第三十八章 碭山(ダンシャン)果樹園
私は投獄中に、白湖農場から碭山果樹園に送られましたが、後者は全く悪夢のようでした。碭山果樹園は、中国で二番目に大きい川である黄河の北に位置していました。そこの天候は過酷で、夏は暑くて乾燥しており、気温は43度まで上がり、さらに果樹園の力仕事もありました。冬は、零下30度位まで下がりました。私たちは、夏には扇風機が無く、冬には暖房が無い小屋に住みました。窓やドアはあっても、とてもみすぼらしいものでした。時々、激しい風が私たちの小屋の中まで強く吹いて来ましたので、野外に生活しているのも同然でした。嵐の日の雨はすなわち、私たちのベッドに雨が振りかかかって来ることを意味しました。
米と小麦の栽培出来きない碭山は、果物の栽培、特に非常に甘くて果汁の多い碭山梨で有名でした。今、私はアメリカのスーパーマーケットで、この種の梨を見てきました。おそらく人々は、それらのほとんどが労改果樹園で栽培されていることを知らないでしょう。私は碭山の労改果樹園を考える度に、私の心は震えました。それは、私たちが単にそこで非常に困難な生活をしたというだけではありません。私たちは、米の御飯やパンを貰えませんでした。私たちは腐ったヤマイモとカビの生えた野菜を食べました。果樹園の看守は、他の労働改造所よりも更に酷くカトリック教徒を扱いました。彼らは毎年、膨大な公開批判の会議を開催しました。司祭、修道女、そして信者が彼らの標的でした。そこでは、共産党の看守によって私たちを叩いたり、蹴るように強いられた3000人以上のの囚人がいたものです。会議後のお決まりとして、看守は窓のない離れの牢屋に私たちを閉じ込め、私たちの食べ物は他の囚人の半分に減らされました。その理由は、私たちが牢屋内で何も作業を行っていないということでした。私たちが進んで信仰を放棄し、彼らが言ったことに何でも従うのでしたら、彼らは私たちを解放したでしょうが、私たちは簡単には屈しませんでした。私たちが二週間抵抗し続けた場合、共産党の看守は、私たちが独房で死んでしまうかもしれないと恐れ、、私たちを出しました。私たちは、彼らの脅しに屈しなかったと心の中でました。
一部の人々は、ストレスの多い条件の下で「発狂」したり、自殺を図りました。私たちの部隊で、このように死んだのは3人でした。私たちは、共産党の看守がその人たちが政府に対して反革命的行為を行っており、その家族は厳罰に処せられると発表するのが分かっていたので、その人たちが死んだ後、同情を示すことが出来ませんでした。私に関しては、自分は決して忘れないだろうという最も過酷で恐ろしい経験をしました。碭山労改果樹園に来る前、私は、長期間の尋問の上での飢餓、寒さでの凍え、劇的な批判会議を経験して来ました。碭山に到着して後、私は想像を超えた全く新しい出来事に遭遇しました。
1970年8月の正午、私は果樹園から帰ってきたとき、共産党の看守の妻は、私たちの診療所に来て、彼女のマラリアのためのキニーネの注射をするように私に依頼しました。ちょうど彼女が依頼したとおり、私は彼女に2アンプル分を与えました。10分以内に、看守は診療所に急いでやって来て、私に叫びました。「胡美玉、妻に何をした?注射後直ぐに気絶したぞ」私は、ほとんどその場で死ぬところでした。彼は私に問い続けました。「どこにアンプルがあるんだ?おまえは間違った薬を注射したのか?」私は即座にアンプルを見付け、看守にそれを手渡しました。私の心臓はどきどきして、喉から飛び出さんばかりでした。何をなすべきでしょうか?まるで、誰かが私を地獄へ落とすかのように、恐怖の波が押し寄せました。私は必死になって、自分の心を現実に直面させるようにしました。看守の妻を救うのが、何よりも最も重要なことです。私は看守に言いました。「これは緊急事態です!先ず、病院の医師を呼びましょう」
私はすぐに看守の家に走り、彼の妻がベッドに横たわっているのを見ました。彼女の目は固く閉じていました。私は反応を得るために、何度も何度も彼女の名前を呼びましたが、彼女は意識がありませんでした。私は、彼女の血圧を測定し、彼女の瞳孔を調べました。別に異常はありませんでした。医師が来るのに10分かかりました。彼は始めに、私がどんな囚人で、そして私の刑期がどのくらいであるか等々、私の背景について尋ねました。間違いなく私の答えは、彼が私に対してより厳しくなる多くの理由となりました。彼は、繰り返し、アンプルを調べました。「おまえは注射前に、なぜテストをしなかった?」厳しい顔で、私をにらみ付けました。私は恐る恐る、自分自身を弁護しようと試みました。「キニーネには、そのような手順はありません」彼は非常に怒りました。「とにかく、おまえは反動分子で、我々の一番の敵だ。おまえは、本当に彼女を殺そうとしたのではないか。今、揚夫人はまだ意識が無い。もし回復しなかったら、おまえは自分がやったこと全てに対して代償を払わなければならない。厳罰が待っているのが、おまえにははっきり分かっているだろう」私は何をすべきか分からず、途方に暮れていました。医者は彼女にグルコースを与えて、自身に満ちた態度で去って行きました。私はリンゴのように赤い揚夫人の顔を見ると、彼女は非常に良いリズムでいびきをかきました。おそらく、より多くのお金を得ることが出来るように、看守の家族も収穫の季節には忙しく働いていたためでした。彼女は働き過ぎでしたので、より多くの睡眠を必要としていたのかもしれません。彼女は、私が心を震わせながら、18時間以上も彼女のベッドの横に座っていたことを知らなかったでしょう。
その間、私は12年以上投獄されていました。十五引く十二、残されたのは僅か3年間です。悪夢はすぐに終わるかもしれませんが、揚夫人の予想外の出来事以来、誰も私が自分の刑期を終わらせるとことを知りませんでした。私は、旧約聖書のヤコブでさえ、このような試練はなかったと思いました。しかし、天主様は正義と慈悲に満ちておられ、その無限の知恵は、それが起こるのをお許しになりましたので、私は不平不満を述べる理由はありませんでした。私は天主様を信頼し、彼らが私を処刑するための心の準備が出来ていました。私の両親は、二人共もう天国にいました。私自身は、この労働改造所で苦しんで償いをしましたので、もしそれが天主様の御摂理であるのならば、私は喜んで行こうと思いました。ただ、私が楊さんの家族に対して、さらに多くのトラブルや負担をもたらすことを心配していました。
私は楊夫人と夜まで過ごし、彼女は深いため息をついて言いました。「とてものどが渇いた。飲み物を下さい」この言葉を聞いて、私はほっとし、まるで哀れな霊魂が煉獄から解放されたのに似ていると思いました。私が水を取りに急いだ後、彼女はこう言いました。「私はとても疲れています。朝早くから何も食べていません」私は彼女のために、麺を料理するように彼女の夫に言いました。彼女はガツガツと食べると、ずっと気分が良くなったと私に語りました。妻のこの明らかな回復で、看守は私は疲れていたのに気付き、私が診療所に戻ることを認めました。
三ヶ月後、私は別の刑務所に移されました。私が出発する日、楊夫人は診療所に来て、別れを告げました。彼女は、とても心を込めて言いました。「前に、私はあなたに大きな負担をかけましたが、それでもあなたは私に良くしてくれました」囚人と看守の間には大きな格差があり、私たちの間ではどんな愛情や友情も育まれることが許されませんでしたので、それは労働改造所では非常にまれな会話でした。後に彼女は、私に2つのキュウリを持って行くように、彼女の幼い息子を寄越しました。「途中でのどが乾いても、飲むものがないときのために、きゅうりが役に立つってママが言ったよ」二つの小さなキュウリは、彼らが私のことを気遣っていることを示しました。いつの日か、私の愛が彼らの凍った心を溶して天主様への愛を起こすことが出来るように、私は天主様に祈りました。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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私は投獄中に、白湖農場から碭山果樹園に送られましたが、後者は全く悪夢のようでした。碭山果樹園は、中国で二番目に大きい川である黄河の北に位置していました。そこの天候は過酷で、夏は暑くて乾燥しており、気温は43度まで上がり、さらに果樹園の力仕事もありました。冬は、零下30度位まで下がりました。私たちは、夏には扇風機が無く、冬には暖房が無い小屋に住みました。窓やドアはあっても、とてもみすぼらしいものでした。時々、激しい風が私たちの小屋の中まで強く吹いて来ましたので、野外に生活しているのも同然でした。嵐の日の雨はすなわち、私たちのベッドに雨が振りかかかって来ることを意味しました。
米と小麦の栽培出来きない碭山は、果物の栽培、特に非常に甘くて果汁の多い碭山梨で有名でした。今、私はアメリカのスーパーマーケットで、この種の梨を見てきました。おそらく人々は、それらのほとんどが労改果樹園で栽培されていることを知らないでしょう。私は碭山の労改果樹園を考える度に、私の心は震えました。それは、私たちが単にそこで非常に困難な生活をしたというだけではありません。私たちは、米の御飯やパンを貰えませんでした。私たちは腐ったヤマイモとカビの生えた野菜を食べました。果樹園の看守は、他の労働改造所よりも更に酷くカトリック教徒を扱いました。彼らは毎年、膨大な公開批判の会議を開催しました。司祭、修道女、そして信者が彼らの標的でした。そこでは、共産党の看守によって私たちを叩いたり、蹴るように強いられた3000人以上のの囚人がいたものです。会議後のお決まりとして、看守は窓のない離れの牢屋に私たちを閉じ込め、私たちの食べ物は他の囚人の半分に減らされました。その理由は、私たちが牢屋内で何も作業を行っていないということでした。私たちが進んで信仰を放棄し、彼らが言ったことに何でも従うのでしたら、彼らは私たちを解放したでしょうが、私たちは簡単には屈しませんでした。私たちが二週間抵抗し続けた場合、共産党の看守は、私たちが独房で死んでしまうかもしれないと恐れ、、私たちを出しました。私たちは、彼らの脅しに屈しなかったと心の中でました。
一部の人々は、ストレスの多い条件の下で「発狂」したり、自殺を図りました。私たちの部隊で、このように死んだのは3人でした。私たちは、共産党の看守がその人たちが政府に対して反革命的行為を行っており、その家族は厳罰に処せられると発表するのが分かっていたので、その人たちが死んだ後、同情を示すことが出来ませんでした。私に関しては、自分は決して忘れないだろうという最も過酷で恐ろしい経験をしました。碭山労改果樹園に来る前、私は、長期間の尋問の上での飢餓、寒さでの凍え、劇的な批判会議を経験して来ました。碭山に到着して後、私は想像を超えた全く新しい出来事に遭遇しました。
1970年8月の正午、私は果樹園から帰ってきたとき、共産党の看守の妻は、私たちの診療所に来て、彼女のマラリアのためのキニーネの注射をするように私に依頼しました。ちょうど彼女が依頼したとおり、私は彼女に2アンプル分を与えました。10分以内に、看守は診療所に急いでやって来て、私に叫びました。「胡美玉、妻に何をした?注射後直ぐに気絶したぞ」私は、ほとんどその場で死ぬところでした。彼は私に問い続けました。「どこにアンプルがあるんだ?おまえは間違った薬を注射したのか?」私は即座にアンプルを見付け、看守にそれを手渡しました。私の心臓はどきどきして、喉から飛び出さんばかりでした。何をなすべきでしょうか?まるで、誰かが私を地獄へ落とすかのように、恐怖の波が押し寄せました。私は必死になって、自分の心を現実に直面させるようにしました。看守の妻を救うのが、何よりも最も重要なことです。私は看守に言いました。「これは緊急事態です!先ず、病院の医師を呼びましょう」
私はすぐに看守の家に走り、彼の妻がベッドに横たわっているのを見ました。彼女の目は固く閉じていました。私は反応を得るために、何度も何度も彼女の名前を呼びましたが、彼女は意識がありませんでした。私は、彼女の血圧を測定し、彼女の瞳孔を調べました。別に異常はありませんでした。医師が来るのに10分かかりました。彼は始めに、私がどんな囚人で、そして私の刑期がどのくらいであるか等々、私の背景について尋ねました。間違いなく私の答えは、彼が私に対してより厳しくなる多くの理由となりました。彼は、繰り返し、アンプルを調べました。「おまえは注射前に、なぜテストをしなかった?」厳しい顔で、私をにらみ付けました。私は恐る恐る、自分自身を弁護しようと試みました。「キニーネには、そのような手順はありません」彼は非常に怒りました。「とにかく、おまえは反動分子で、我々の一番の敵だ。おまえは、本当に彼女を殺そうとしたのではないか。今、揚夫人はまだ意識が無い。もし回復しなかったら、おまえは自分がやったこと全てに対して代償を払わなければならない。厳罰が待っているのが、おまえにははっきり分かっているだろう」私は何をすべきか分からず、途方に暮れていました。医者は彼女にグルコースを与えて、自身に満ちた態度で去って行きました。私はリンゴのように赤い揚夫人の顔を見ると、彼女は非常に良いリズムでいびきをかきました。おそらく、より多くのお金を得ることが出来るように、看守の家族も収穫の季節には忙しく働いていたためでした。彼女は働き過ぎでしたので、より多くの睡眠を必要としていたのかもしれません。彼女は、私が心を震わせながら、18時間以上も彼女のベッドの横に座っていたことを知らなかったでしょう。
その間、私は12年以上投獄されていました。十五引く十二、残されたのは僅か3年間です。悪夢はすぐに終わるかもしれませんが、揚夫人の予想外の出来事以来、誰も私が自分の刑期を終わらせるとことを知りませんでした。私は、旧約聖書のヤコブでさえ、このような試練はなかったと思いました。しかし、天主様は正義と慈悲に満ちておられ、その無限の知恵は、それが起こるのをお許しになりましたので、私は不平不満を述べる理由はありませんでした。私は天主様を信頼し、彼らが私を処刑するための心の準備が出来ていました。私の両親は、二人共もう天国にいました。私自身は、この労働改造所で苦しんで償いをしましたので、もしそれが天主様の御摂理であるのならば、私は喜んで行こうと思いました。ただ、私が楊さんの家族に対して、さらに多くのトラブルや負担をもたらすことを心配していました。
私は楊夫人と夜まで過ごし、彼女は深いため息をついて言いました。「とてものどが渇いた。飲み物を下さい」この言葉を聞いて、私はほっとし、まるで哀れな霊魂が煉獄から解放されたのに似ていると思いました。私が水を取りに急いだ後、彼女はこう言いました。「私はとても疲れています。朝早くから何も食べていません」私は彼女のために、麺を料理するように彼女の夫に言いました。彼女はガツガツと食べると、ずっと気分が良くなったと私に語りました。妻のこの明らかな回復で、看守は私は疲れていたのに気付き、私が診療所に戻ることを認めました。
三ヶ月後、私は別の刑務所に移されました。私が出発する日、楊夫人は診療所に来て、別れを告げました。彼女は、とても心を込めて言いました。「前に、私はあなたに大きな負担をかけましたが、それでもあなたは私に良くしてくれました」囚人と看守の間には大きな格差があり、私たちの間ではどんな愛情や友情も育まれることが許されませんでしたので、それは労働改造所では非常にまれな会話でした。後に彼女は、私に2つのキュウリを持って行くように、彼女の幼い息子を寄越しました。「途中でのどが乾いても、飲むものがないときのために、きゅうりが役に立つってママが言ったよ」二つの小さなキュウリは、彼らが私のことを気遣っていることを示しました。いつの日か、私の愛が彼らの凍った心を溶して天主様への愛を起こすことが出来るように、私は天主様に祈りました。
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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