私が留守中 夫が母の介護を決心した意図 2015・4・17
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ただ今 母のために、開けた”茶の香取屋”は休業中です。
今週 火曜日から秀真輪読会 と アートマセラピー施術は
始まりましたがお茶屋さんはいつ再開店できるか・・・?
茶の香取やを休業しているのは、母が倒れて店に出れなくなり
もともと母の精神的リハビリになるという、励みもあって
開けていたので、その開けておく理由がなくなってしまった
からです。
去年11月、サロンを初めて2か月過ぎ軌道に乗ってきた2月上旬。
ちょうど 結びの会 のワークショップ当日、2月7日土曜日の
朝のことでした。
自宅から今日の会の準備もあり早めに、母の住む彦田ビルへ
着きました。
店を開ける11時前に母に昼食を届けに上階の母の部屋を尋ね
ました。
呼びかけても返事がなく、中に入ると、足の踏み場のない
散らかった部屋に母が倒れていました。
認知症になって 以前は几帳面だった母の8畳の部屋は
数年前のチラシ広告、汚れた下着、裁縫箱 トイレットペーパー
などなどが散乱して足の踏み場がないほど。
掘りごたつの中にはゴキブリの死骸も時には見つかるほどの
凄惨さ。
週2度 ケアマネさんのご紹介でホームヘルパーさんが掃除に来て
くれるものの、母の部屋には、彼女も入ることは許されません
でした。
だから、誰も、母の部屋の物を片づけることができなかったのです。
その理由は、好意で片づければ、
‘~が無くなった、盗まれた’と大騒ぎされて犯人扱いされ、
派遣先に抗議の電話を 連日かけ続けるのが常でしたので・・・
それは娘の私とて同じでした。
或るとき、散らかしてあるテーブル、に母の字でノートの切れ端に
走り書きがありました。
“ヤスヨの魂胆がわかった。私を町田の自宅に呼んでくれるのも
いない間にここにきて、物色するためだった・・ “ と書かれて
いました。それを見た私は愕然としました。
“一人は寂しい、こうして、一緒にいられて、有り難い・有り難い”
と私の前ではよく口にしていた母が書いた言葉とは、信じられ
ませんでした。
喜んでくれるのが嬉しくて、私の自宅で食事したり、
父の墓参りに出かけたり週に一度は車で自宅にきて
一緒に過ごす時の 嬉しそうな笑顔が思い出されました。
でも、筆跡は確かに、母の字でした。
そのメモを読んだときに、
“所詮病気だから” と納得することもできず、
母の本心はどこにあるのだろう?~と
いう疑問とともに、母の部屋との関わり合いをもたないよう
にしようという心境にさせられました。
このような調子でしたから、ホームヘルパーさんは
数年の間に何人も変わりました。
綺麗に片づければ、それが見つからないときに、
“あなたは、物を取った”と糾弾(きゅうだん)され、頭ごなし
に怒鳴られて、母のヘルパーを拒否する方たちが続出したためです。
今のヘルパーさんも前任者達の話を聞いて、母の部屋に足を
踏み入れることを躊躇してました。
そういうわけで、普段は、私は、母の家に上がることも
なければ”泥棒”扱いにされる機会も少なかろうと、いつも、玄関先
で母と応対していました。
2月7日朝、この日は、玄関先で声掛けしても返答なく、
不思議に思い母の部屋を覗いたら”痛い!痛い~”と
うめきながら 母は、畳の上で、うつ伏せになっていました。
下半身は何も身に着けておらず、そばには、母の糞尿が
寝具や畳を汚していました。
起こそうとしたとき、”気持ち悪い、吐き気がする”
といって、母は、吐きました。
とっさに”これは危険だ!頭を打った可能性がある”と思い、
救急車を呼びました。
10分足らずでかけつけてくれた救急隊員は “意識があるか、
おばあちゃん!”と耳元で聞き、うなずく母にほっとした様子で、
受け入れ先の救急病院を探してくれました。
吐いたという事実はあまり重要視されず、胸骨が痛む様子でした
ので、O整形病院に運ばれました。
そこでの検査では胸骨2本骨折、医師の判断では“自然につくのを
待つしかないですね”ということ。
“吐いたのですが、大丈夫ですか?”
と私が不穏に想い打診すると、
“もし、また吐くようでしたら、
脳神経科のある病院で見てもらって
ください。
ここではないので、とりあえず
ご帰宅願いたい” との返事。
かくして、家に帰ろうと病院を出たところで 母は、大量の
体液(黄色い胆汁のような)を吐いたため、再び、救急車で
脳神経科のある総合病院に、運ばれました。
検査結果は“特に血栓のつまりもなく、MRIを見る限りは
支障はないようです。” と医師。
“でも、なぜ、吐いたか調べた方
が良いので内科のある病院の
紹介状を書きましょう”と この日、三回目の救急車が
用意されました。
三度目の病院では徹底的に内科の検査、それも2度にわたり
血液検査と精密検査を受けた母の結果は
“すべて内臓の働きは良好です。問題ありません。”
と言われましたが、移動が続き、休みなしで、肋骨が折れている
衰弱している母を “一日だけ入院させてもらえたら” という
こちらの要望を伝えると、理由を聴かれ
この状況では、自宅までの階段は登れないと答えると、
“歩けない? 家の外階段を登れないから・・?
でしたら、どこか近場のホテルでも探してください。
ここは緊急病院ですので次の方が詰まっていますので・・”
ということで帰宅しました。、
その日は、朝から夜11時まで食べず飲まずの しかも、
ふらついて腰の定まらない、胸骨骨折の母を何とか、
3階の自宅(外階段)まで支えて登らせることができた
のは、母の生命力と見えない守護の力の賜物だった
かもしれません。
当然、母は一人での生活は無理なうえに、これまでの
ように デーサービスを受けられる状況でもなく
”ともに住み介護する”ことにして、回復を待ちました。
脳神経科検査のデータでは”何も問題はない”ということ
でも、その晩から、よだれがでてきているのに気づき
ました。
口もややへの字に曲がり、脳梗塞をした後のように、
足の運びが力が抜けてもつれる状況。
移動には車いすが必需でした。
そういえば、3年前にS国立病院の脳外科でMRIを
とってもらったときは脳血栓が見られ、
“いつ、クモマッカや脳梗塞に
なってもおかしくない状況”と言われたのを思い出しました。
ですので、今回 その血栓が破れたのではないかと推測
しました。
“胸骨骨折”の際、ただの転倒ではなく、軽い脳梗塞を
起こしたのではないかと・・・。
自宅では セラピーを行い、2週間後には町田から
相模原のデーサービスまで車で、通えるようになるまで
体力が回復しました、
ただ、夜間、頻尿が続き、30分に一度トイレに行く状態。
こちらも寝ることがままならず、付き添いが必要なので、
不眠になり、体に応えました。
さらに、娘が物色しに私(母)の家に行っているという
”妄想”が抜けきらず、私の姿が見えないと、
“ヤスヨは相模原に行っているんでしょ。”と聞き、
”コートもなくなってしまったし。” の質問が数分に
一度口から登り、”コートは相模原にありますよ。
ヤスヨは今~しているから相模原に行っていません。“
と夫が答えるという会話が、幾度となく繰り返されました。
さて、私は、2月下旬からインドへ行く予定になっていたので、
母の介護が必要ならその切符を、キャンセルする覚悟はありました。
夫に相談すると、“今、行かないとまたいついけるか、わからない
だろうから・・・
2週間なら、御母さんをデーサービスに朝送って、夕方
帰ってきたら外から弁当でも買って、一緒に食べるから
行ってらっしゃい”と 快く介護を引き受けてくれましたが、
不安は残りました。
ケアマネさんにその話を伝えると、“え? 本当にご主人一人
で大丈夫ですか?”と 危ぶまれ、夫とケアマネさんの事務所で
この件につき話し合いをしました。
その結果、従来通り、ケアには相模原から送迎をしていただき、
日曜日を除く毎日、朝9時から夕方5時まで、お世話になること。
朝と夜間は夫が家にいて、母とともに住むこと。
ということになりました。
“奥さんが行かれる2日前ぐらいから、ご主人一人でとりあえず、
御母さんとご一緒してみて
ください。もし、難しければ、奥さんが日本にいなくなってでは
大変ですので・・”
と ケアマネさんに提案されて、
同意してくれた夫でした。