自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

般若心経とクリシュナの言葉(1) 

2016年07月25日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

  

怒りと期待とテロリスト 

2016.7.25 (2017.9.8 改訂版)

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7月13日 お盆初日にご先祖様への迎え火を

焚いたお宅も多いだろう。

日本の寺ではこの日(もしくは前)に俗にいう

“おせがき”、施食会(せじきえ)を行う所が多いが 

その式で、必ず唱えられるお経の一つに 般若心経 

がある。


このお経は宗派を問わず、広く お唱えされているのも、

この短いお経の文言のなかにこそ、仏教の、あるいは、

真理の奥義がひそんでいるからだと思う。


意味はともかく、色即是空 空即是色 という

フレーズは 日本人の心の片隅に残っている。 


空(くう)という言葉の深淵な響きは 何となく、

日本人の文化に浸透しているので、誰もが

受け入れやすいことだろう。

 

印度のギータという書物の中で、クリシュナが、アルジュナ

に諭す言葉の中には 仏教の原点となっている

言葉が少なくない。 


お釈迦様が修行され、悟りにたどるまでは、当時の

インドはバラモン教が主体信仰だったから、仏教の

根っこには、インドの古代からの教えが、養分として

吸い上げられていると思う。

クリシュナは、ヒンズー教が確立される前、

お釈迦様が生まれる数千年前、

存在していたマトラ―国の王家の1人であり、

マトラーを流れるヤムナ川は、ガンジス川と並び、

クリシュナの伝説が残る 聖なる河でもある。


今日はそんなクリシュナの言葉を 

ギータ(ヴァカバッド・ギータ)から

ご紹介したい。


先回は“ムニ”と呼ばれる覚り人の定義の一つを

書いたが、その続きとなる。


“When a person focuses on an item (an object, 

a thought or whatever), he connects with it. 

This connection - sticking together – gives birth 

to desire. 

Desire leads to anger. Ager gives rise to confusion, 

and confusion to loss of understanding. 

Unable to understand, he loses his discrimination 

and perishes “ (2-64,65)

 

いきなり、空 という概念は、ここにはない。 

その前段階の説明部分だ。

上のクリシュナの言葉を 少々 般若心経で

使われている言葉に置き換えて訳して

みるとわかりやすい。

 

“人が 対象物に焦点を合わすと、それが、

モノにしろ、考え方にしろ)、その対象と同化する。 


この関係、つまり、執着が 欲望を生み出す。 

欲望は怒りを生み、怒りは顛倒妄想 を膨らませ、

顛倒妄想が般若(サンスクリット語のバンニャーの

漢字音訳で、バンニャーは悟りにつながる智慧)

を理解することを、困難にさせる。 

そして、人は認識力を失い、死んでいく。”

 

人は、心の中で対象物に想いを注いだとき、

その注がれた対象に対して 多かれ少なかれ 

執着が生まれる下地がつくられる。 


ここでは connect という英語で訳されている

から、その想いには、ケアーや愛情、大切である

という感情が含まれているのだろう。 


対象は ヒトやモノとは限らず、信条や、教義、

主義などにもあてはまる。


昨今のイスラム国のテロ活動は インドのお隣、

人種としては戦前まではインド国であった、印度

ベンガル州の イスラム教徒が多く住むパキスタンの

高級レストランでの乱射事件で日本人が7人も

殺害された。


彼らのテロ活動は、一般的なつつましいイスラム教徒

たちからみれば やはり我々同様に、不可解で 

イスラム教に対して悪いイメージを世界に与えていると

批判的に感じる信者たちがほとんどであること

は事実だ。  

 

ここでの行為は、クリシュナの言葉でいえば 

過激的・破壊的思想をテロリスト達は、自分自身

と同化させてしまっていたほど、信じていたので、

その信念は 大きなエネルギーを含み、

“怒りを生む” 最たる状況まで膨らんでいたの

だろう。


“こうでなければならない。”という信条が強ければ

強いほど、そのようになるべきという願望は 

一種の欲望となり、そうならない場合、

たとえば、’穏健に話しあう’という選択がとれなくなる。


さらに、その不満は、嵩じて、その国の社会的システム

を壊すほかないと思うほどの”怒り”が生まれる。


心理学的に言っても、怒りというのは 

“自分の期待にそぐわない” 時に生じるものだ。 

本人は、無意識でも、相手はこう出るだろうと期待

していたところ、そうでなかったとき、失望ととも

怒りが生まれたという経験は多くの人が

もっているだろう。


八つ当たりするときは、そんな心持になっているはずだ。

思惑どおりコトが運ばないとき、そういう時は重なる

もので、ついつい、“なんで、そうなるの?!”と

不満の感情を内に抑え、周囲の人には 

イライラした言葉使いで物言うときはない

だろうか?


家族に対して、友人に対して・・・所詮、怒りとか 

怒る とか、腹立たしい という感情の原因は、

自分の期待に逸れたという裏返しのことが多いのだ。


怒りは、ここで、クリシュナは述べていないが、

悲しみや憎しみ、などの マイナスの感情の

連鎖となる。 


般若心経では そうした、感情を、妄想と呼び、

心の平穏からどんどん引き離す性質から、

顛倒妄想(てんどうもうそう)と詠っている。


その要素になっているのは、執着、期待、怒り、

思い込み、不安、等の感情が 連鎖的につながっていて

執着は人生につまずいて、転ぶ、(顛倒)要因とされる。

 

クリシュナは このフレーズの最後でこう述べている。

・he loses his discrimination and perishes


認識を失い、死に至る と訳したが、本当はもっと

含蓄のある言葉だ。 


Discriminationという英語は 何が正しくて、

何が偽物かというものを見分けることをいう。 

自分とは? 

本来の素晴らしい自分とは? 

自信と活気と、プラスの思考に満ちた自分とは? 

と問いかけ続け、一歩立ち止まり、間をおいて、

冷静になれば、事が大きくならないはずだ。


顛倒妄想 に翻弄され、本来の自分を見失った

まま生きていると、最後は、perish~滅びる。

Perish とは 不幸な死を意味する。 


顛倒妄想に翻弄されてわけのわからないまま 

肉体の死を迎える。


とすれば、 この英語のもつ他の意味、消滅する 

という意訳をあてはめた方が死ぬという訳より 

ぴったりするのかもしれない。


その人は自分を見失ったまま、放浪することに

なるだろう。 

自分の本来の居場所の消滅、本来の自分らしい

プラスな生き方の消滅ともいえる。

 

般若心経でも だから、“無色無受想行識”と念を

おしている。

私たちが肉体の五感で受け取るわずかな情報を

そのまま信じて、行動することなかれ。 

なぜなら、そのような、五感認識でとらえられる、

物質(五官で認識するモノやそれで構成される世界)

は 無い のと等しく、真に存在していない

(刹那的な存在)のだから。


対象や現象から受ける感覚器官から翻訳される

情報を信じて、妄想を生むなかれ。


妄想は、執着を生みやすいのだから、

執着がどこかにある心持が、高まっての

行動は慎むべし。


妄想・執着などが、心の原動力(主体)となって

人が動いている限り、行為の結果は、プラスの実

を結ぶことはなく 熟していない美味しくない実が

なるだけだ。 


そのような、うらなりの果実は市場に出される前に

捨てられてしまうのと同様 妄想に支えられていた

対象や結果は、存在していたように見えていただけ

の 刹那的存在物に過ぎない。

 

妄想は究極的に実在しないものなのだ~という意味

は、そういうプロセスにのせて考えると、

わかりやすいと思う。

 

クリシュナは、このことを行間に含ませて、次の

言葉を続けて行くのである。

 

続~

 

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