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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十四章 記憶に残る集まり

2011年11月18日 | カトリックとは
第三十四章 記憶に残る集まり

1958年に、私は2回目の逮捕をされました。1959年9月30日、私は同じ貨物船で約500人の他の女性の囚人と一緒に白湖労働改造所に送られました。これらの500人のうち、上海の別の小教区や修道院から約15人のカトリック教徒がいました。私は全員を知っていたのではありませんが、私たちは3日から4日間の困難な旅での様々な苦しみに耐えました。木製のバケツ以外には船にはトイレがなかったため、最も困難な経験は、私たちが多くの水を飲むことを許されなかったということでした。500人が一つの大きなバケツを日夜共有することを想像してみてください。並んで待つのに、少なくとも20分はかかりました。

 カトリック教徒は多くの場合、必要に迫られた人に先に行かせる機会を与えることにより、他の人に愛徳を示しました。これは、語るにはかなり不快な対象であるかもしれませんが、これを経験してきた人々だけが、その愛徳の大きさを理解することが出来ます。この犠牲という美徳は、思いやりと大きな愛が必要です。彼女たちの一人であるマリア張茵秋は、木のバケツを使う便宜を他人に図ることで、非常な親切さを示しました。私たちは、上海ではお互いに面識が有りませんでしたので、私は労働改造所へ向かう途中でマリア張茵秋を知りました。彼女は輝く模範でした。非常に忍耐強く、穏やかで、彼女は不満を決して表さず、私がすべての苦しみを受け入れて、天主様にそれをお捧げするように励ましました。

 私たちが労働改造所に到着した後、体格が良く背の高い茵秋は、常に重労働に携わるように割り当てられていました。彼女はほんの少ししか話しませんでしたが、多くのことをしました。1959年は、中国では誰にとっても難しい時でした。私たちは、いくつかの腐ったニンジンや野草を以外には殆ど食べるものはありませんでした。時には、私たちは14時間以上も泥を運ぶ必要がありました。私は全信者で最年少であり、苦しむことへの多くの忍耐力を持っていませんでした。茵秋は多くの場合、私を励まして言いました。「この移り行く世界で、天主様は私たちを証し人としてお選びになりました。私たちは辛抱強くなければならず、そして私たち自身または他の人の罪のために、贖いをしなければなりません」彼女は口だけではなく、行いでも天主様を愛しました。

 1961年の初めから、私たちは、茵秋の消化器系に問題があったことを知っていました。彼女は一日に5、6回排便しなければならず、顔色は青白くなっていました。私は彼女に言いました。「もし、重労働を止めなければ、すぐにやつれきってしまいます。より軽い仕事を割り当てるように昭儀(彼女はカトリック信者で私たちのチームの担当者でした)に聞いて下さい」茵秋は答えました。「昭儀はもう他の病人の世話をしています。私は、彼女をこれ以上煩わせてたくはありません」そして、彼女は重労働を続けました。彼女は本当の犠牲の霊魂になりたいと思っていたのです。1962年初めに茵秋は入院し、大腸癌であると診断されました。私たちは彼女を気の毒に思いましたが、同時に彼女が私たちの中で最初の殉教者となることを喜びました。殉教者となることは、素晴らしい御恵みです。私たちは、それを考える価値さえないと思っていました。私たちの中から最適な人をお選びになったのは、天主様でした。茵秋は私たちの仲介者となるでしょう。

 それは本当に天主様の御摂理でした。茵秋は私が働いていた第六区に配属されました。毎朝、彼女の部屋に足を踏み入れた時、私は安心して彼女に挨拶しました。彼女は不平を言わず、または苦痛によるうめき声を出しませんでした。彼女は医師や看護人から何も要求していませんでした。彼女の死の2ヶ月前に、彼女は言いました。「私は十字架を持ちたいです。私はイエズス様に、自分の死に直面するための強さをお与えくださるようお願いします」

 張美瑜は、偶然にも十字架を持っていたので、彼女は茵秋のベッドの上にそれを置きました。私はこのことについて臆病でしたので、彼女に尋ねました。「茵秋、ここは労働改造所です。共産党員があなたを困らせようとするとは思わないのですか?」彼女は冷静に答えました。「私は、私たちのイエズス様に顔を合わせるのです。何も私を怖がらせるものはありません」私は続けました。「あなたは私に、あなたを訪ねるようにあなたの家族に聞いて欲しいですか?」彼女は言いました。「天主様は私をお選びになりました。私は天主様のために生まれ、天主様のために死ぬでしょう。私の家族を気にしないでください。彼らは仕事で非常に忙しいのです。私の投獄は、もう十分な負担をかけています」6月には、茵秋は水を飲むことが出来ませんでした。彼女が私たちから離れることを考えながら、美瑜は彼女のために純白の紙の花を作りました。彼女はベッドシーツの上に大きな十字架の印を描き、「マリア張茵秋」と書きました。7月28日の正午の頃、美瑜は当番で、私たちの寮に駆け込んで来ました。「急いで!茵秋が亡くなります!」私たちは、家族から送られた祝別されたろうそく持って彼女の病棟に走り、彼女がベッドに静かに横たわり、自分の手に十字架を持ってそれに接吻しているのを目にしました。彼女は話すことが出来ませんでした。私たち5,6人のカトリック教徒は、彼女のベッドの周りに立っていました。ある人は彼女のために祈りを唱えながら何本かのろうそくを持ち、またある人は手作りのロザリオでロザリオの祈りを唱えました。

 茵秋は牢獄に閉じ込められてはいましたが、非常にカトリック的な雰囲気の中におり、私たちは彼女が確実に天国へ向かっていたと信じていました。彼女が最後の息を引き取った後、私たちは彼女が手にした純白の紙の花をなで、大きな十字架のあるベッドシーツで彼女を覆いました。病院の作業者は、彼女を馬家山の上に埋葬しました。

 私たちは病棟から出たとき、人々はうわさ話を始めました。「見て!何が起こっているかを?この反革命分子は、大胆にも、労働改造所で亡くなる人のために宗教的な儀式をしたわよ」夕方には、私たちの病院は大きな批判会議を開催しました。私たちの同僚の指先は、全て私たちを指していました。彼らは、茵秋が死にかけていた時に、十字架を持ってそれに接吻し、さらに恐ろしいことに、誰かが病棟でろうそくを灯したと批判しました。共産党員の矯正官が、ろうそくを灯したのは誰かと尋ねたとき、私たちの五、六人が同時に、「それは私です」と答えました。「誰が紙の花を作ったのか?」同じ答えが、私たち皆のカトリック教徒から返って来ました。「私!」最後に、彼らは私たちが自分の意見を表明することを求め、私たち皆は言いました。「あなたが罰を与えたいのでしたら、私を罰して下さい。それは他人とは何の関係もありません」このようにして、この会議は一時間しか続きませんでした。

数日後、矯正官は個別に私たちに話しました。私は、今でも鮮明に彼の言葉を覚えています。「なぜ、おまえは罰を受けることを恐れないのか?おまえはもう15年の刑を宣告されている。我々が刑期を延長するならば、おまえは一生涯、刑務所に留まることになる」私は笑顔で彼に答えました。「私はとても弱いです。私は15年間生きられると誰が知っているでしょう。ですから、あなたが私の刑期を延長してもしなくても、それはほとんど同じです」彼は私たちの言動に感動し、終わりに言いました。「私はこのような反革命集団を見たことがない。誰もが非難のことで責任を取ろうとしている。私はおまえたち皆が、非常に良い人であると信じている。おまえは、告発されたような罪を犯したはずがない」私たちは、これはまさしく、天国で私たちのために祈り続けている茵秋からのしるしであると信じました。私たちは彼女の足跡を追い、彼女の美徳を模倣しました。彼女は聖書の「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは得ることです」(フィリポ 第21章)という言葉の偉大な模範でした。

労改営当局の矯正官は、私たちに警告や罰を与えず、それを『張茵秋事件』として報告しました。中国共産党司法部門が私たちの「反抗的行為」を知った時、彼らはそれを放置しないことに決めました。結局、もう一人の信者である龔潔貞は進んで身代わりになり、そしてさらに2年が彼女の刑期に追加されました。その理由は、茵秋が非常に病気であるのを知った時、彼女が茵秋にメモを書いて、茵秋を運んで自分が世話をするよう人に頼んだことでした。

 誰かが、反革命的行動の証拠として、矯正官にメモを提出しました。龔潔貞はまるで、いけにえの小羊のようでした。数年後、龔潔貞はこれを回想した時に、涙ながらに言いました。「茵秋にとって、自分の癌が末期であった時、一日一日が彼女の背負う新たな十字架でした。労働改造所の療養所は、基本的な設備を欠いていました。茵秋のお尻には、癌細胞の拡散による大きなボールのサイズの穴があり、毎日新しいガーゼを穴に詰めなければなりませんでした。誰も、彼女の大きな痛みを想像することは出来ませんし、彼女はとても痩せ細っていました。ですが、彼女は全く不満をもらさず、穏やかに祈っていました」

 茵秋の家族がこれを聞いたとき、彼らは泣かずにはいられませんでした。茵秋の家族は、彼女の死の前に彼女を訪問したいと考えていましたが、彼女はその要望を断りました。彼女は家族に手紙を書きました。「私は、あなたたちのことを懐かしく思いますし、あなたたちに会いたいです。でも、私はためらうことなく、自分を天主様に捧げたいのです。私がこの世からの慰めを得るならば、天主様への私の犠牲は少なくなるでしょう。私の死後、白湖農場に葬って下さい」最後に、彼女の妹が彼女を訪れましたが、それは遅すぎました。茵秋は7月28日の午後一時に亡くなりました。彼女の妹は同日の午後7時に労働改造所に到着しましたが、茵秋はすでに、マタイ陳神父様とヨセフ傅神父様ような他の何人かの殉教者と共に、馬家山の墓地に埋葬されていました。天主様の御慈悲は永遠に賛美されますように。




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