私事で恐縮ですが、9月19日は 夫の三回忌にあたります。
彼が無事に”天の本宮”にたどり着き、活き活きとしている
ことを確信しながら・・仏教での亡き人の弔いの言葉を
読み直しました。
今日は、誰でも来る”死”の寸前に、祈る言葉・・
”おー 今や 私に死の瞬間のバルドが明らかになって
くる時!
魅惑や切望、並びに、俗界のあらゆる物事への執着を
捨て、
私が輝き 啓発する教えの空間の中に入ってゆきます
ように。
私が生まれざる天の空間の中へと、私自身を溶かし込む
ことができますように。
血と肉でつくられたこの体を手放すときがやってきた
私が、永遠ではなく幻覚的存在であるこの体を、
認識しますように”
前回の記事に関連している箇所は、最後の行です。
”私が、永遠ではなく幻覚的存在であるこの体を、
認識しますように”
死にゆくとき、この体は、永遠でないこと、生きている
間の幻覚的な錯覚的な、存在物であったこと、
それを認識して、はじめて、霊魂として自己を見つめる
ことができるわけです。
それができないと、自分の肉体は目の前に横たわっている
のに、こうして、”私”意識のある、自分がここにいるという
ことに、戸惑いと、混乱を起こすでしょう。
”私は死んではいない”と、まだ、この世に未練を残すことも
あるのかもしれません。
時々、耳にする’地縛霊’などというのも、そうした、この世に
執着をもって、あの世へ、移行できない、霊魂の姿なの
かもしれませんから。
あの世へ行けば あの世での修行があります。
”私が輝き 啓発する教えの空間の中に入って”いくことで、
また、新たな、次元での自分が、活き活きと、学びを続けて
いくことができるのでしょう。
引用箇所)
”チベットの使者の書”(バルド ソドル)
S56
訳編者 おおえ まさのり
講談社
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