Kalyug (カリユガ期)にすべきこと…2024/8/11
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臨時投稿です。
今はインドの古代哲学でいうと、カリユガ(kalyug)
と呼ばれていることは、良く知られている。
この時代の特徴は、(時代といっても、数千年続いている
のだが)争いが絶えず、人は、与えるより求めることが
先決で、パワーや富に対する執着と欲望、憎しみや嫉妬
で、傷つけあい、批判しあい、恐れと不安で人々は、
安寧心の生活は得難い~と定義されている。
社会現象を見ても、上の定義はいたるところにみられ、
ニュースのほとんどが、こうした案件を日々、取り上げる。
人の心も然り。
誰にでも、天使のような、純粋でまっすぐで、素直で、
手を伸べて、自分の持ち分を、共有しようという優しい
心がある。
そして、反面、誰にでも、多かれ少なかれ、それとは
真逆な、卑怯で、小心で、
敵をつくって、正義を主張するよりは、
目立たず騒がず、事なかれ主義で小市民的生活で満足する
自分もいるはずだ。
互いに、認め合いながら、少しでも相手の、そうした
弱さをみたとき、見ただけではなく、そのとばっちりで
嫌な思いを体験したとき、その相手との縁は、切れること
が多い。
自分自身に対しても同様だ。
自分の未熟さや、弱さ、要領の悪さや、それにつけ込んで
くる他者への憎悪や、嘘つき、嘘つかれ、それも、方便と
言う自分に嫌悪が増すと・・・自分を傷つけたくなる・・
…心の病と、心身の不調子のはじまりだ。
こうした矛盾にどう、向き合うか?
向き合う事すら、面倒で、ゲームや、娯楽や、趣味に没頭
して、そんな面倒なことは考えないと徹底するのか?
でも、隙間に、ほんの、わずかな、一人時間の隙間に
その矛盾の引き起こす虚しさが、津波のように、押し寄せる。
苦しい。
苦しいから、また、外に目を向ける。
気の合った仲間と、時間をつぶしていれば、その虚無感は
いっとき、忘れられる。
忙しく、仕事に精をだしていれば、良いexcuseになる。
それが人生。
程度の差こそ、あっても、誰もが、向き合う人生の一コマ。
それもそのはず。
今は、カリユガ。
一日の時間帯でいえば、夜明け前の闇の深い夜。
光を知っているのに、闇と向き合っている、それが、今の時代。
だから、自分の心に、こうした、光と闇が共存していることは、
他者の心にも、同様に、光と闇が共存して、苦しんでいることは、
カリユガに生きている宿命みたいなもの。
夜明けが来る。
Saty-yog(サティヨガ)。
すべての価値観が逆転して、人は、与えることに喜びを、
純粋性を求め、富やパワーの強欲な執着は、跡形もなく、
必要なものが自然と与えられ、それで満足しながら、
安寧と、恐れのない、日常に、喜々として活き活き生活
し、平和な時が流れる時代。
文化も文明も、高度になっても、公害や汚染のない、
純粋で洗練されたアートマの創造的喜びが謳歌される
次代。
神とか悪魔とか、二元性はなくなり、誰もが、神のごとく
真の光の人間性を発揮できる、一元の価値観。
といっても、個性豊かに、それぞれが、それぞれの、分野で
才能を発揮し、役割を果たし、善なる(一元)生を全う
する人生。
そのサティヨガは、もう、次に来る準備をしている・・
が、その前に、人類が破滅するか、地球がボロボロに
なるかは、今、この時代に生きている私たち一人ひとり
の、決意と方向性が、道を決めるようだ。
矛盾に落胆するなかれ・・・サティヨガに顕れる、光を
自分の中に見出したなら、それをベースに、祈るべし・・
と今日のインスピレーション。
どう祈るか・・
相手の中にある、光 に祝福を。
自分の中にもある、光 に祝福を。
それが第一歩の、祈りのようです。
矛盾点に、執着するのではなく、
矛盾をつくっている、
光に、焦点をあてるべきだと
いうことでしょう。