結果を求めないということ 2016・7・21
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クリシュナはアルジュナに言う。
“自分のとるべき行動を成せ。
ただし、結果を求めるな。結果を求めるために
行動を起こすのではなく
なすべきことを為して、結果を待つ。
愛するアルジュナよ、総てにおいて行動する基盤
にこの考え方を徹底しなさい。
結果に執着するなかれ。
そうすれば勝っても負けても、汝の心に平和を維持
することができるだろう。
そうして得られた心の安寧こそ、真の意味で
神とつながるということなのだ、
結果を求めずしてなされる善き行いは
報酬や期待する結果を予期して行う
ことより、はるかに、勝っている。”
私たちは資本主義経済社会にいるから、
働きとそれに見合う報酬は当たり前。
労働代価は当然伴うもので、近代社会となって、
生活は様々な発明によって、
便利に快適になってきている。
先般、スイスで、一律に生活保障として20万円余
を国民に保障するかどうかの国民投票が行われた
が、働かない人たちに保障する意味がないという
ことで却下された。
自由に働けば働いただけ、賃金が多くなる方が
人の働き甲斐が増して競争力と
技術力の進歩が在るのだろう。
一方、そうした 労働=報酬、サーヴィス=対価
という仕組社会で、何か行動する前にそれに
見合う結果(報酬)を要求することが 実は
心の安寧を深い所で得ることができない
ジレンマになってくることがある~というのが
今日のクリシュナのお話し。
そういう社会に 不適応を感じる人たちも
決して少なくは無いのだろう。
不適応を感ずれば、ストレスとなって体に響く。
鬱病や成人病といわれる病も心の抱える、
抑圧されたストレスから来ている
ことは近年、提唱されているところだ。
ここで、クリシュナはアルジュナに 何かを
行う時、その、“結果を求めるな”と言う。
戦国時代の武将たちのように、戦(いくさ)に
勝って、領土や石(こく)数を主君から増やして
もらうことを期待して闘うことは 筋が違うと
クリシュナは言っているのだろうか?
現代には;そぐわない教えだと反論する人も
いるかもしれない。
その意味は、“自分の心の良心(神の声)に
行いを捧げる” 気持ちで どんな小さな行動でも
誠意とともに行う~
ということが本来のクリシュナの言う意味だ。
そういう心持であれば、どんな結果を伴うと
しても、それこそが唯一 自分の心の安寧(あんねい)
と平和をもたらすのだとクリシュナは言う。
それは、決して闘いの場だけの事ではなく、
職場や家庭の中でも、どんな仕事をする時でも、
“相手の中に住む、神に奉仕させていただく”
と意識するだけで、同じことをしていても
心のこもった、愛のある、相手に喜ばれる、
意味あるものに代わるに違いない。
“こうしたら、こういう結果が 得られる”と
考えて行うとしたら、たとえそれがほんの一瞬の
期待であっても、どこか、欺瞞的で自己満足的な、
偽善になる恐れがあるのだろう。
無心で自己の為すべきところの事を責任もって
遂行する~これが、クリシュナの言う
“結果を求めるな”という意味なのだろう。
世捨て人という言葉がある。
是は、世の中をななめに構えてみている
人の事だけではない。
世の中の現世的な価値観にあまり、束縛される
ことなく、自分の内側にある“本当の自分の声”
と対話しながら、生きている人をも指す。
そういう人たちは平凡な人として、たぶん大勢、
国の内外を問わず、生きている。
時々、身を挺して、相手を助けようと 自ら
犠牲になって命を落としたり、殉職したり、
利害抜きに災害で苦しむ人たちに手を差し
伸べたり 社会の片隅に存在している。
そういう人こそ、”結果を求めない”人として、
頭が下がる思いだ。
“The learned, doing their work with a firmly
established attitude of giving up attachment
to the result of their work, get released from
the bondage of birth
(第2章47~53の一節]
クリシュナの言葉訳)
“こうして結果への執着を棄て、自らの仕事を遂行
する者が、この世のしがらみから解放される。“
ヴェーダの教えではこの考え方は重要だ。
ヴェーダ哲学では、 人生の根本的目標は神と自己
との同一化、もしくは、神との一体化であるから
いかなる執着も、その妨げとなる。
自分を守ること、家族を守ること、財産を守ること、
健康を守ること、名誉を守ること、守ることが
多くて、それらへの執着を棄てることは、
責任を持っているからこそ、難しいと思うのが
良識というものだ。
クリシュナの言葉は、空回りするエンジンの
ような実現性の薄い響きを持つように聞こえる
人が多いだろう。
ヴェーダ哲学では、僧侶などの特別な人生を歩む
以外の人達へ、人生の4段階を認め、子供たちが
独立し、親から離れ、ある程度 生活の基盤が
できたならあとは 世捨て人のように、
“最後の人生の目的”を想いだし安寧の境地を求めて、
生きることが推奨される。
富も性欲も、家族の繁栄も、勉学と並んで 推奨
されるそれぞれの時期がある。
昨今、日本でも、退職後、田舎暮らしと称して、
都会を離れ、自給自足生活をしながら、自然の
中で老後を送る人たちが少なくないと聞く。
まさに、そういう人たちは、平和な環境に自然
の中で、安寧ある暮らしを求めて、ある意味、
最後の人生の段階を 有意義に構築しているような
気がする。
ここで結果を求めるなと教えられたアルジュナは
クリシュナに質問する。
“ケイシャバ!(クリシュナの別名)。
どのようにしたら、そうした確固たる智慧、
内なる本当の自分につながる
ことができるのですか?
そういう賢者はどのような様相をしていますか?
歩き方も異なりますか?”
(2章54節)
以下はクリシュナの答え:
“小我の持つ欲望から離れ、内在する真の
自己の喜ばしい存在感を体感した者が‘自己の内在者
と固く結ばれた者’と呼ばれる。
その時、彼は不幸に落ち込むこともなく、
現世的な快楽を求めることも無くなる。
自然と無執着になるのだ。
恐れや 怒りから解放され 確実に智慧を備えた
‘ムニ(muni)’と呼ばれる存在となる。”
そのムニはどのような人をさすのか?。
“何処にいてもその無執着は変化ない。
人生の場面で、遭遇する喜び事や悲しむべきこと
に左右され 快不快を感じることはない。
彼の智慧は彼の心に浸透しているから。
亀が甲羅の中に手足を隠してしまうように、
彼の心は、五感の感覚機能で感じる対象から
切り離されているようなものだ。
そこには対象と五官感覚は存在しても、ムニが
自らの意識を引き離した時、
存在していないかのように
どこかへ吹き飛んで行ってしまうかのように、
彼に影響を与えることは無いのだ。
彼は、真の自分自身の内在者との連結感を
味わっているだけだ。
その感じこそ、総ての外界の魅力的な対象物
をも意味がないものと感じさせるのだ。”
(2章55~59)
若いときは、勉学時期を終え、子供をもうけ、
学を与え、そのための富を蓄え
そして 夫婦二人になったとき、あるいは
人生一人になったとき、静かな環境で自分自身を
観想しながら本当の自分を見つめる、~
これが先ほど述べた人生最後の段階として
理想的と 印度では考えられていた。
少なくても 高齢化社会になり、平均寿命が
延びている今、退職しても十分そうした時間は
とれそうである。