第三十章 常緑の松:陳哲敏神父
天主様の御摂理はいつもとても神秘的です。私は生まれた時から今まで、何人の神父様に出会ったか数えることができません。同じ労働改造所に、何人の殉教者が私と共にいたことしょう? 彼らは私の最高の模範です。彼らはどのように天主様を愛するか、そしてどのように自分を捧げるかを私に示しました。陳哲敏神父様はその一人でした。
1949年は、中国における教会の歴史で非常に重要でした。共産党が中国を掌握して以来、信仰の自由は全くありませんでした。私たちは自分たちの試練の間、信仰を守るための決定をしなければなりませんでした。私たちは、狭い道をカルワリオの丘まで歩くか、ただ悪魔に従って自分たちの霊魂を失わなければなりませんでした。何人かの海外からの神父様は、中国の状況がどれくらいひどいかを非常によく知っていましたが、彼らは中国に戻ると決心しました。彼らは自ら祭壇に上り、自分自身を犠牲にしました。
陳神父様は、非常に知的で有能な聖職者であり、勉強のためににローマまで行きました。若かった時でさえ、彼はその学識で有名でした。イタリアから戻った後、彼は震旦女子文理学院の教授でした。謙虚で親しみやすく、全ての学生は彼と話すのが好きでした。私は自分が思ったことを、何でも神父様に話すのを好みました。一度、私は陳神父様に言いました。「あなたは六ヶ国語を話すことが出来ますが、私たちの上海方言を話すとき、あなたの故郷の訛りがまだ多くあります。どうして、上海で伝道の仕事が出来ますか?」神父様は直ぐに答えました。「あなたは正しい。私を助けてもらえませんか?」彼は自分の高い学識や高貴な地位を、決して見せびらかしませんでした。私はその美徳が彼の生まれながらの習慣であったと思います。そして、彼の日常生活には偉大さがよく現れました。私たちは、陳神父様がどれほど聖なる方であったかを、彼の日常の行動から知ることができました。
ある時、一人の信徒が、陳神父様からドイツの有名ブランドの高価なカメラを借りました。約1年後、彼はカメラを返さず、私たちの何人かがそのこと関して噂しました。神父様はそれを知ると、こう言われました。「~さんは私のカメラを返しませんでした。おそらく、何か苦しいことがあったのでしょう。彼を非難しないでください。人の欠点について、私たちはいつも過ちを隠し、長所を褒めなければなりません」
陳神父様は、中国共産党の迫害中に、カトリック教徒の若者が重大な試練に直面しなければならないのを非常によく知っていました。私たちは、聖なる司祭によって誘導される必要がありました。彼らは、より多くの苦行と祈りを求めました。陳神父様は、私たちと連絡を取り続けるのに、あらゆる機会を利用しました。一つの幸福な思い出は、神父様がケーキ屋で私たちに御馳走したことです。
神父様はよく、多くの信者が斬首され、十字架の上で死ぬか、または処刑されて信仰のために血を流したローマの迫害の300年に関し、私たちに話をしました。神父様は、20世紀の迫害は全く異なっていると強調されました。「10年から20年、またそれより長い試練になるでしょう」 陳神父様は何度も言われました。「どんな条件の下でも、私たちの聖母に委ねなさい。毎日ロザリオを唱え続けてください」 私は一生涯、彼の言葉を心に留め、こうして私は自分の信仰を守り通したのです。
私が以前触れましたように、有名なレジオ・マリエの司祭であるエダン・マグラス神父様が、私を訪問しにアメリカに来ました。神父様は、1951年に逮捕されたとき、他の3人の聖職者の中に、張伯達神父様(上海における最初の殉教者)、沈士賢神父様、及び陳哲敏神父様がいたと私に言いました。彼らは皆、同じ建物に投獄されましたが、お互いに会うことができませんでした。監視が厳重な監獄では、根本的にお互いに会う術はなく、そして誰が横にいたかを知りさえしませんでした。 しかし、何でもこの世で絶対であるということはありません。牢屋にはトイレが全くなかったので、看守は排泄の処理のため、各牢屋に木製の容器を提供しました。それぞれの容器は毎日、掃除のために取り出されなければなりませんでした。こうして、囚人は情報交換するために、容器の掃除を利用しました。ある日、マグラス神父様は、英語で容器に何行か彫られていたのに気付きました。"I am Matthew Chen. About (Archbishop) Riberi, I didn't say anything. Please don't trust them."(私はマタイ陳です。リベリ(大司教)に関して、私は何も言いませんでした。 彼らを信じないで下さい)マグラス神父様は、陳神父様の勇気と知性に感動しました。
1960年代に、陳神父様が私と共に、同じ労働改造所で非常に重い肉体労働をしていたという情報を得ました。彼は栄養不良で、しかも重病になりました。神父様が飢えで労働改造所の病院に運ばれる途中で死んだのは、驚きではありませんでした。 神父様は、現世の名声や楽しみを気に掛けなかった聖なる司祭でした。 彼は、私たちの教会のために、自分を完全に犠牲にしても構わないと思っていました。常緑の松のように、彼のイメージは決して色あせず、私たちの心にいつも生きています!
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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天主様の御摂理はいつもとても神秘的です。私は生まれた時から今まで、何人の神父様に出会ったか数えることができません。同じ労働改造所に、何人の殉教者が私と共にいたことしょう? 彼らは私の最高の模範です。彼らはどのように天主様を愛するか、そしてどのように自分を捧げるかを私に示しました。陳哲敏神父様はその一人でした。
1949年は、中国における教会の歴史で非常に重要でした。共産党が中国を掌握して以来、信仰の自由は全くありませんでした。私たちは自分たちの試練の間、信仰を守るための決定をしなければなりませんでした。私たちは、狭い道をカルワリオの丘まで歩くか、ただ悪魔に従って自分たちの霊魂を失わなければなりませんでした。何人かの海外からの神父様は、中国の状況がどれくらいひどいかを非常によく知っていましたが、彼らは中国に戻ると決心しました。彼らは自ら祭壇に上り、自分自身を犠牲にしました。
陳神父様は、非常に知的で有能な聖職者であり、勉強のためににローマまで行きました。若かった時でさえ、彼はその学識で有名でした。イタリアから戻った後、彼は震旦女子文理学院の教授でした。謙虚で親しみやすく、全ての学生は彼と話すのが好きでした。私は自分が思ったことを、何でも神父様に話すのを好みました。一度、私は陳神父様に言いました。「あなたは六ヶ国語を話すことが出来ますが、私たちの上海方言を話すとき、あなたの故郷の訛りがまだ多くあります。どうして、上海で伝道の仕事が出来ますか?」神父様は直ぐに答えました。「あなたは正しい。私を助けてもらえませんか?」彼は自分の高い学識や高貴な地位を、決して見せびらかしませんでした。私はその美徳が彼の生まれながらの習慣であったと思います。そして、彼の日常生活には偉大さがよく現れました。私たちは、陳神父様がどれほど聖なる方であったかを、彼の日常の行動から知ることができました。
ある時、一人の信徒が、陳神父様からドイツの有名ブランドの高価なカメラを借りました。約1年後、彼はカメラを返さず、私たちの何人かがそのこと関して噂しました。神父様はそれを知ると、こう言われました。「~さんは私のカメラを返しませんでした。おそらく、何か苦しいことがあったのでしょう。彼を非難しないでください。人の欠点について、私たちはいつも過ちを隠し、長所を褒めなければなりません」
陳神父様は、中国共産党の迫害中に、カトリック教徒の若者が重大な試練に直面しなければならないのを非常によく知っていました。私たちは、聖なる司祭によって誘導される必要がありました。彼らは、より多くの苦行と祈りを求めました。陳神父様は、私たちと連絡を取り続けるのに、あらゆる機会を利用しました。一つの幸福な思い出は、神父様がケーキ屋で私たちに御馳走したことです。
神父様はよく、多くの信者が斬首され、十字架の上で死ぬか、または処刑されて信仰のために血を流したローマの迫害の300年に関し、私たちに話をしました。神父様は、20世紀の迫害は全く異なっていると強調されました。「10年から20年、またそれより長い試練になるでしょう」 陳神父様は何度も言われました。「どんな条件の下でも、私たちの聖母に委ねなさい。毎日ロザリオを唱え続けてください」 私は一生涯、彼の言葉を心に留め、こうして私は自分の信仰を守り通したのです。
私が以前触れましたように、有名なレジオ・マリエの司祭であるエダン・マグラス神父様が、私を訪問しにアメリカに来ました。神父様は、1951年に逮捕されたとき、他の3人の聖職者の中に、張伯達神父様(上海における最初の殉教者)、沈士賢神父様、及び陳哲敏神父様がいたと私に言いました。彼らは皆、同じ建物に投獄されましたが、お互いに会うことができませんでした。監視が厳重な監獄では、根本的にお互いに会う術はなく、そして誰が横にいたかを知りさえしませんでした。 しかし、何でもこの世で絶対であるということはありません。牢屋にはトイレが全くなかったので、看守は排泄の処理のため、各牢屋に木製の容器を提供しました。それぞれの容器は毎日、掃除のために取り出されなければなりませんでした。こうして、囚人は情報交換するために、容器の掃除を利用しました。ある日、マグラス神父様は、英語で容器に何行か彫られていたのに気付きました。"I am Matthew Chen. About (Archbishop) Riberi, I didn't say anything. Please don't trust them."(私はマタイ陳です。リベリ(大司教)に関して、私は何も言いませんでした。 彼らを信じないで下さい)マグラス神父様は、陳神父様の勇気と知性に感動しました。
1960年代に、陳神父様が私と共に、同じ労働改造所で非常に重い肉体労働をしていたという情報を得ました。彼は栄養不良で、しかも重病になりました。神父様が飢えで労働改造所の病院に運ばれる途中で死んだのは、驚きではありませんでした。 神父様は、現世の名声や楽しみを気に掛けなかった聖なる司祭でした。 彼は、私たちの教会のために、自分を完全に犠牲にしても構わないと思っていました。常緑の松のように、彼のイメージは決して色あせず、私たちの心にいつも生きています!
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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