自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

盆踊りの由来と現代に続いているスピリチュアル的意味

2024年08月14日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


円と螺旋の深い意味   2024/08/14
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8月15日の盆の翌日、16日の晩に、寺社の境内に
老若男女が集まって踊る。
いわゆる、盆踊りというが その由来が興味深い。

盂蘭盆の由来は、 ”ullambana”(ウラムバナ)という
サンスクリット語だ。

これが、中国を通して、漢字で、音写され、日本に伝わり、
”うらぼん” となったと言われる。

この ”ウラムバナ” の本来の意味は 
”壮絶な、苦しみの状況下に置かれている” 
といわれ、どう、盆踊りと関係があるかというと・・

盆踊りの源の意味は、
”地獄での受苦を免れた先祖の霊魂たちが、救われて、
喜んで
踊っているさまを表しているという。

そこに、子孫ともども、加わって、楽しく踊る行事
とつながっていく。
 
旧暦 7月15日は十五夜、翌16日は十六夜(いざよい)。
どちらかの夜は満月である。

電気も無いその昔、灯明をつけなくても、月明かりの
もと、踊り明かすことができた。

そして、満月 のもつ、霊的な光 に照らされて、
祖先の霊とともに踊った

ところで、なぜ、人々は、全員が同じポーズ
をとりながら、太鼓や 音楽の櫓(やぐら)
中心に、その周りを 舞い躍ったのだろうか?
 
千賀一生氏は ”ガイアの法則”(*1)の中で以下のように、
盆踊りについて述べている;

”神道原理の大本は、私たちシュメールの宇宙的叡智
起源があるが、逆にシュメールの叡智は 
前文明としての135度文明から受け継がれたのだ。

その時代、日本列島には、聖なるシンボルを象る
集団舞踊の文化があった。

聖なる中心を、人々が円形に取り巻く。
四方、八方、十六方を区切る舞いが、今の
盆踊りのように、皆が集まって行われていた。

これは、同時に宗教儀式でもあり、これにより、
人々は型を通して、体から宇宙のリズムに共鳴し、
時空を超えることができたのだ。

この伝統は、古代の巫女舞の中に受け継がれた。

あなたの国(須田注;日本をさす)のかつての
巫女文化は、我々が前文明と呼ぶ、シュメール以前の
叡智を踏襲していたのだ」(同著p.256)
 
輪を描きながら踊る盆踊り。
この”円形”というシンボルは、日本人の宇宙観でも 
あるかもしれない。

円には中心がある。
中心帰一の思想も、これによる。

また、円 は 我が国の国旗の中に描かれている
日の丸のように、太陽のシンボルとも言える。
 
千賀氏はそれに関して、次のように述べている。

”とくに、人間の意識が、拡大へと向かいやすく
なるのは、あなたを包括するより広大な宇宙領域の
中心に意識を向ける時だ。

朝日を見れば、誰でもがすがすがしい気持ちになる。

これは、太陽系の中心は、あなた自身の真の本質と
等しいからだ。(注:棒線は須田)

あなたは 太陽系の中心に意識を向けることで、
あなた自身の本来の光を見ることになる。”
 (同著p.253)~*1
 
円の運動は 平面的だが、それを 第三次元的に
引き伸ばしながら、円の中心方向 に引っ張っていくと、
スパイラル形(円錐)になる。

円錐が動きを持つと、スパイラル(螺旋=らせん=)
になる。

螺旋運動(らせんうんどう)の意味合いを
考えると興味深い。
 
スパイラル運動は、宇宙に存在するさまざまな
生長エネルギーの象徴といえる。

たとえば、鞍馬山の義経堂に向かう途中
の登り口にある、生命のオブジェがまさに、
これだ。

それは宇宙生成と 大生命の力をシンボルとされて
スパイラル運動は、銀河の動きから始まり
小宇宙といわれる私たちの体にもみられるのだ。
 
たとえば、DNAの右巻螺旋構造。

細胞 の中の、電子の動きひいては、神経繊維の伸長 
などにその形状を残している。
 
自然界でも、らせん状のマークを持った生き物がいる。

アンモナイト などの 億年前に存在していた原始的
生き物や、空気の流れの最たるハリケーン(台風)も、
らせん状のエネルギー運動で 生きているかのように
猛威をふるう。
 
我が家のベランダに咲く 朝顔のつる もそうだし、
鳴門海峡 にみられる、海流の求心的流れもそうだ。
 
円と中心に存在する 渦巻くエネルギー体、この存在が
あってこそ、万物が形成されている。

盆踊りで 円の中心を弧を描いて踊りながら、人々は 
無心になり、宇宙の波動、宇宙のエネルギーを
無意識に、体感する。

盆踊りが現代にまで 日本全国の各地に続いている
のは、そんな不可思議なエネルギーを、本能的に人々
は享受することを知っているからだと思う。

*****************

(*1)”ガイアの法則”千賀一生 2010年1月 (株)徳間書店

 
 
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矛盾を責めるなかれ;命祝(いのり)を

2024年08月11日 | 今朝の”インスピレーション”



Kalyug (カリユガ期)にすべきこと…2024/8/11
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臨時投稿です。

今はインドの古代哲学でいうと、カリユガ(kalyug)
と呼ばれていることは、良く知られている。

この時代の特徴は、(時代といっても、数千年続いている
のだが)争いが絶えず、人は、与えるより求めることが
先決で、パワーや富に対する執着と欲望、憎しみや嫉妬
で、傷つけあい、批判しあい、恐れと不安で人々は、
安寧心の生活は得難い~と定義されている。

社会現象を見ても、上の定義はいたるところにみられ、
ニュースのほとんどが、こうした案件を日々、取り上げる。

人の心も然り。

誰にでも、天使のような、純粋でまっすぐで、素直で、
手を伸べて、自分の持ち分を、共有しようという優しい
心がある。

そして、反面、誰にでも、多かれ少なかれ、それとは
真逆な、卑怯で、小心で、
敵をつくって、正義を主張するよりは、
目立たず騒がず、事なかれ主義で小市民的生活で満足する
自分もいるはずだ。

互いに、認め合いながら、少しでも相手の、そうした
弱さをみたとき、見ただけではなく、そのとばっちりで
嫌な思いを体験したとき、その相手との縁は、切れること
が多い。

自分自身に対しても同様だ。

自分の未熟さや、弱さ、要領の悪さや、それにつけ込んで
くる他者への憎悪や、嘘つき、嘘つかれ、それも、方便と
言う自分に嫌悪が増すと・・・自分を傷つけたくなる・・

…心の病と、心身の不調子のはじまりだ。


こうした矛盾にどう、向き合うか?

向き合う事すら、面倒で、ゲームや、娯楽や、趣味に没頭
して、そんな面倒なことは考えないと徹底するのか?

でも、隙間に、ほんの、わずかな、一人時間の隙間に
その矛盾の引き起こす虚しさが、津波のように、押し寄せる。

苦しい。
苦しいから、また、外に目を向ける。

気の合った仲間と、時間をつぶしていれば、その虚無感は
いっとき、忘れられる。
忙しく、仕事に精をだしていれば、良いexcuseになる。

それが人生。
程度の差こそ、あっても、誰もが、向き合う人生の一コマ。

それもそのはず。

今は、カリユガ。

一日の時間帯でいえば、夜明け前の闇の深い夜。

を知っているのに、と向き合っている、それが、今の時代。

だから、自分の心に、こうした、が共存していることは、
他者の心にも、同様に、が共存して、苦しんでいることは、

カリユガに生きている宿命みたいなもの。

夜明けが来る。
Saty-yog(サティヨガ)。

すべての価値観が逆転して、人は、与えることに喜びを、
純粋性を求め、富やパワーの強欲な執着は、跡形もなく、

必要なものが自然と与えられ、それで満足しながら、
安寧と、恐れのない、日常に、喜々として活き活き生活
し、平和な時が流れる時代。

文化も文明も、高度になっても、公害や汚染のない、
純粋で洗練されたアートマの創造的喜びが謳歌される
次代。

神とか悪魔とか、二元性はなくなり、誰もが、神のごとく
真の光の人間性を発揮できる、一元の価値観。

といっても、個性豊かに、それぞれが、それぞれの、分野で
才能を発揮し、役割を果たし、善なる(一元)生を全う
する人生。

そのサティヨガは、もう、次に来る準備をしている・・

が、その前に、人類が破滅するか、地球がボロボロに
なるかは、今、この時代に生きている私たち一人ひとり
の、決意と方向性が、道を決めるようだ。

矛盾に落胆するなかれ・・・サティヨガに顕れる、光
自分の中に見出したなら、それをベースに、祈るべし・・

今日のインスピレーション。

どう祈るか・・
相手の中にある、 に祝福を。
自分の中にもある、 に祝福を。

それが第一歩の、祈りのようです。

矛盾点に、執着するのではなく、
矛盾をつくっている、
に、焦点をあてるべきだと

いうことでしょう。








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 人との好ましい関係を保つために②

2024年08月08日 | 介護と自然治癒力


自分を理解する~他者との会話を通して
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前回からの続きで、”より良い人間関係をつくるために”
の②です。

PAC という略字は、前回、または、6月30日以前のブログに
説明しています。ご参照ください。

交流のパターンには、三つあることを前回お話しました。

自分と相手の間に、①理解があるか、②話の要点が
かみ合わず、交叉してしまうか、そして、③どちらか、
または、両方が、仮面をかぶったように本音を表さないか・・・

では、次の会話を見てみましょう。

A氏とB氏が登場します。

A氏は、B氏に、喜んでもらいたい一心で、なにやかやと
世話をやきたがります。

一方の、B氏はそれを、有難迷惑(ありがためいわく)か、
’煙たく’感じています。

”親切の押し売りはしないで欲しい”と思っているのです。

世話を焼くという行為は、心の要素でいうと、P(親の心)が
C(子供の心)に対する行動です。

ケアーする心は本来のPの特徴です。

A氏は、外からは、一見、愛情深く、思いやりある人のように
みえますが、池見博士は、ここに見落としがちなポイント
があると言います。

それは、A氏の親切は、本当に相手を想っての行為では
ないということです。

相手からの愛情や関心を得たいがために、親切を装って、
働きかけているからです。

もちろん、A氏自身はそれに気が付いていないでしょう。

相手のB氏も、A氏の本当の思惑など、考えているゆとり
はないでしょう。

でも、結局は、A氏のアプローチは、相手に”自分を見て”と
期待したうえでの行為ですから、それを相手が、重たく
感じるのも、無理がないわけです。

池見博士は、こうした、交流を”防衛的交流”と呼びます。

”自分の本当の欲求や動機が、はっきりと意識化されない
まま、表面的には、それとは異なるパターンの交流が
行われる”ということです。

この場合は、心の領域では、C(子供の心)主導型であり、
相手がそれに反応を示さないということは、相手は、
A(大人の心)で対応しているからでしょう。

この場合の、A氏の親切は、成熟した大人の心というより、
相手に関心をもってもらいたい、という、むしろエゴ的な
子供の心Cの欲求が、隠れているわけです。

こういうパターンは意外と私たちの人間関係にあるような
気がします。

”これだけ、親切にしたのに、何にも恩義を感じていないのは
失礼だ”と、思ったことがあれば、その親切は、相手に何かを
期待していた見返りがないことに お門違いの、”失礼だ”という
言葉がかぶさっているわけです。

この人間関係は、’飼い犬に手をかまれる’ という諺の裏に
ある心理だと、池見博士は言います。

自分のことを考えていてくれている、と相手に思わせて
本当の真意は、別のところにあった、裏切られた、と相手に
思わせる場合も、このケースをひっくり返せばあてはまります。

良い人だと思っていたのに、違う側面を相手から感じ取り、
相手の二面性に気が付かされるようなときです。

信用していたのに、本当な、信用はおけないと、思わせるとき、
まさに、防衛的交流が二人の間にあるのでしょう。

ここでは、自分の心に相手に対する期待や、見返りなど、
そんな要素がないかどうか? 

自分の言葉がきちんと、自分の心を相手に伝えられているか?

誤解を生むような遠まわしな表現になっていないか?

などという、客観的な内省が、役にたつようです。


参考)
”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 日本放送出版協会
”ストレス健康法” S.50 池見酉次郎 ㈱潮文社
”セルフコントロールー交流分析の実際” 池見酉次郎 杉田峰康 2007年創元社
”続心療内科” 池見酉次郎 1973年 中央公論社
”心療内科” 池見酉次郎 1963年 中央公論社

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人との好ましい関係を保つために①

2024年08月05日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方


人間関係のストレスを軽減させて健康的に生活する 2024/8/5

前書き)

6月30日から数回にわたり、心療内科の設立者
池見博士の診療の指針と自然治癒力セラピーの健康への
アプローチとの、接点を考えている。

*****************

池見博士は、PAC の三つのアルファベットに象徴される
心の統合性を心身相関関係から、大切に考えて、診療されてきた。

Aは(大人の心)
P は(親の心)
C は(子供の心)

上にあげた三つの心を、今の自分に占める感情と
照らして考えてみましょう。

そうすることで、客観的に、相手と自分の置かれた
状況を見つめることができるので、相手を責めたり、
自己否定的にならずして、中道な自分の立ち位置を
見出す知恵が得れるかもしれません。

****************************

本音、建て前、という言葉があるように、人は、本当の事
を意識の奥に隠して、人と交流している。

そうすることで、誤解や、互いに甘え合っている状況が
無意識に生まれて、軋轢(あつれき)の原因になることが
多々ある。

人間関係の行き違いは、日常的に、家庭、学校、会社、近隣同士
の間にみられ、そのことで、ストレスを抱える人も少なくない。

原因は、相手が本当は、何を求めているかきちんと理解できて
いないことから始まるようだ。

言葉のキャッチボールだけでは、気が付かないことは多い。
言葉一つ一つに対する、受け止め方が、自分と相手では異なる
からだ。

今日から少しずつ、こうした、人間関係(交流)にみられる問題の
ケースを分類してみたい。

日常生活で起き得る、人間関係の問題を、客観的に解決する糸口に
なれば幸いだ。

ストレス=心の凝縮=心身病の種 なのだから、早めに、解決する
のに越したことはない。

****************

池見博士の分類によると、人と人との交流には、三つの
大きなパターンがある:

①相手と自分との間に、理解のもとに
互いに期待通りの言動が得られる場合(平行的交流)

②、相手と自分との間に、誤解が生じて
相手から期待通りの言動が得られず、予想外の反応に
驚く場合(交互的交流)

③相手と自分との間に、言葉とは裏腹な意図や目的が
あるため、本意とは異なる言動が取られる場合(仮面的交流)

****************
では それぞれのパターンを具体的に見てみよう。

①は、

”今日、何を食べる?” 
”何でもいいけど” 
”では、いつもの時間通りに、簡単なものを作るわ”
”OK"

とか

”この仕事は、いつできますか?”
”明日の夕方までには仕上がります”

のような、何気ない、会話。 前者は、家族同士、後者は、
客と店員、もしくは、上司と部下の会話だ。

PAC(上の三つの心)でいえば、AとAの立場同士の会話といえる。

平行的交流とよぶ。

②は、行き違いが生じるパターンだ。

”課長、資材の値上がりで、この見積どおりでは難しいです”
”君は、資材の値上がりを見越して、見積したのではないのかね?
そういう前に、なんとか改善策を見つける頭は無いのかね?”

部下と上司の会話である。

部下は、事実の報告をしたのだが、課長はその仕事を簡単に
やめるわけはできないという思いから、怒りの表情で部下に対して
自分のPのポジションから 部下のCの心に対して、不満の
メッセージを送っている。

これは、上司が部下に、もっと、積極的に仕事を進める態度を
期待していたのが、裏切られたときに、二人の交流は、行き違い、
つまり、交叉している。

③は、本音が隠れてしまい、表面的には思いと異なる言動が
出る場合だ。

池見博士は、”たとえば、好きで好きでたまらない人に会うと、
つい反対の言葉や態度に出てしまう場合”と例をあげている。

反対に、とても気が合わないと思う人に、それを露骨に出さない
よう、無理して、親しげに”お話できて楽しかった”などと、
嫌いな相手に、社交辞令を言う場合もあるだろう。

*****************

人間関係のギクシャクした背景には、交叉的交流があり、
仮面的交流が、それを生み出している場合がある。

次回は、もう少し、ケースバイケースで、これを見ていきたい。

(続く)


参考)
”セルフ・コントロールの医学” 池見酉次郎s・57年9月1日 日本放送出版協会
”ストレス健康法” S.50 池見酉次郎 ㈱潮文社
”セルフコントロールー交流分析の実際” 池見酉次郎 杉田峰康 2007年創元社
”続心療内科” 池見酉次郎 1973年 中央公論社
”心療内科” 池見酉次郎 1963年 中央公論社







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今朝のインスピレーション: 目標達成 と 幸せ感 の矛盾

2024年08月03日 | 今朝の”インスピレーション”

2024年8月3日
***********************

先ほど、受けた、インスピレーションは・・

本当の楽しさ(幸せ感)は、目的地に着くことでは
ないよ・・その間・・どんな気持ちで、目的地を
目指しているか・・ですよ・・

目的地は、目標 という言葉にも、言い換えられるでしょう。

この目標を達成すれば、幸せになれる・・と考えます。

ところが、 それを達成したとき、満足感や充足感はあっても、
それ=幸せ ではないということ・・・

むしろ、その充足感は、excitement =興奮 に近いもの
のようです。

つまり、いっとき続きますが、消えるものという意味です。


では、幸せ感って?

それ(目的や目標)に 達成するまでの”道のり”の中身で、
穏やかに、楽しめていたかどうか? が、ミソのようです。

”達せいする道のり”というのは結局、”今の積み重ね”の時間
のことですから、”瞬間の今” がそうである・・意識して
楽しんでいるか?ということのようです。

辛いときも、苦しいときも、問題にあたっていても、
この瞬間に、それを、”楽しめる” 心の余裕を どこかに
意識して残すことなのでしょう。

それは、この”瞬間の自分”にしかできないこと・・

外部の条件がどんなに悪くても、自分が自分の
へし折れそうな感情を、温かく見守り、
自分の感情にも、外部の困難にも、影響を受けない
”本当の自分”を見出す ”訓練”なのかもしれません。

さて、幸せ色のゴールに達しても、目的が果たせても、
次の、目的地が見えてます。

その目的地は進んでいる限り、有り続けるでしょう。

到達するまでの、穏やかさと平穏と、ゆすぶられない
堅固な自分を自覚すること・・が・・人生の目的でも
あるような気がします。


周りの事情に揺さぶられ、感化を受ける弱い自分と
それを楽しむというより、平穏に見つめられる強い自分
との、日々の闘いでもあるようです。

だとしたら、今の目的や目標を達したからといっても、
その闘いが止むわけではなさそうです。

結局、
今この瞬間の心の充足感(自分で自分をコントロールして
得られる安堵感)が、最大の幸せ感といえそうです。





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