いうところのカルマは効力を失う。

因縁を超越するバンニャー(般若)の智慧(般若心経の説く

ところ)が”解脱”を可能にすると説くことが実践的に行われるのだ。

 

皆様はご存知だろうか?

ブッダは自分の像を死後造るこ禁じた。

数百年の間、イメージ(像)は創られることはなかった。  

ブッダの像が無い代わりに大日如来や観音像、その他 

文殊菩薩や薬師如来、などといった如来菩薩の立像が創られ、

拝まれることになった。


キリストも“我は真理なり”と言い、像ではなく真理の中に

キリストが生きていることを断言した。

 

現代にも真理は生きている。

体験を語れる預言者達も多く存在している。

その中の一人が ホ・オポノポノのヒューレン博士だろう。

彼の発表した体験談と、その簡単な実践的方法はたちまち

世界中に広がった。


簡単に言えば、人が神格に到達するためには 絶え間なく

自分自身を浄化し続けて行くほか方法がないというのが

博士の結論だ。


そのために、ありがとう、愛してます、ごめんなさい、

許してください の4つの言葉を、絶えず心の中に反復反芻して

理屈抜きに、清めを続けて行くという。


浄めとは どの宗教でも説いているところだが、ヒューレン博士

はそれを、現代的に日常的にわかりやすい実践方法として教えた

ところに共感を呼ぶのだろう。

 

イスラム教では一日の5回の祈りがそれに相当するし、祈りの

前には必ず全身 頭からつま先まで浄めることをする。


神道では禊祓い、

仏教ではお勤めや座禅、などがこの清めの為の修行にあたる。

いずれも滝に打たれたり、冷水に体を浸したり、水による浄めは

つきものだ。

 

人は本能的に”清め”の大切さを知っている。、

人は潜在意識の98%の働き、そこから来る感情や判断、

などの行動を起こしている。


潜在意識には悲しみや怒り、などのマイナスの想念が

ため込まれていて、これらのマイナスの想念を駆除して

(浄めて)いかない限りは 無意識の中で過去の想念に行動

を規制されることを知っている。

 

そう意識していてもいなくても 一般的な日本人は、除夜の鐘

を聴いて一年の穢れを祓い正月には禊ぎ=初詣に行き 

折々にパワースポットと称されるようになった神社仏閣で

本尊やご祭神に手をあわし、波動を整える。

 

神や仏という絶対的な像を目の前にして、その威力に心を馳せ

祈り、一体感を味わい、 守られているという感を強くする

ことで マイナス想念を断ち切り、その影響を防ごうとするのは

どの文化にもみられる。

 

自分の中に神がいると知っている人たちは 寺院仏閣に行かずに、

自分の神格(仏性)と波動を合わせようとして 一人静かに

瞑想をする。

 

私たちの潜在意識が主導している今の意識、現在意識は 

独りよがりだ。

一つの事象を過去の自分の積み上げたデータからしか 五感の

印象を持ってしか、判断できないからだ。


実際、限られたデータしかないのだから、本当の今向き合って

いる問題の要(かなめ)すらわからないはずだ。


嘆けば嘆くほど、足は底なし沼にはまっていく不快感で

よけい、じたばたしたくなり、問題を複雑化している。


かつて筆者の師であった 南インドのサイババ師は”超越意識を

意識せよ”と常に言っておられた。

この意識が神格・仏性・アートマ・人間の実相の智慧を伝達する

意識であるからだ。

 

”ほんとうの自分を知ろう” というのは拙協会ブログのテーマだが、

2005年1月9日のイハレアカラ・ヒューレン博士の日記(公開)を

読むと、同様のことが記されていた。


“問題はそれがいったい、そういうことになっているのか

知らなくても、解決できる!

このことに気がついて、その価値がわかってきたときには、

ひとえに安堵し、うれしかった。


問題を解決するためには、必然の疑問が二つ持ち上がる。

‘私は誰?’

‘誰が主導権を握っているの?’

宇宙の本質を理解するためには、ソクラテスの洞察が

手掛かりになる。

‘汝 知るべし’“

 

自分を知らないとき、本質を知らなければ ヒトはクラゲ

のように海の表面を漂い、物理的結果は即、現象の何かの

欠陥から生じていると思いがちだ。


病気にしても 環境の不整備にしても、人間関係においても、

今起きていることは潜在意識の記憶が 表出している。


その再生モードのスイッチを、現在意識が止めることを

しなければ 踊らされるままになるだろう。


だから 賢者たちは私たちに言う。

”自分を知ろうと、私は誰?”と問い続けなさいと。

 

同時に、その本当の自分に意識スイッチを合わせたい。

超意識にスイッチを合わせたい。

超意識には記憶は一切ないからだ。 

今も昔も、空間もない。

潜在意識の中に堆積している負の想念には一切感化を受けない。

イスラム教のメヴァラーナが言っていた、普遍知識の領域

だからだ。

 

ヴェーダではこの普遍知識こそ、アートマ意識とつなげるブ

ッディ(智慧)と呼び、仏教では般若心経の 般若(バンニャー)

に匹敵する。


キリスト意識もこの超越意識の中でとらえられるし、

善き哲学宗教の本髄、真理と呼ばれるものもこの領域で

とらえられる。

 

私たちは日頃、こうした普遍意識の領域と 記憶によって

管理される潜在意識の領域の間を、行ったり来たりしている。


心を緩ませることなく、だから、浄化を心身ともに続けて

いくことに焦点をあわせて今日も一日を過ごしたいと思う。

 

 

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