Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第三十八章 碭山(ダンシャン)果樹園

2011年11月22日 | ルフェーブル大司教の言葉
第三十八章 碭山(ダンシャン)果樹園

私は投獄中に、白湖農場から碭山果樹園に送られましたが、後者は全く悪夢のようでした。碭山果樹園は、中国で二番目に大きい川である黄河の北に位置していました。そこの天候は過酷で、夏は暑くて乾燥しており、気温は43度まで上がり、さらに果樹園の力仕事もありました。冬は、零下30度位まで下がりました。私たちは、夏には扇風機が無く、冬には暖房が無い小屋に住みました。窓やドアはあっても、とてもみすぼらしいものでした。時々、激しい風が私たちの小屋の中まで強く吹いて来ましたので、野外に生活しているのも同然でした。嵐の日の雨はすなわち、私たちのベッドに雨が振りかかかって来ることを意味しました。

米と小麦の栽培出来きない碭山は、果物の栽培、特に非常に甘くて果汁の多い碭山梨で有名でした。今、私はアメリカのスーパーマーケットで、この種の梨を見てきました。おそらく人々は、それらのほとんどが労改果樹園で栽培されていることを知らないでしょう。私は碭山の労改果樹園を考える度に、私の心は震えました。それは、私たちが単にそこで非常に困難な生活をしたというだけではありません。私たちは、米の御飯やパンを貰えませんでした。私たちは腐ったヤマイモとカビの生えた野菜を食べました。果樹園の看守は、他の労働改造所よりも更に酷くカトリック教徒を扱いました。彼らは毎年、膨大な公開批判の会議を開催しました。司祭、修道女、そして信者が彼らの標的でした。そこでは、共産党の看守によって私たちを叩いたり、蹴るように強いられた3000人以上のの囚人がいたものです。会議後のお決まりとして、看守は窓のない離れの牢屋に私たちを閉じ込め、私たちの食べ物は他の囚人の半分に減らされました。その理由は、私たちが牢屋内で何も作業を行っていないということでした。私たちが進んで信仰を放棄し、彼らが言ったことに何でも従うのでしたら、彼らは私たちを解放したでしょうが、私たちは簡単には屈しませんでした。私たちが二週間抵抗し続けた場合、共産党の看守は、私たちが独房で死んでしまうかもしれないと恐れ、、私たちを出しました。私たちは、彼らの脅しに屈しなかったと心の中でました。

一部の人々は、ストレスの多い条件の下で「発狂」したり、自殺を図りました。私たちの部隊で、このように死んだのは3人でした。私たちは、共産党の看守がその人たちが政府に対して反革命的行為を行っており、その家族は厳罰に処せられると発表するのが分かっていたので、その人たちが死んだ後、同情を示すことが出来ませんでした。私に関しては、自分は決して忘れないだろうという最も過酷で恐ろしい経験をしました。碭山労改果樹園に来る前、私は、長期間の尋問の上での飢餓、寒さでの凍え、劇的な批判会議を経験して来ました。碭山に到着して後、私は想像を超えた全く新しい出来事に遭遇しました。

1970年8月の正午、私は果樹園から帰ってきたとき、共産党の看守の妻は、私たちの診療所に来て、彼女のマラリアのためのキニーネの注射をするように私に依頼しました。ちょうど彼女が依頼したとおり、私は彼女に2アンプル分を与えました。10分以内に、看守は診療所に急いでやって来て、私に叫びました。「胡美玉、妻に何をした?注射後直ぐに気絶したぞ」私は、ほとんどその場で死ぬところでした。彼は私に問い続けました。「どこにアンプルがあるんだ?おまえは間違った薬を注射したのか?」私は即座にアンプルを見付け、看守にそれを手渡しました。私の心臓はどきどきして、喉から飛び出さんばかりでした。何をなすべきでしょうか?まるで、誰かが私を地獄へ落とすかのように、恐怖の波が押し寄せました。私は必死になって、自分の心を現実に直面させるようにしました。看守の妻を救うのが、何よりも最も重要なことです。私は看守に言いました。「これは緊急事態です!先ず、病院の医師を呼びましょう」

 私はすぐに看守の家に走り、彼の妻がベッドに横たわっているのを見ました。彼女の目は固く閉じていました。私は反応を得るために、何度も何度も彼女の名前を呼びましたが、彼女は意識がありませんでした。私は、彼女の血圧を測定し、彼女の瞳孔を調べました。別に異常はありませんでした。医師が来るのに10分かかりました。彼は始めに、私がどんな囚人で、そして私の刑期がどのくらいであるか等々、私の背景について尋ねました。間違いなく私の答えは、彼が私に対してより厳しくなる多くの理由となりました。彼は、繰り返し、アンプルを調べました。「おまえは注射前に、なぜテストをしなかった?」厳しい顔で、私をにらみ付けました。私は恐る恐る、自分自身を弁護しようと試みました。「キニーネには、そのような手順はありません」彼は非常に怒りました。「とにかく、おまえは反動分子で、我々の一番の敵だ。おまえは、本当に彼女を殺そうとしたのではないか。今、揚夫人はまだ意識が無い。もし回復しなかったら、おまえは自分がやったこと全てに対して代償を払わなければならない。厳罰が待っているのが、おまえにははっきり分かっているだろう」私は何をすべきか分からず、途方に暮れていました。医者は彼女にグルコースを与えて、自身に満ちた態度で去って行きました。私はリンゴのように赤い揚夫人の顔を見ると、彼女は非常に良いリズムでいびきをかきました。おそらく、より多くのお金を得ることが出来るように、看守の家族も収穫の季節には忙しく働いていたためでした。彼女は働き過ぎでしたので、より多くの睡眠を必要としていたのかもしれません。彼女は、私が心を震わせながら、18時間以上も彼女のベッドの横に座っていたことを知らなかったでしょう。

 その間、私は12年以上投獄されていました。十五引く十二、残されたのは僅か3年間です。悪夢はすぐに終わるかもしれませんが、揚夫人の予想外の出来事以来、誰も私が自分の刑期を終わらせるとことを知りませんでした。私は、旧約聖書のヤコブでさえ、このような試練はなかったと思いました。しかし、天主様は正義と慈悲に満ちておられ、その無限の知恵は、それが起こるのをお許しになりましたので、私は不平不満を述べる理由はありませんでした。私は天主様を信頼し、彼らが私を処刑するための心の準備が出来ていました。私の両親は、二人共もう天国にいました。私自身は、この労働改造所で苦しんで償いをしましたので、もしそれが天主様の御摂理であるのならば、私は喜んで行こうと思いました。ただ、私が楊さんの家族に対して、さらに多くのトラブルや負担をもたらすことを心配していました。

私は楊夫人と夜まで過ごし、彼女は深いため息をついて言いました。「とてものどが渇いた。飲み物を下さい」この言葉を聞いて、私はほっとし、まるで哀れな霊魂が煉獄から解放されたのに似ていると思いました。私が水を取りに急いだ後、彼女はこう言いました。「私はとても疲れています。朝早くから何も食べていません」私は彼女のために、麺を料理するように彼女の夫に言いました。彼女はガツガツと食べると、ずっと気分が良くなったと私に語りました。妻のこの明らかな回復で、看守は私は疲れていたのに気付き、私が診療所に戻ることを認めました。

三ヶ月後、私は別の刑務所に移されました。私が出発する日、楊夫人は診療所に来て、別れを告げました。彼女は、とても心を込めて言いました。「前に、私はあなたに大きな負担をかけましたが、それでもあなたは私に良くしてくれました」囚人と看守の間には大きな格差があり、私たちの間ではどんな愛情や友情も育まれることが許されませんでしたので、それは労働改造所では非常にまれな会話でした。後に彼女は、私に2つのキュウリを持って行くように、彼女の幼い息子を寄越しました。「途中でのどが乾いても、飲むものがないときのために、きゅうりが役に立つってママが言ったよ」二つの小さなキュウリは、彼らが私のことを気遣っていることを示しました。いつの日か、私の愛が彼らの凍った心を溶して天主様への愛を起こすことが出来るように、私は天主様に祈りました。





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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状

2011年11月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状」という文章を日本語に翻訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状


 クリエ・ド・ローム(Courrier de Rome)誌の2010年5月版(第333号)で、パオロ・パスクァルッチ教授(Professor Paolo Pasqualucci)はモンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Msgr. Brunero Gherardini)による研究論文に関して啓発的論評を提供している。【ブルネーロ・ゲラルディーニ神父は、ローマの聖ペトロ大聖堂の教会参事会員(カノン)であり、ラテラン大学の神学部の元部長であった】

 この論文は、神学雑誌 ディヴィニタス誌(Divinitas)上に、"Quod et tradidi vobis - La tradizione vita e giovinezza della Chisa" 【私は受けたものをあなた方に与えた‐聖伝、生活、そして教会の若者たち】という題で掲載され、さらにカーザ・マリアーナ出版社(Casa Mariana Editrice)により再度一冊の本に於いて取り上げられてもいる研究論文である。(第7章 聖伝と第二バチカン公会議後 Cap. VII Tradizione e postconcilio は、ネット上で読めます。)

 今年の初めにフランス語で出版された第二バチカン:公開討論(Vatican II:An Open Discussion) の著者モンシニョール・ゲラルディーニは、Quod et tradidi vobis 論評の中で、聖伝と第二バチカン公会議との神学討論という非常に当を得た分析を紹介している。次のものは、クリエ・ド・ローム 誌上で指摘されている、9つの障害のリストの大抜粋である。このリストの後に、私たちの方で三つの寸評を加えたが、その中でモンシニョール・ゲラルディーニは、非常に明確な個人的意見を述べる事を躊躇(ためら)わない。

「聖伝に賛成するルフェーブル司教により擁護された立場の体系をまとめてみようと私は努力を払い、しかしこの問題について取り残しのないほど徹底的に論じていると主張しているわけではないが、この対立それ自体は、次のようであると私には思える:


1. 聖伝の司祭養成と新しい司祭養成
 教会の聖伝の上にまた天啓という超自然的価値の中に、その諸原則を打ち立てる聖伝の司祭養成と、永続的変化にある文化の変動的水平に開かれた新しい司祭養成との対峙。

2. 聖伝の典礼と新しい典礼
 聖伝のと呼ばれるミサに於いて確かに力強い点を持っている典礼と、[新典礼の]人間中心的で社会学的な典礼との対峙。また新しい典礼では、共同体は個人の価値に勝り、祈りは天主崇拝の側面が無視され、[司祭ではなく] 集会が主要な行為者となり、天主は人間に場所を譲っている。

3. 聖伝による自由と新しい自由
 人の「解放」を、天主の十戒や、公教会の掟、身分上の義務による拘束、天主を知り、愛し、そして天主に仕えるという義務に依存させる自由と、あらゆる形式の礼拝<=あらゆる宗教>を対等に置き、神法に関しては黙し、個人と社会を道徳と宗教の分野と無関係にし、あらゆる問題の解決策を良心にのみ委ねる自由との対峙。


4. 聖伝の神学と新しい神学
 特定の典拠(天啓、教導権、教父学、典礼)からその内容を汲み取る神学と、来る日も来る日も、その時々の文化的出現や、それどころか明らかにちょうど言及したばかりの典拠と相反したものに門戸を大きく開く神学との対峙。


5. 天主の救世論と新しい救世論
 御託身された御言葉<イエズス・キリスト>の位格とその贖いの業と聖霊の働きとに密接に結び付き、救い主の御功徳の適用や、公教会の秘蹟による介入、さらに洗礼を受けて信徒となった人々の協力とに緊密に繋がっている 救世論 (編集者注:救霊の業に関する学問)と、 人類の一致(現代世界憲章22参照)を御言葉の御託身の結果であると考え、御言葉において個々の人間が自分固有の同一性をその中に見出すとする救世論との対峙。


6. 聖伝の教会論と新しい教会論
 公教会をキリストの神秘体と同一であると見做し、キリストの秘蹟的現存の中に教会の存在と行動の極めて重要な命の秘密であると認識する教会論と、 カトリック教会を、キリストの教会を構成するその他の諸々の中の単なる一要素であると考え、このキリストの幽霊的教会において、宣教精神は眠りこけ、福音化をしない対話をし、あたかも大罪であるかのように改宗を考えてそれを放棄する教会論との対峙。


7. ミサ聖祭に関する聖伝の概念と新しい概念
 キリストの御受難、御死去、御復活の神秘を執行し、天主の正義を満足させて罪を償う贖罪を秘蹟的に再現させる、罪の償いのミサの犠牲 と、 "自分自身を啓示する天主" には基づかず、"我々に語りかける天主に対して為される存在論的返答" に基づく信仰ということにより、司祭が単なる座長であり、個々の信者がこの秘蹟に「積極的な」参加をするミサとの対峙。


8. 聖伝の教導権と新しい教導権
 天主からの啓示の聖なる遺産を守るのみならず、この天啓を解釈し未来の世代に伝える義務を持つと自覚している教導権と、 教導教会の声である事を自覚するどころか、ローマ教皇と同等の権利と義務を持つ司教団に公教会それ自体を服従させる教皇の教導権と対峙。


9. 聖伝の宗教心と新しい宗教心
 天主に奉仕する事、そして、天主への愛の故に、人類社会の兄弟たちに奉仕する事という共通の召命を実現させる宗教心と、 この自然秩序を覆して、人間をその中心とするに留まらず、理論上でなくとも少なくとも実際上、天主の地位に人間をたてる宗教心との対峙。


「今述べた事から、聖ピオ十世会が如何に聖伝を理解しているかを容易に推論することが出来ます。確かに、聖伝とは、聖ピオ十世会が否定することと反対するすべて、聖ピオ十世会が反対し対立する事柄と正反対のすべてです。直接に、あるいは間接的に発言の行間で、聖ピオ十世会は公会議の公文書に記された諸々の革新と、公会議後に行われたその適用を拒絶しており、また聖ピオ十世会は格式なく為された野蛮なやり方に反対しています。」

「聖ピオ十世会の文書に於いて、聖伝の概念が頻繁には説明されていないことは事実であり、そこでこの概念が体系的に展開されているとは思いません。しかし、そこで理解されている事は、ちょうど推測されていることのように、陰には決して留まりません。全ての基礎には『永遠の信仰』があり、この防衛の為にこそ聖ピオ十世会は誕生しました。『防衛』ということは、その反対のもの、あるいはその代用品に有利になるような何かが存在するか、又はあり得ると言うことを表しています。『永遠の信仰』こそが、ルフェーブル大司教様が守りたいと望まれた価値であり、つまり公会議から公会議後の時期に起きたありとあらゆる衰弱、再解釈、分裂や反論と入れ替えられている価値です。この『永遠の信仰』は、『Quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est‐至るところで、常に、万人によって信じられたもの . . . 』というレランの聖ヴァンサンの言葉に要約された聖アウグスチヌスの教えの鮮明なこだまなのです。まさに司祭養成を第一の目的とする聖ピオ十世会の創立は、この理想と、この『永遠の信仰』を守るための行動とに従います。信仰を守り誤謬と戦うことに。」

 「聖座と聖ピオ十世会間の難しい関係について詳細に触れるつもりはありません。私は聖伝という共通のテーマから離れないようにします。『信仰を守り誤謬と戦うこと』は、公教会のみならず、その子らにとっての、理想であり、そのために参加すべき行動であるべきです。この事を考慮するなら、1988年にヨハネ・パウロ二世により言われた『不完全かつ矛盾する聖伝』(Motu Proprio Ecclesia Dei, 1988年7月2日)に対する非難が、現実的な根拠をどうやって持ち得るのか私には理解し難いものがあります。私が理解する事は、聖伝はアシジの精神と何の関係もないという事です。
(Mgr Gherardini, Quod et tradidi vobis – La tradizione vita e giovinezza della Chiesa, Ed. Casa Mariana Editrice, pp. 241-244).

【ブルネーロ・ゲラルディーニは、ローマ学派の85歳になる高名な神学者であり、聖ペトロ大聖堂参事会員にして教皇庁立神学院秘書、また教皇庁立ラテラノ大学名誉教授、さらに雑誌ディヴィニタス の編集者である。
 その他にも『第二バチカン公会議、開かれている疑問(Vatican II, question ouverte)』という論文を書き、2011年7月12日に Catholica 誌 no. 111, pp. 39-47 に掲載された。】


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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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