自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

母の生きる意欲と、これまでの自然治癒力の開花した身体を信じて・・

2015年04月26日 | 介護と自然治癒力

看護婦長の心配をよそに、自宅に戻る母と迎える私の決意
2015・4・26
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自分の中のインナーチャイルドと呼ばれる純粋な部分と
現在意識の中の恐れの表出部分。

それと宇宙意識につながる超越的直観が、バラバラに
切り裂かれたような奇妙なアンバランス感を、
母の全面的介護を通じて味わった。

そしてそれがとても苦しかった。

それは、私の中にある、自分への不信が、そして、母の認知症
から逃げたいという心持が、母を不安にさせているのだ・・

すべて身の回りに現れている環境も人の関係も、唯心所現で、
結局は、自分が造りだしている世界。

そう、私の中のアートマは現在意識に呼びかけていたし、
インナーチャイルドという私の幼児期までの天使の部分は、
育ててくれた母の自分への無償の愛を知ってた。

その愛はその後、どのようなことが
母との間にあっても変わるものでは
ないと思っていた。

ただ、現在意識が 認知症の母と、24時間向き合うと、
心身圧力疲労感に悲鳴をあげて、そうした内なる声を
認められない、

さりとて聞き捨てもできないという矛盾に自分が分裂していく
のを味わっていた。

デリーに休息に来ていた。

また、介護生活が日本で待っているのか・・・
デリーの滞在日数が残り少なくなって
くるほど、私は 母に向き合うということの責任が重く
のしかかってくるのを感じていた。

認知のスイッチが入れば、錯乱状態に陥って手のつけられない
ほどのヒステリーになる母にどう向かい合ったらよいのだろう。 

今までは 同居していなかったので逃げ場はあったが
もう今はない。

夜も眠れない母、一晩中 付き合えるのだろうか?
母の心に潜む、不気味な”妖気”が耐え難い・・・(アートマの声~
それは私の中に潜む不穏さの影・・・)


インドへ出発してから、夫と母の共同生活はどうにか8日間
持ちこたえていたが、母は再び転倒して大腿骨を
骨折してしまった。 

手術の緊急性があるとのことで、一か月を目途に整形病院
に入院したので、3月11日、私は、帰国して成田に着くと
その足で、すぐに病院へ様子を見に行った。


病室に入って母に挨拶。
驚いたことに、私を見る眼も、ぼーっとしていて、江戸っ子
気質のはきはきした、母特有のものの言い回しとは異なり、
久呂律(ろれつ)も回っていない。

久しぶりに会った私を見ても、
”喜代姉さん?”と 叔母に私を見間違うほど、記憶が渾然と
していた。

毎日見舞に行くことにした。
家族との接点を取ることが母にとって唯一の”自分を確かめられる”
場であると思ったから。
だが、私たちが帰った後、車いすに固定されていた
体で”家に帰る”と暴れて、椅子をひっくり返すほど、
手がつけられなくなったと聞いた。

そうした母の今後の対応ということで、看護婦長と帰国後早速、
話し合いが持たれた。

開口一番
”ヤスヨさん(私をそう呼びました)
にお聞きしたいのは、お母さんが退院
したあとどうしたいと考えているか?
そのプランです。

彦田さん位の症状の多くの家族の
方達は 特別老人介護施設や
グループホーム、私設の老人ホーム、
などを希望しています。

社会福祉制度もあるのでそちらか
援助を申し出ることも可能ですし。
そのプランが決まっていないと
病院側でも退院を安心して認める
ことができないので・・熟慮して
返答ください。”

そのお返事をするのに、一週間の猶予をいただいた。

私の内心はほぼ、固まっていた。(インナーチャイルド:’
自分を安心させてくれたようにお母さんにも、今こそ
安心感を持ってもらうことが大切…
施設に送ったら、それが満たされないでしょう?)

これまで、母は高血圧や何度かの骨折、風邪や気管支炎にも、
自然治癒力に任せて薬を取らずに、十分、生命力の
活路を発揮させて完治した。

認知症と診断され”要介護3”のレベルでも、”生きる”と
意欲は、盛んだった。

幸いに、主治医(精神科)のご理解もあり、特段の薬は
飲んでいない。

それだけに、母らしい自然の生体機能を施設に行き、そちらの
判断にお任せしながら、薬をとっていく方法で
壊したくないと思った。

ただ、自宅介護に踏み切るには、一つ、最大の物理的ネック
があった。

自宅が古いビルの3階にあり、エレベーターの装置がない。
はたして、階段を上るということは、母の体力と回復を見て、
あと2週間の入院生活で可能になるのかどうか?

階段を上り下りできないと、昼間のデーケアの施設利用は
不可能になり、朝から夜、深夜から早朝の長い時間帯
私一人で母に寄り添うことになる・・・が、不可能だと思った。


”母は、階段を登れるようになるでしょうか?” 
と、次のミーティングのとき、M課長に予測を伺った。

”階段を登る?!” と私の質問を繰り返して

”無理でしょう。大腿骨骨折したのですよ。
しかも3階までなんて!。私のヴィジョンに 彦田さんが
階段を上り下りする姿はありません。”

看護婦長は静かに明白に返答した。

しかし、私は思い出していた。
今年2月、母が胸骨を骨折したおり、腰が立たないのに、
トイレまで這いずるように行き、赤子を出産するときの
ような気合をかけて便座に乗りあがるため 必死にもがき、
気が付いたら、便座に腰かけ用を足していたことを。

あの時は 単なる胸骨骨折ではなく、脳震盪を起こしていた・・・
だから、口からよだれを垂らしていても、母自身、気がつかない
ほどだった。

その時でさえ、自然治癒力で胸骨の骨折跡も頭の神経も
正常に戻って行ったのだ。

あの時の気力を取り戻せれば、今回の大腿骨骨折とはいえ、
必ず 3階までの、階段を母は上り下りできるようになれる~
と・・・・
私は信じた。

1週間が過ぎ、私の自宅介護の決意をMさんに伝えた、
”母と実家で、同居します。”

看護婦長のMさんは、
”あんなに頭が混乱していてしかも体が不自由で・・・24時間
面倒みる?
大丈夫ですか?”
そして、問題の階段について。

”3階は無理だとしたらどうしますか?”

これがクリアーされないと、母は家に帰してもらえないと
感じた。
私は とっさに答えた。

”セラピー室が店の裏にありますので、そこで寝泊まりを
しばらくすることも可能です。

と苦し紛れの対応策を話した。

もちろん、一階の部屋に母を孤立させて介護する意思は
有りませんでした。母がおとなしく、店の裏の部屋
の寝具の上で寝るはずはない!とわかっていました。

ケアマネさんを含めて、大方の周りのケア関係の人たちは 
“これで 彦田さんも寝たきりになるかもしれない・・”と
予測していたと言います。

まだ”これから先、何が起こるかわからない”という不安
とともに、母に溌剌とした笑顔を取り戻してもらいたいと
いう一心(いっしん)でとにかく 日常生活に復帰するため
のスタートを、ともに、寄り添ってみようという想いは
強いものとなった。

不安の中に、理想を求め、理想の中に現実とのギャップ
を見つめる・・
理想の声に従ったものの、自分の心からの受け入れが
まだできていなかったかも
しれない。

続く












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