第二十六章 嵐の中の歌声
白湖農場の田畑は、よく水に浸かりました。私は、これが自然と人間の両方に由来するものであると信じています。山から続く水の流れは、何回か洪水を引き起こしました。(何百もの支流と湖から水が注ぐ揚子江もまた、重大な洪水を生じさせました。1958年に、共産主義者は多くの肥沃な農地を耕作しましたが、あまりにも多くの土地を耕作したので、悲惨な洪水という結果に終わりました。
1958年以来、私は白湖農場にいました。また、10人以上のカトリックの神父様もまた、この白湖農場にいました。彼らの殆どは上海から来ました。私たち女子部隊には、煉獄援助修道会の張依成マザー、聖母奉献修道会の李臨シスター,ウルスラ会の史獻芝マザー、カルメル会の修練者である張玉琴及び黃松青、張茵秋、張美瑜、徐曼修、周若蘭、王培貞、劉天真、龔潔貞など10数人の信者がいました。生活は惨めでした。私たちは屋根や門の無い小屋に住んでいました。私たちの劉真文隊長は共産党員でしたが、彼女自身も経歴上の問題で、上海から農場に追放されていました。ですから、信者に対して特别に同情を寄せました。通常、私が寮に留まって、何らかのより軽い作業をすることを認めました。皆が朝、作業の割り当てのために並んでいたとき、彼女は良く言ったものです。「美玉、あなたは仕事がいつも遅い。あなたは他の人の進歩を妨げています。寮に入りなさい。そして、便所を掃除して」 私は、ほとんど毎日、寮に留まって働いていました。確かに、私は何をするのにも不器用でした。私は苗を抜き取る間、田んぼの中に落ちました。骨の折れる仕事で疲れていたとき、私は、よく気が遠くなりました。私は自分の不器用さのために、私の部隊の仲間は首を横に振りました。私はまだ生き生きと、ある一つの出来事を覚えています。
1959年6月、雨が数日間絶え間なく降りました。菜園は水であふれつつありました。野菜無しになることは、部隊全体にとって重要な問題でした。劉隊長は、既に熱い鍋の中のアリと同じ様に心配していました。午後10時、彼女は私たちの小屋にやって来て、私たちの菜園を救うためにボランティアが必要だと告げました。皆、昼間に働いていました。そして今、私たちはその日の夜に洪水による水を掻き出すために、残業しなければなりませんでした。すぐに、何人かは「私は行きます」とはっきりと言いました。私は彼女らに続いて言いました。「私も」「暗くて、泥だらけです。しっかり歩くことさえ出来ませんよ。ちゃんと出来るのですか?」マリア姉さんは答えました。そして、徐さんは言いました。「かまいません。背中に彼女を背負わせて」 私は隊長が同意しないのを恐れたので、急いで扉を開けて出て行き、強風や大雨、そして雷鳴の歓迎を受けました。の上、私は泥水の中でしっかりと立つことさえ出来ませんでした。突然、徐さんが、「来て、急いで!私に運ばせて」と言っているのを聞きました。この風と雨の交響曲のコンチェルトを聞き逃したくありませんでしたので、私は彼女の親切を拒めませんでした。 私たちが菜園に到着したとき、そこはもう水に浸かっていました。2つの大きい車輪の付いた木製の水運び車を押すことで、水を運んでいました。それぞれの水運び車の大きな車輪を押すのは、二人掛りでした。
ああ、天主様! 私たちの大多数は都市で生まれました。徐さんを除いて、私たちは小麦とにらを見分けることが出来ませんでした。徐さんは、田舎の農場からやって来ました。今は、作業のためにズボンを膝までたくし上げ、裸足でなければなりませんでした。彼女はは、水を運びを実演しなければなりませんでした。私たちの九人は、4組に分かれました。そして、各組は順番に木製の水運び車を操りました。私は何の取り得も無く、ただ傍に立って見ることしか出来ませんでした。そしてそれはまれな晩でした。長い間歌うことから抑圧されていたので、私は大きな声を出して歌いたいと感じました。今夜、天主様はこれら自然の楽器を私たちに与えて下さいました。そして、私は彼女たちに言いました。「皆さん、今夜は私に進行役をやらせて。私たちには、歌うためのいい機会があります。大きな声で私たちの天主様と教会、そして教皇様への熱意と愛情を歌いましょう」
そして、周若蘭(最も若い少女)が、最初に「聖なる元后…」と歌い、次に、私たちが「我は信徒…」や「聖マリア…」のような聖歌を一つずつ歌いました。私たちの声は空まで響き渡り、雨の雑音と雷の音と一緒に美しい交響曲を奏でました。皆が疲れたとき、私は皆が自分たちのことで何か言うことを勧めました。
張依成マザーは言いました。「私は煉獄援助修道会の修道女です。そして、私の意向は煉獄の霊魂を救うことです。私たちが今夜行ったことと自分の残りの人生で行うことを、煉獄の哀れな霊魂のために、天主様にお捧げします」
徐曼修は言いました。「私たちは中国の全て犠牲者のために祈ります。彼らは正義と正直さのために迫害されました。天主様は、ここで共に苦しむ御恵みを私たちにお与えになりました。私の姉妹たち、より多くの人々がより激しい迫害に耐えています。その人たちのために祈りましょう」
龔浩貞は言いました。「私は自分たちの両親、特に自分たちの母親のために祈ります。彼らは本当の殉教者です。私たちと離れ離れになり、大変苦しんでいます。私たちは時折彼らのことを考えるべきです」
王培貞は言いました。「私たちは教会と教皇様への忠誠のために、刑罰を下されました。いつの日か、私たちの何人かが教皇様にお目にかかり、一九五〇年代の青年たちがどれ程教皇様を愛していたか伝えられることを願っています」
張美瑜は言いました。「私たちの保護者、佘山の聖母を忘れないでください。私たちは、聖母の御加護無しにはカルワリオの丘に行く勇気は無いでしょう。私たちは、聖母を決して忘れてはなりません」
黄松青博士は言いました。「美玉のために祈ってください。彼女の刑期は私たちの中で最も長く、体が丈夫ではないので、その十字架は最も重いのです。彼女は異教徒の家庭から来ています。彼女が信仰を守ってイエズス様の後についていき、最後まで十字架を負うことを願っています」
これを聞いた後、私は涙の雨を抑えることが出来ませんでした。黄博士は、その後数十年間、私を自分の娘として接して下さいました。最近、私は上海で彼女に会いました。彼女は私を抱きしめ、「美玉、何年も経った後でも、あなたは西洋の考え方に染まらず、白湖農場から来たときのままです。あなたが相変わらず、私たちの佘山の聖母を愛していると確信しています」彼女は通常、他人を直ぐには褒めなかったので、私は幸せでした。そこで私は、「あの嵐の夜に、あなたが皆に私のために祈るように頼んだかを、私は決して忘れることが出来ません。私は完全にあなたの忠告を固く守るよう、努力しました」
洪水による水は、徐々に退いていきました。雨は上がりました。ずぶぬれになった私たち九人は小屋に戻り、生姜茶とおこげのスープで歓迎されました。食物は台所で準備され、そしてそれは、通常は客人に対する御馳走でした。皆、天主様の御恵みが激しいほとばしりのように私たちに下りて来たのを感じました。もし、他の機会があれば、私たちは再び勇敢に前に進むでしょう。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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白湖農場の田畑は、よく水に浸かりました。私は、これが自然と人間の両方に由来するものであると信じています。山から続く水の流れは、何回か洪水を引き起こしました。(何百もの支流と湖から水が注ぐ揚子江もまた、重大な洪水を生じさせました。1958年に、共産主義者は多くの肥沃な農地を耕作しましたが、あまりにも多くの土地を耕作したので、悲惨な洪水という結果に終わりました。
1958年以来、私は白湖農場にいました。また、10人以上のカトリックの神父様もまた、この白湖農場にいました。彼らの殆どは上海から来ました。私たち女子部隊には、煉獄援助修道会の張依成マザー、聖母奉献修道会の李臨シスター,ウルスラ会の史獻芝マザー、カルメル会の修練者である張玉琴及び黃松青、張茵秋、張美瑜、徐曼修、周若蘭、王培貞、劉天真、龔潔貞など10数人の信者がいました。生活は惨めでした。私たちは屋根や門の無い小屋に住んでいました。私たちの劉真文隊長は共産党員でしたが、彼女自身も経歴上の問題で、上海から農場に追放されていました。ですから、信者に対して特别に同情を寄せました。通常、私が寮に留まって、何らかのより軽い作業をすることを認めました。皆が朝、作業の割り当てのために並んでいたとき、彼女は良く言ったものです。「美玉、あなたは仕事がいつも遅い。あなたは他の人の進歩を妨げています。寮に入りなさい。そして、便所を掃除して」 私は、ほとんど毎日、寮に留まって働いていました。確かに、私は何をするのにも不器用でした。私は苗を抜き取る間、田んぼの中に落ちました。骨の折れる仕事で疲れていたとき、私は、よく気が遠くなりました。私は自分の不器用さのために、私の部隊の仲間は首を横に振りました。私はまだ生き生きと、ある一つの出来事を覚えています。
1959年6月、雨が数日間絶え間なく降りました。菜園は水であふれつつありました。野菜無しになることは、部隊全体にとって重要な問題でした。劉隊長は、既に熱い鍋の中のアリと同じ様に心配していました。午後10時、彼女は私たちの小屋にやって来て、私たちの菜園を救うためにボランティアが必要だと告げました。皆、昼間に働いていました。そして今、私たちはその日の夜に洪水による水を掻き出すために、残業しなければなりませんでした。すぐに、何人かは「私は行きます」とはっきりと言いました。私は彼女らに続いて言いました。「私も」「暗くて、泥だらけです。しっかり歩くことさえ出来ませんよ。ちゃんと出来るのですか?」マリア姉さんは答えました。そして、徐さんは言いました。「かまいません。背中に彼女を背負わせて」 私は隊長が同意しないのを恐れたので、急いで扉を開けて出て行き、強風や大雨、そして雷鳴の歓迎を受けました。の上、私は泥水の中でしっかりと立つことさえ出来ませんでした。突然、徐さんが、「来て、急いで!私に運ばせて」と言っているのを聞きました。この風と雨の交響曲のコンチェルトを聞き逃したくありませんでしたので、私は彼女の親切を拒めませんでした。 私たちが菜園に到着したとき、そこはもう水に浸かっていました。2つの大きい車輪の付いた木製の水運び車を押すことで、水を運んでいました。それぞれの水運び車の大きな車輪を押すのは、二人掛りでした。
ああ、天主様! 私たちの大多数は都市で生まれました。徐さんを除いて、私たちは小麦とにらを見分けることが出来ませんでした。徐さんは、田舎の農場からやって来ました。今は、作業のためにズボンを膝までたくし上げ、裸足でなければなりませんでした。彼女はは、水を運びを実演しなければなりませんでした。私たちの九人は、4組に分かれました。そして、各組は順番に木製の水運び車を操りました。私は何の取り得も無く、ただ傍に立って見ることしか出来ませんでした。そしてそれはまれな晩でした。長い間歌うことから抑圧されていたので、私は大きな声を出して歌いたいと感じました。今夜、天主様はこれら自然の楽器を私たちに与えて下さいました。そして、私は彼女たちに言いました。「皆さん、今夜は私に進行役をやらせて。私たちには、歌うためのいい機会があります。大きな声で私たちの天主様と教会、そして教皇様への熱意と愛情を歌いましょう」
そして、周若蘭(最も若い少女)が、最初に「聖なる元后…」と歌い、次に、私たちが「我は信徒…」や「聖マリア…」のような聖歌を一つずつ歌いました。私たちの声は空まで響き渡り、雨の雑音と雷の音と一緒に美しい交響曲を奏でました。皆が疲れたとき、私は皆が自分たちのことで何か言うことを勧めました。
張依成マザーは言いました。「私は煉獄援助修道会の修道女です。そして、私の意向は煉獄の霊魂を救うことです。私たちが今夜行ったことと自分の残りの人生で行うことを、煉獄の哀れな霊魂のために、天主様にお捧げします」
徐曼修は言いました。「私たちは中国の全て犠牲者のために祈ります。彼らは正義と正直さのために迫害されました。天主様は、ここで共に苦しむ御恵みを私たちにお与えになりました。私の姉妹たち、より多くの人々がより激しい迫害に耐えています。その人たちのために祈りましょう」
龔浩貞は言いました。「私は自分たちの両親、特に自分たちの母親のために祈ります。彼らは本当の殉教者です。私たちと離れ離れになり、大変苦しんでいます。私たちは時折彼らのことを考えるべきです」
王培貞は言いました。「私たちは教会と教皇様への忠誠のために、刑罰を下されました。いつの日か、私たちの何人かが教皇様にお目にかかり、一九五〇年代の青年たちがどれ程教皇様を愛していたか伝えられることを願っています」
張美瑜は言いました。「私たちの保護者、佘山の聖母を忘れないでください。私たちは、聖母の御加護無しにはカルワリオの丘に行く勇気は無いでしょう。私たちは、聖母を決して忘れてはなりません」
黄松青博士は言いました。「美玉のために祈ってください。彼女の刑期は私たちの中で最も長く、体が丈夫ではないので、その十字架は最も重いのです。彼女は異教徒の家庭から来ています。彼女が信仰を守ってイエズス様の後についていき、最後まで十字架を負うことを願っています」
これを聞いた後、私は涙の雨を抑えることが出来ませんでした。黄博士は、その後数十年間、私を自分の娘として接して下さいました。最近、私は上海で彼女に会いました。彼女は私を抱きしめ、「美玉、何年も経った後でも、あなたは西洋の考え方に染まらず、白湖農場から来たときのままです。あなたが相変わらず、私たちの佘山の聖母を愛していると確信しています」彼女は通常、他人を直ぐには褒めなかったので、私は幸せでした。そこで私は、「あの嵐の夜に、あなたが皆に私のために祈るように頼んだかを、私は決して忘れることが出来ません。私は完全にあなたの忠告を固く守るよう、努力しました」
洪水による水は、徐々に退いていきました。雨は上がりました。ずぶぬれになった私たち九人は小屋に戻り、生姜茶とおこげのスープで歓迎されました。食物は台所で準備され、そしてそれは、通常は客人に対する御馳走でした。皆、天主様の御恵みが激しいほとばしりのように私たちに下りて来たのを感じました。もし、他の機会があれば、私たちは再び勇敢に前に進むでしょう。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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