釈迦牟尼が6年の苦行を経て地上生活の一歩を歩いた風景を目の前にして
2017・11・17
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皆様、こんにちは。
以下の記事は今から5年前に書かれたものです。
(今、2017年11月17日、10:15AMに各欄に一行ずつ補足させていただきました)
時々、古い記事を推敲するために開けるのですが、この記事を
見つけたときは、私自身少し感動しました。
それはブログを書いている私は、肉体的メンタル要素を離れた、
深い心、つまり、私自身が自分のアートマとつながっているからでしょう。
こうして、5年前の自分の書いた記事の内容は、今現在の自分に、
鼓舞を与えることができるのもそうした理由からでしょう。
心が、揺れているとき、古いブログを開けてみるときがあります。
何かに揺さぶられている、現在意識のメンタルな状態を落ち着かせる
ために、’揺れている今の私’にとって、効果があるようです・
今年2月に訪れた、印度UP州 お釈迦様が6年苦行された岩やの僧院前で・・・
眼下には仏様が布教を始めるために降りられた、ブッダガヤ周辺の広大な
平野が広がっていました。(下記写真参考)
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11月4日(日曜日) 2012
そのⅠ)
幸せと、 偶然の一致は正比例します。
願望 が叶うことが 偶然の一致ような形 であなたに訪れるからです。
偶然 が起こるのは、意思や願望が 波動で生きているからです。
波動 が同じ波動を呼ぶのです。偶然の一致がプラスに動いていくと、
それが幸運と呼ばれたり、幸せをもたらせる出来事になったりする
のでしょう。
その2)
でも、幸せ というのはまだ、現象世界のお話しです。
私たちが今いる世界は 二元の価値観 を持っている世界です。
”良い・悪い” とか、”美・醜” などの対立した価値観 があり、
この現象界を、相対的二元論の世界とも、呼んでいます。
”今日は、幸せ” といえば、明日は ”不幸” が来るかもしれない。
いつまでも変わらない、ほんとうの幸せ?
それは、”本当の自分の姿” を知ることで得る”何か”と 言える
でしょうか・・・
なぜ、そうなのか?
といえば、世界の大きな宗教の元祖も、私の学んだインドの
大師たちも、’本当の自分の姿’を知ることが、’本当の自由を得る’
ことだと喝破し、最終的なその修行の段階のゴールに、それを
目標として置いているからです。
その時には、幸せ という言葉は必要なくなるでしょう。
なぜなら、いつも、その感情にあふれているからです。
その3)
本当の自分の姿を知るということは、何かをしたり どこかに行ったり
(修行の意味)する必要はない かもしれません。
自分の中に 誰でも 本来、心の奥に、持っているのが、
本当の自分ですから、特別に肉体を痛める修行をする必要はない
ということでしょう。
仏様も洞窟で骨と皮にやせ細るまで悟りのための苦行を
なさいましたが、ある時、’それは必要ない’と思い立ち、下界、
大衆の世界に、お戻りになったのです。
”思い出せば” いいだけの お話しではないでしょうか?
深い意識の中でそれを”再発見”するだけのお話しです。
本当の自分の資質を、サンスクリット語で、アートマ・Atma
と呼びます。
自分の心にある、仏性、神性 と同義語です。
その4)
自然治癒力 というのは、アートマ(真の自己・実相) という光り輝く
自己内在する力によっておこります。
すべての 癒し と トランスフォーメーション(変容)の源 が
アートマです。
その5)
苦厄(くやく)の原因は何でしょう?
それは、”自分が肉体と同一である” とみなしていること。
その ”一過性の物・事” への ”執着” 。
そして、一過性の 実在しないものへの ”恐れ” だと、
大覚者は言います。
だから、 ”私は誰ですか? 私の体は 誰のものですか?”
と 振返ることがポイントだといいます。
その6)
例えば、自分の 肉体 の定義 をしてみてください。
自分のものだと思う 理由 も考えてみてください。
肉体を構成している材料は、宇宙に存在する物質なのに、それらは
あなたの物だと、いえるのでしょうか?
その7)
自分の意識と肉体の関係はどうでしょう?
”自分という意識”は アハムカーラ(小さな限定自我意識)です。
自分と肉体を 同一体 と感じるのは、この、アハムカーラ が、
私たちの心と肉体を’覆(おお)っている’からです。
”自分はこの肉体の中にある。たとえば、心臓も、太陽神経チャクラも、
脳も、肉体の中にあるから 肉体が自分だ” と思い込ませて
いるからです。
その8)
物質(肉体の五感で感じられる)世界は、私たちが感覚を信じることで、
できている錯覚の世界です。
たとえば、私たちは 震度3程度 の地震を体で感じることはで
きるけれど、地球が 時速何千マイルの勢いで移動 している
ことを感じられません。
あなたの目の前の物は すべて原子でできていること。
原子は素粒子でできていること。
素粒子は巨大な空のスペースをぐるぐる回っていることなど、
私たちの感覚では、つかめません。
そんな、ぎこちない、能力 しか 私たちの五感は持ち合わせて
いないのに、感覚で得た情報が、すべて真実だと、どうして、
信じることができるのでしょう?
その9)
哲学者が言う ”社会的規約の催眠状態” とはこのことです。
感覚器官で 身の回りのエネルギー体を 物質的構造、色、
音に変換してしまいます。
こうして、妄想の現実を創り上げてます。
(その八) で書いたように、
物質を構成している素粒子の間の 空間の廣さ を考えると、
物質は固体で 凍結した状態だと信じていることが、そもそも、
幻想に近い錯覚です。
こうして、私たちは、 真の自分(アートマ)の智慧で
物事を見るのを忘れて、催眠状態の中で生きています。
その10)
般若心経でいうところの ”知恵” と ”智慧”の違い、
ベーダでいうところの、”マーヤの知恵” と ”アートマの智慧”
の違い知恵は、五感を信頼するがために、肉体の眼で見えないもの・
聞こえないもの・臭いのないもの・味わえないもの・
触れる事ができないものは、存在として認めないことを基盤に、
私たちの常識を創り上げます。
つまり、その非存在を 合理化して、存在するように組み立てる
常識の中の知恵を、”現世の知恵” と呼びます。
バンニャー(般若)の ”真理を観る智慧” や、アートマの智慧
とは異なるものです。
その11)
波長や波動は 五感の感覚でとらえられません。
私たちが関知できる、色ですら、光の波長の断片に過ぎません。
同様、肉体も固体と感じているけれど、実態は、細胞、細胞の分子、
分子の中の素粒子、素粒子の中の巨大な空間、そして、
空間の中のアートマエネルギーから成り立っています。
私たちがエネルギーの波動体であるということは、喩えれば、
透明人間のように外部世界との境界線は無いのです。
外部世界も その実 波動エネルギー体でできている からです。
その12)
そう感じられるようになるためには、私という ”肉体自分の意識”から、
新しい自分の意識へのトランスフォーメーションが必要です。
自分の新しい変容を通して、自分がどこにでもいる~という感じが
つかめます。
たとえば、あの木々の揺れている葉の中に、それを動かしている、
微妙な風の動きに、風に誘われて舞っている蝶の中に、蝶の止まる
雄蕊や雌蕊の中に、あらゆるところに自分を発見できるでしょう。
何故って、私は 境界線のない 命を生かすエネルギー体なのだから。
そのエネルギー体は小さな自分だけの特別仕様ではないはず。
存在しているすべての人に植物に動物に流れる同一の力・・・
その13)
境界線をつくってしまうもの。 それが自分意識、サンスクリット語
でいうところの、アハムカーラ です。
観察者であり、観察されるものであるという二元的な観方をする
主体です。
知性がそれに加担して、理屈で非難や批判をして、
自分を責め、相手を責め、社会をせめて問題を ややこしく
させていくのです。
本当は、自分の本質エネルギー体を自覚すれば、相手の本質と
同一体化することがその瞬間できるはずだから、相手に優しく
なれるでしょう。
その時、相手も変わるのです。
変容(transformation)はこうして自分に相手に、そしてかかわるすべての
対象に対して連鎖していく・・・のでしょう
調和しかない世界が実現するはずなのに・・・・・
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******追敲です。 誰かからの声なき声で、(1)の項で
幸せと、 偶然の一致は正比例します。
偶然の一致は、悪い事にもあり得るという意見をいただきました。
確かにそうでした。 悪い偶然の一致 は負の連鎖ですね。
その時は、たぶん、’受け入れる’ ことで次のステップが
生まれるような気がします。
私自身、負の連鎖の新婚時代、身体的には顔と背中、腕と胸
に発疹が数年間続き、うつ病のように、家から一歩も出られず、
昼間も雨戸を閉めて真っ暗にして、横になっている毎日が続きました。
そんなとき、夫に”今を、受け入れることだよ”と言われて、
はっとしたことがありました。
’今’を受け入れないと、’イライラ’感だけが高まって、冷静に次のステージに
向かうための積極的な心にもなれないことがわかりました。
それからは、以前以上に、無言で常に心の中で、当時知っていいた
唯一の言霊、’人間神の子、無限力’ を唱え続け、必ず、変容
(トランスフォーメーション)=常識的な考え方の次元を超えて、
本当の自分(今いう所の、アートマ)に 代わる と信じ続けて
自分を見つめてきた結果が、今の私の環境と自分自身のようです。
負の連鎖が続いているときは、まず、それを通りすがるのを、なるべく
嵐が通り過ぎ行くように、客観的に見つめて、次の新展開が必ず、
来ることを信じて、前向きに受け入れていくのが、有効な
手段のような気がします。
上の写真の私が見つめている位置からはこのような広大な農耕地が
広がっていました。
釈迦牟尼も、苦行の無意味さを知り、荒野に降り立つときに見た、
同じ風景だと想像すると感慨深いものがありました。