自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

アートマ意識、普遍の智慧、ホ・オポノポノ

2015年04月05日 | ハワイの浄化の言葉”ホ・オポノポノ”

 イスラム形而上的示唆とゼロ・リミッツ(2)   2014・4・5

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先回からの続きです。

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“わたしは誰?”と問うこと、その大切さをヒューレン博士は言う。

それは人は神格に戻って生きるべきで、記憶によって生きているのは

苦痛や不幸の上塗りをしていくからだという。

 

神格によって生きるとき、そこには赦しがあり、愛がある。

大部分の人たちは記憶(過去のデータ)によって生きているから、

一つの体験が、古い経験の記憶を呼び覚まし再び、憎しみや思い込み

による摩擦などが生じる。


記憶によって生きる人は疑いやジャッジ(理由づけで裁く)するのが常だ。

 

一方、イスラム教の聖人 メヴァラーナは 

“自分の内側にある、小我に捉われない、愛を見つけよ“と説く。

これも小我に捉われない、無償の愛を軸とした心の領域をさし、神格 

に等しいものといえるだろう。

 

ヒューレン博士は 神格がゼロ地点、ゼロリミッツと呼ばれるものであり、

人はそれが本領として生まれていると言い切る。


“あなたは神聖なる生き物です。 どうして、ゼロになろうとすべきか?

あなたがゼロになれば、すべてが手に入るからです。 すべてです。

それは、あなたが神格のイメージに創造されているということです。“

 

自然治癒力が私たちすべてに平等に備わっているのも、この神格の

イメージに造られているからに他ならない。


本来、私たちは完全であるべきであり、健康であるのが当たり前

であり、楽しく調和的に生きるのが普通なのだ。


あくまで私たちの小我をコントロールし、大我なるゼロ地点の心

に焦点を合わせていればの条件があるだけだ。


それはイスラム教でいうところの、人は神の雛形に造られた 

という考え方だ。

肉体は泥と土に喩えられているが、神性を象徴するものが 神が

最後に吹き込んだ神の“”にあたる。


神のイメージに創造されたというこの箇所は博士の言う

神格のイメージに創造されている”と同一の意味合いだ。

 

博士は続けて言う。

“みなさんは神格のイメージ通りに創造された。

つまり、皆さんは片面だけのコインとして創造され、無限の存在です。“

 

無限の存在という言葉を、観念の世界の中の言葉だけに

とどめないでいただきたい。

神とか無限とか、現実から離れた言葉の記号のように思う人も

いるかもしれないが、実際は、本当に、可能性は無限に

広がっているということなのだ。


奇跡と思えることを、非科学的と称してあまり取り合わない

風潮があるものだが、実際、起きていることは起きている

ことなのだし、その可能性が発揮できて、癌が完治したり、

在り得ない力が発揮されたりすることも稀(まれ)であっても

あるのだ。


稀(まれ)でもそれが起こるかどうかの違いは ただ一つの条件、

私たちが 神格の心に限りなく近いところで生きているかどうか、

神の創造された完全円満な実相を知っているかどうか、

人は神なりという真実を受け入れているかを満たしているか

どうかの 認識の差にすぎない。

 

自然治癒力はそういう意味では形而上的なものである。


つまり、心の振り向け方、心のどこに視点を定めるかどうか、

自分をどのように見るか、自分は誰か問い続けているかどうか、

そういう、心持に大いに寄っているからだ。

 

一方、データ中心の人もいる。

いわゆる頭の良い人、とか、知能在る人などがそれらの

データを数学的にまとめ、分析し結論を出して納得のいく、

科学的論考で回りを導く。


しかし、皮肉なことに、こうした知能在る人たちは、ある意味、

ゼロリミッツから離れて行く傾向にあるということだ。

 

分析や理屈は、神格には必要ない。

自分の持っているありのままの持てる愛情をただ容認するのに、

どうして、理屈がいるのだろう?


だから、ヒューレン博士はこういう。

 

“知能の高い人が考えすぎてしまう罠にはまると、

もうどうしようもない。

ハワイではそのことを、‘Kukari Pa’a’といいます。

クカイ・パーの意味?それは知的便秘のことです。”

 

知的便秘、面白い表現だが、知的に考えすぎた挙句、消化不良

をおこし、出すべきものが出ない、良い結果が生まれず、そこで

滞ってしまい、前進できなくなる状況をさす。

 

イスラム教の聖者、メヴァラーナも同様のことを 

“普遍知性は魂の奥底で真理を直観したときに得られるもの。”

と言い、

世俗的な中で取得する智慧と区別している。

真理を魂の奥底で理解する~言葉では、簡単に書けるが

実際そのためには、頭で考えるのではなく、体験し失敗し、

気づき、また再度体験していく過程で得られるのだろう。

 

しかも、自分の心の中の良心、あるいは、ゼロ地点の声を

どれだけ聞いて耳を傾け実践できるかということに依るのだろう。


弁舌が立つ政治家が偽善者ではなく 本当に良心ある政治家で

あるかどうかは誰も見極めることができない。 


時間が証明すると言っても、その時間は10年か100年か

それも分らない。

ただ政治家の良心、ゼロ地点の声、あるいは、神格の声が

それを知っているのみだ。

病や不幸に見える事柄、それは他者から来ることはない。

すべて自分自身の心の反映だと気づいた人は、自分自身の心を

神格に回帰させることによって浄化し結果を変える。

 

自然治癒力セラピー協会の言葉を使わせていただけば、

アートマ意識に戻ったとき”その人の周りは、その人を含めて

円満でしか在り様がないのだ。


3月24日のブログの内容の重複だが、イスラム教聖者メヴァラーナ

は次のように倫理観を定義して 自分を律するように教えた。

高慢、執着、賄賂、他者への批判、嘘などを次のように定義して

慎むように述べた。

 

*高慢; かつて、天使であったものが、罰を受け永遠に神の赦し

を得ることなく、悪魔となってさまよっている。 

すべて高慢さから来たものである

 

*富への執着;富への執着とは、喉に詰まったワラである。

現世の名誉や財産に、目のくらんだ人々の喉に詰まっている

このワラは、永遠の至福の源となる、生命の水が喉許を過ぎ

体内に浸透するのを邪魔している。

 

*賄賂; 賄賂がまかり通ると、正義は麻痺し、秩序は乱れる。

人々は混乱し、暴君と名君、圧制と善政の判別ができなくなる。

 

*他人の欠点をあげつらうもの;そもそも人間は、自分の短所

の数々を気に病まずにはいられない。

一旦気づけば、何とかして直そうと躍起になり、他人のことなど

構っている余裕はない。


それでも他人の欠点や短所をあれこれ詮索するのは、

結局は自分の欠点を受け入れらず、他人に押し付けようと

している場合がほとんどである。

 

*うそ; うそは言うものも言われるものも 心の疑念を

呼び覚まされ、気の晴れることはない。

だが、真実は常に心に平穏と安定をもたらす。


一方、人間の良心のなせる善行を、次のように定義して

賞賛している。

 

*謙虚さ; 謙虚さはその人の価値を高める美徳である。

実を結ばない木の枝は空高く伸びる。

それにひきかえ、たわわに実る果実をつけた枝は垂れ下がる。

果実が実れば実るほど、体はその重みで垂れ下がるが、

地面に触れて泥に汚れぬように、必ず添え木が差し出され、

支えてもらえる。


謙虚さについては、預言者ムハンマドがその好例である。

彼こそは、現世と来世双方の果実を一身に集めた、

世にも珍しい貴重な枝である。

 

*寛大さ; 心 優しく寛大な者が貧者に救いの手を差し伸べるとき、

その手は楽園の木々に触れているのだ。 


彼が、貧しい隣人たちのために費やしたものは、審判の日に

再び彼の手元に帰される。

 

*約束の尊守;約束を実行するかどうかが、その人の誠実さを

測る物差しとなる。

誠実な人だけが賞賛するに値する。

 

*怒りを鎮める;怒りの感情が湧き起こっても、それを抑制

することが出来るものは、神の怒りをも免れるものたちだ。

 

*忍耐;忍耐こそ、救済の鍵である。 忍耐はあらゆる種類の

困難を取り除く。

 

謙虚さ寛大さ、怒らない 忍耐 などの徳を取り上げて薦めた。

具体的なこうした事項を知り、守ることが、自分の中にある、

心の本源につながると知っていた。

怒りを例にとれば、抑制することというのだが、ヒューレン博士は、

自分を清める、つまり、I love you, Thank youなどの言葉を

心で言い続けることで、ゼロ地点に戻る努力をするほかないという。

 

いずれの方法にしても、小我の感覚に惑わされず、その感覚は

心の原点に返るきっかけをつくってくれるものとして受け止め、

本当の自分の軸から、ぶれることが無いように、一瞬一瞬の

積み上げが人生の幸せの秘訣といえるのかもしれない。

 

   

 

 

 

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