”🙈見ざる聞かざる言わざる 2023年12月6日
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ヴァカバッド・ギータは、インドの古代聖典の一つです。
といっても、ヒンズー教の教義の聖典だけではありません。
ギータには、世界最古の哲学、ヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ
(当時の王族であり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉
にちりばめられているからです。
私は、これらの言葉は、すべての善き宗教の真髄に共通
すると考えています。
これから、御紹介するところは、ギータの2章です。
背景からお話いたしましょう。
ここは、戦場です。
親戚同士の闘いが控え、緊張するアルジュナがいます。
彼は総大将にもかかわらず、これから繰り広げられる、親類縁者の
殺傷を想うだけで、士気がなえていくのでした。
そこで、自分のチャリオット(騎馬車)に同乗することになった
クリシュナ(神)との、会話が繰り広げられます。
敵陣には、自分の親類や師匠などの面々の顔が見えます。
彼らに、刃を向けることに罪悪感がつのっていきます。
アルジュナの心は萎えて、戦う意欲を失っていきました。
ここで、彼の車(騎馬)に同乗している、クリシュナ神は、アルジュナ
に言葉をかける場面が、今日のそれです。
”今、闘うのは 増悪の感情や、私利私欲からではない。
ダルマ(正義)とは、いかなるものか?
それを後世の人たちに、身をもって示し、規範になるために、
戦うのだ。
人には、アートマ という心の主体的主(あるじ)が備わって
いる。
それは、別名、人間の神聖なる本性、内在する神であり、生きと
おしの魂の別称。死んで消えゆくものではない。
殺し殺されという行為ですら、アートマを破壊することはできな
いのだよ。
だから、アルジュナよ、闘い、殺し合うという目先のことで、心を
折るな。”
感情に揺れる心、
それが、人をアートマから離し、迷いに落とす、根源だと、アルジュナ
に、クリシュナはその仕組みをこう話しました:
Look, my dear son of Kunthi!
The senses touch the sense-objects, as per their nature.
These sensory contacts give rise to the feelings of cold, heat,
pleasure, misery etc.
These feelings come and go, appear and disappear.
They are transitory.
My dear Bhaaratha! Develop fortitude.
Bear them, unconcerned!
Arujuna, you are a man of excellences!
Remember, he whom the pleasures and miseries of life do
not disturb and whose intelligence is firmly established in
the constancy among the changes – only he can be blissful
always. (2-14,15,)
訳)クンティの息子よ!(アルジュナの事)
感覚器官はそれぞれの役割によって、外部の対象の情報を与える。
寒い、暑い、喜び、悲しみ、などの感覚は、やってきては消えて
いく。常に変化している。
だから、アルジュナよ、不屈の精神を養え。
感情・感覚に左右されるな。
お前にはそれができるのだ。
覚えておくがよい。
喜びや悲しみに流されない者は、そうした変化の中で絶えず知性
をゆるぎない状況に置いている、ただただ、彼は、そう知ること
で、至福を与えられることができるのだ。”(須田訳)
不屈の精神とクリシュナが言う言葉は、五感感覚の対象に
微動だにしない、という意味で、心の平安を得るために必須な
精神状態をさしているのがわかります。
そして、
That which is not (the “seen”), can never be; that which is
(the “seer”), can never not be.
Those who have understood the Truth, experience the
finality of these two observations. “ (16)
訳)
認識されなければ、そうならず、反対に、認識する人には、
(認識されたものが)実現しないということはない。
この真理を理解したものは、この二つのものの観方を体験する
ことができる。”【須田訳)
これは、禅問答のような言葉です。
See という言葉・・これは単純に’見る’というより、’認識する’
というニュアンスでしょう。’I see'=わかりました、のように。
つまり、the seen とは、認識されていること、その前にnot
が付いているから、’認識されないこと’となります。
認識する、の意味を、心の眼で見る、と考えると、心の目で
観ていないと、それが実現することは難しいということです。
反対に、the seer 、つまり、認識する人 にとっては、その人が
認識したことは’そうならないということは無い’、つまり、認識
したことが現実化する~という意味になります。
ここで、”🙈見ざる聞かざる言わざる”の言葉を思い出しました。
この意味は、悪いものを観る、聴く、言うことを極力さけて、
その中に在る、善きものを見て、聴いて、言うことが、懸命だと
いうわけです。
つまり、クリシュナが言うように、そうしているうちに、幸せが
実現するのでしょう。
すべての事象には、二面性があるから・・
善きことのみ抽出して、心の眼で見続け認識すること・・がその
実現を可能にしてくれるのでしょう。
次回に続きます。
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