“赤穂浪士とアルジュナの軍”
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前書き)
昨年12月18日の記事からの続きとなります。
ここでのお話は、ヴァカバッド・ギータの中にあります。
ギータには、世界最古の哲学といわれるヴェーダ哲学の真髄がクリシュナ
(当時の王族であり、ヴィシュヌ神の化身とされる)の言葉に 詰まってます。
これから、御紹介するところは、ギータの2章です。
背景からお話いたしましょう。
ここは、戦場です。
親戚同士の闘いが控え、緊張するアルジュナがいます。
彼は総大将にもかかわらず、これから繰り広げられる、親類縁者の殺傷を
想うだけで、士気がなえていくのでした。
そこで、自分のチャリオット(騎馬車)に同乗するクリシュナ(神)との、
会話が繰り広げられます。
敵陣には、自分の親類や師匠などの面々の顔が見えます。
彼らに、刃を向けることに ますます罪悪感がつのっていく、アルジュナでした。
すでに、アルジュナの心は萎えて、戦う意欲を失っていきました。
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話は一転しますが、日本では、赤穂有浪士の敵討ちの話が、歌舞伎や舞台で
いまだに演じられているのはなぜか?
今日ご紹介するお話は、そのヒントにつながるような気がいたします。
さて、話を戻して、アルジュナは、敵陣にいる、尊敬する人たちに弓矢を向ける
ことに、心を痛め、クリシュナにこう、質問します。
”クリシュナ、教えて下さい。
いかにしてBhishma やDhronaといった、自分が敬愛してきた人たちに
弓を射ることができるのでしょう?
物乞いの人生の方が、よっぽど尊敬する師を殺すより良いほどだ。
師を殺め、そのあとに得る世俗的喜びは結局、その血で台無しになるのです。
歓びなど、考えることすらできない。
彼らが、われわれを負かすのか?
われわれが、彼らに勝つのか?
どちらが良いかなどわからない。
が、生きていてほしくないDhritharashtra家の兄弟たちは今、目の前に闘おうと
立ちはだかっている。
クリシュナよ、師に対する同情と、何が正義かわからない私の心は、あなたに
頭を垂れます。
あなたの意見に従います。
あなたの弟子として私を受け入れ、私を導いてください。
確信の持てる、確固たる善き行いを教えてください。
天使の住む世界、敵のいない豊穣な世界を治めたとしても、今の悲しみと不幸を
もたらしている感情と、心の問題を解決することはできないでしょう。”
(2章4~8節)
その言葉に応えて、クリシュナは言います。
“まるで誇らしげな学者のような語り口だ、アルジュナ。
しかし、汝は、悲しむべきでない事を悲しんでいる。
真理を学ぶ者たちにとって、生きとし者へも、死んだ者へも、悲しみはない。
そのわけは我も汝もいかなる支配者たちも、’死ぬ(non-existent)’と
いうことがないからだ。
ご覧。
この肉体の中に、子供時代、壮年期、老年期に至るまで一貫して、人生を
楽しむ“居住者(in-dweller)” が存在しているのを。
肉体が滅したら、その居住者は古びた体を棄てて、他の体に移り住む。
だから、智慧者は身体の変化やその経過に煩わされることはあり得ない。”
(2章11~13節)
さらに クリシュナはアルジュナに向かって、言葉を続けます:
“Kunthiの息子、アルジュナよ。
感覚器官は自然な働きとして、感覚で判る対象体に、触れる。
感覚は触れたことで、冷たさ、熱さ、喜び、悲しみなどの感情をもたらす。
この感情は、来ては行き、顕れては消える。
移りゆくものだ。
アルジュナよ、不屈の精神を抱け、そして耐えなさい。
アルジュナよ、汝は優れた者だ。
覚えておくが良い、
人生の喜びやみじめさが汝を煩わせ、心を占めることはない。
優れた者は智慧を生かし、変化の中に恒常性を見出す。
そういう者だけが、常に幸せにみちた者といえる。
真理を理解したものは、見られる側と、見る側の二つの見方の結末を
体験するのだ。”(2章14,15,16)
次に、クリシュナは、意気消沈しているアルジュナに兵士の徳を説き、
この闘いが世の中のために、大いなる意味があることを諭すのでした。
“swa-dharma(人類幸福のための行い)の観点からしても、何も傷つく
必要はないのだよ。
なぜなら、軍人は社会の秩序と平和を守ることほど、大事なことはないからだ。
好運な軍人だけが、そのような天に通じる道を開くような闘いに、参戦できる。
この闘いこそ、賞賛に値するもの、それに参戦しないことは軍人の責務を
放棄し、罪をつくることにもなるだろう。
汝のような誉ある人間にとって汚名をつけられることは死より始末の悪い
ものではないか?
素晴らしい軍馬車の兵士たちは 汝が恐れから闘わないのだと考えるだろう。
過去のそんな汚点を残せば、人の噂話の種になるだろう。
敵軍は汝のヘッピリコシを嘲笑し、卑劣な罵倒を浴びせるだろう。
それ以上に胸の痛むものがあるのか?
もし、この闘いで敗れ殺されても天国に到達する。
勝てば、この世を支配し現世を楽しむ。
さあ、立ち上がって、闘いに挑む決意を今こそなせ“(2章31~37)
赤穂浪士との関係?
紫色で書いた上の数行をもう一度、ご覧ください。
この言葉は、そのまま、赤穂浪士たちへの、言葉のようです。
つまり、赤穂浪士たちは、主君のために、大義名分を果たし、汚名を
後世に残さず、吉良上野介の主君への慇懃無礼な態度を、世の中に知らしめ
忠実忠誠な、武士魂の名誉を得たわけです・・・
これこそ、クリシュナのいう、名誉ある死です。
それをもって、武士の何たるかを、世に示したことは当時の武家社会の人々
の心を、打ったのだろう・・と思います。
そして、潔い散り方、死への恐れより、汚名のまま恥をさらした浪士として
生きるよりは・・討ち入りをする・・という大石内蔵助の総指揮官としての
覚悟が、アルジュナの闘いに挑む覚悟と、似ているのかもしれません。
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