平成24年10月4日(木)
般若心経のバンニャー(般若)は、悟りの智慧であり、
私たちの五感でとらえることのできない
その智慧で造られた 善・愛・調和の魂故郷が
”一元の世界”と呼ばれる 実相世界です。
この一元の世界がもともと実存していて、私たちの住む
肉体次元、あるいは、三次元の現象世界が心のフィルターを
通して現れているという考え方が、一元論の考え方です。
二つ以上あるものは比べることができます。
一つだけしか無いもの は比べる対象がないので、比較が
できません。
つまり、’二つ無い’ということは、相(あい)対するものが無い
ということ。’相対性’があるというからには、相対する価値観や事象が、
存在する必要があります。
比較する基準や対象があるのが、’二元性の世界’となります。
一方、’一元の世界’には、相対する価値観が、存在しません。
私たちが生きている、この世界には、比べて評価することは無限に
あります。
たとえば、”できる・できない”/”高い・安い”/”正直・嘘つき”/
”真面目・不真面目”などの言葉を良く使いますが、今日、一日だけ
でも、私たちは いろいろな物や人を、どのくらい無意識に比べた
り判断したりしているでしょう。
’比べること’は’評価すること’でもあります。
そして、それが嵩じて、時には、賞賛や非難にもつながります。
ところが、一元の世界には、完全性(私たちの言葉で表現するのなら)
であるので、比較や評価することは 不可能です。
’一元の世界のこと”を、別の言葉では、”不二の世界”とも呼びます。
これは、般若心経に出てくる、 “不生不滅、不増不減、不垢不浄
(フショウフメツ・フゾウフゲン・フクフジョウ)”の世界です。
この部分の句を訳せば、
”(一元の世界では、生きとおしなので=死ぬという対象がない)
生まれることはないから、滅することもない/
増えることはないから減ることもない、汚れることもないから、
浄めることもない” となります。
生まれるから、滅する(死ぬ)、増えるから減る、汚れるから浄める
のは、今、地球に生きている私たちには、当たり前の事。
これを”常識”といいますが、この”常識”は私たちが住んでいる
この世界だけに共通する、常識ですから、真理では、ないのです。
”不二一元”の世界は、二つの相対的な概念が存在しない世界ですから、
二元的価値観のあてはまらない次元にある。
すなわち ”久遠の今”に存在している世界であり、時間と空間を超越
している~とも説かれます。
そういう世界が厳然と実存しているのですが、私たちの五感を
とおしては、掴(つか)みえないのです。
この、現象世界には、久遠の世界が、私たちの五感をレンズとして、
どことなく歪んだ心象として映っているに過ぎません。
五感の感覚が与える心象は、大きいものです。
イヌの散歩でいつもお会いする老婆がいます。
苦虫をつぶしたように、眉間には深い皺、怒ったような風情で
散歩されていますが、その感じを受けると、”おはようございます”
とは、どうも聲をかけずらいわけです。
無愛想に返答されるのかと思えば、朝から誰でも不愉快な想いは
したくないで、、挨拶の言葉もかけなくなりがちです。
ところが、ある日、愛犬のチャチャとチュチュの仕草に目を留めて、
その人は微笑んだのです。
無意識の微笑みだったのでしょうが、心から自然に老婆の口元に
あがった、笑みが、私には、モナ・リザの微笑みのように、
美しく感じました。
これが一元の世界の表現だと私は思いました。
本当は、その方はこうして、微笑み慈しむようなお顔をされるのが、
どんなに、苦虫を噛んだような いかつい、顔をされていても、
きっと、そういう顔付が習慣になってしまったからで、本心はそうでは
ないのかもしれないのです。
誰にでも、その微笑みの心がある・・皆がそのような心でいれば、
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