自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

ワクチンの効き目と、コロナワクチンへの向き合い方

2021年06月21日 | 協会ホームページ

号外版・心から納得できる選択を      2021/6/21

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最近、クライアントの方から、今年の4月に発売されたばかりの、

上記の本を紹介されて、早速、読ませていただきました。

 

本格的に、コロナワクチンの国民一斉接種が始まりつつある昨今、

ワクチン、そのものに対しての疑問が世間にはあるようです。

たとえば、インフルエンザ・ワクチンは、打っても、何故かかるの?

といった、素朴な質問から、臨床的に、ワクチンの効用がどのように

医学的に証明されてきたか?といった、科学的エヴィデンスを求める

質問まで さまざまです。


この本には、それらの答えのほか、キッシンジャー時代からのワクチン
接種の背景にある思惑を紹介し、巷(ちまた)でささやかれる’陰謀論’
に、とどまらない科学的見地をもとに、書かれた本だと、驚きました。

 

これから、皆様が、コロナワクチンを接種するかどうか、決断を

迫られる機会が、きっと、近いうちに、来ることでしょう。

自然治癒力セラピー協会としては、ただ、”心から納得できる選択”を、

各人が行うことで、それぞれの身体のもつ自然治癒力が、充分発揮できる

場を保って行けるはずだ、という立場をとりたいと思います。

 

マスコミや、コロナに対するさまざまな見解や、多種多様な情報の錯綜

する中、この本は、じっくりと、腰をすえて、自分なりの冷静沈着な判断

下すための、良い指針になると思い、ご紹介いたしました。

 

すでに、若者たちの世代が、ワクチン接種を否めない状況が近い将来に

来ることを感じつつ、皆様それぞれの立場で、親として、伴侶として、

あるいは、身近な親族として、マスコミには決して報道されない、この

本の内容を吟味して、話し合い、とことん、自分の心の附に落ちる選択を

されますよう、心からお祈りいたします。

 

 

 

 

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ヨガのイロハ~一元論の中の、感覚のとらえ方

2021年06月21日 | 健康と”悟り”・スピリチュアリズム

 馬に喩えられた人間の諸感覚   2021年6月21日

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人は偉大な学識を得て、学者たち集まりで勝利を収めるかもしれない。

人は偉大な英雄になって、かずかずの闘いで勝つかもしれない


人は王のなかの王に生まれて、大帝国を支配するかもしれない。

人は慈善として黄金や牛を気前よく分かち与えるかもしれない。


人は夜空を飾る無数の星を数えることができるかもしれない。

人は生物の無数の名前を列挙することができるかもしれない。


人は、アシュタンガ・ヴィ―ジャ(ヨガの8道)に熟達するかも

しれない。

人は月に達することに成功するかもしれない。

 

しかし、誰も自分の身体と感覚を制御できず、心を征服して、

それを不断の内省と、不断の平静に、保つことができない。

 

とサイババ師は、サンスクリット語の一節を、美しく響く優しい

静かなトーンで、古いインドのサーマヴェーダの調で、講義の前に

こう、唄った。

そして、この歌の概要の、“誰も諸感覚を制御できない”という

ポイントから、講義は始まった。

以下、ノートから引用

・・・

“身体が諸感覚に、ある影響をふるうというのは、本当です。

しかし、諸感覚は、それ以上の大きい影響を身体に及ぼしています。

諸感覚がなければ、身体は在り得ず、身体がなければ、諸感覚

有りません。


この二つは、切り離しができず、互いに依存する関係にあります。

プラス[正]がないマイナス(負)、マイナス(負)がない、プラス

(正)は、電流のように、何も役に立ちません。

同様、感覚のない身体や、身体のない感覚は、機能すること

ができません。

だからこそ、身体を正しくケアーすることが、重要なのです。

 

諸感覚の役割は、神秘的です。

感覚器官の働きはとても霊妙で、予測がつかず、説明もできません。

諸感覚は身体よりもその波動は微妙です。

話し、触れ、見聞きし、味わう能力、ガスや胆汁、粘液とともに

身体の中に存在する要素とともに、この諸感覚がすべてに等しく

並外れた支配力を振るっているのです。

 

喜びや、悲しみ、熱さと冷たさなど、感覚器官が、外部の物体と

接触したときにのみ、経験されます。 

感覚の対象物が無ければ、感覚は一瞬たりとも、昨日できません。


諸感覚のすべての活動は、環境内の対象にむけられ、その感覚器官

とその活動の無数の、働きの側面は、なかなか理解し、説明すること

ができません。

 

諸感覚はマートラーという名で呼ばれています。

この意味は、‘測定する道具’ということです。

どのようにして、この測定は感覚器官によって行われているの

でしょうか?

 

たとえば、果物を、一つ取って見ましょう。

諸感覚のうち、どれがその味を甘いか酸っぱいか、決定する能力

を持っていますか?


舌です。舌は味を決定し、その質が良いか悪いかも判断し、

関係するすべての器官にそれを知らせます。

 

ある絵画が、素晴らしい作品かどうか見分けるのは、目です。

ある物質が、善い匂いか悪臭かを決めるのは、鼻です。

心地良い音楽か、耳障りかを区別するのは、耳です。


こうして、感覚器官はそれが異なった感覚対象の特性を、測定し、

判断する能力を持っているために、マートラーと呼ばれます。

 

古代聖典の‘カトパニシャッド’の中で、諸感覚は身体という戦車に、

くびきで繋がれた馬として説明されています。


諸感覚を、サンスクリットで‘アスワ’と呼びますが、これは馬の

意味です。

アスワとは、‘落ち着かない’という意味もあります。


皆さんご存知でしょうが、馬は、立っていても走っていても、

眠っていても、絶えず、その身体のどこか、たとえば、尻尾

や脚、背中や鼻、顎などを、動かしている動物です。

アスワムという現代の馬の言葉の語源は、このアスワから

来ているのです。”(以上)

 

ここまで語ったサイババ師は、古代インドで行われていた、

馬の生贄(いけにえ)をささげる“アスワ・メーダ・ヤーガ”

という犠牲祭に関して、話し始めた。

 

“この犠牲祭のアスワの意味は、変わりやすいという意味です。

‘メーダ’は‘ブッディ’と同義語で、智慧力を意味しています。

したがって、この犠牲祭の名前である、‘アスワ・メーダ’とは、

‘変わりやすい心’という意味になります。


言い変えれば、このときに、犠牲として用いられた馬は、

‘変わりやすい心’を象徴しているのです。

その馬を捉えて制御できる人は、‘デーマンタ’と呼ばれます。

実際、こう呼ばれた古代の人は、戦闘に出る資格が与えられました。 


この儀式には、二つの意味、つまり、表面の意味と、秘教的意味が

隠されているのがわかるでしょう。

表面の意味では、戦闘に出るための果敢な力を得るという儀式

あったことでしょうし、秘教的には、‘心を支配できる勇者’を称える

ものでもあったのです。

 

外見の馬という動物を支配することと、自分自身の馬のような

虚ろいやすい諸感覚をコントロールできること、それを兼ね備えて、

本当の‘勇者’‘英雄’と称えられるのです。”(以上)

 

と述べて、古代インドにおける、英雄の定義を教えた。

文武両道ならぬ、心武両道、というところだろうか。


自分の絶えず、揺れ動く感情が支配する心と、これまた、

瞬時としてじっとしていられない、馬の双方をきちんと”手綱”

をもって、コントロールできる人こそ、勇者と呼ばれたという

ことだった。

 

 

 

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