憎しみや嫉妬が強いから、愛 に傷つき、そして 気づく
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バラには棘がある。
花の美しさを愛(め)で、思わず、花に触れようとすると、
必ず、棘に触れて、その痛みで、思わず、指を引っ込めてしまう。
前日の記事に、”恐怖と愛のパラドックス” という一言を入れた。
恐怖だけではない。
憎しみや、嫉妬、という、愛と裏腹な感情すべては
たとえれば、”バラの棘”のようなものだ。
バラの花びらは、優しさと美しさの、愛の表現だとしたら、
棘(とげ)は、嫉妬や憎しみの、優しい愛と裏腹の
感情かもしれない。
が、このバラの花の ”棘”には、自然界に生き残るための、
お役目があった。
それは、動物から”実”を守り、茎や枝の転倒を防いだりする
役割だ。
人の、愛 に対する、憎しみや嫉妬 は、もしかしたら
そうした、バラの棘 のようなものかもしれない。
棘があるから、痛みがあるから、優しさがわかる。
嫉妬があるから、愛の寛容さを知る。
バラの花が大輪であればあるほど、茎は太く、強く、棘も
痛い。
だから、愛が強い人ほど、時には、辛辣で、無慈悲に
見える言動が目につくのかもしれない。
どんなに聖人のように、優しい人でも、地球上に生きている
限り、二面性を完全に、取り去ることはできない宿命。
聖人は、その棘で相手を刺す痛みより、自分が その”エゴ”
という’棘’に刺される方が、痛いだろう。
”エゴ”という代物は、身勝手で、自分のためには、相手のこと
を考えずに行動させる原動力を持つ。
とかく、肉体を持って、生きていく以上、サバイヴするため
には、バラの棘のように、まず、自分を守る道具が
必要だ。
が、この棘で、痛みを覚えた時、
刺される人も、刺す人も、結局、お互いに、花(愛)が
あるからこそ、
と考えると、少し、心に、余裕ができて、状況が変わる
ような気がする。
刺す必要性も、刺されて痛みを味わっても、
その度合いが、異なってくるような、気がする。
この棘があるからこそ、バラがより美しく咲き、癒しを
与える優しさと芳香を漂わすことができるからだ。
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