局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

人形寺の記憶

2016-10-20 22:16:54 | 記憶の箱
 

日本人形の生産者や小売業者でつくる日本人形協会は18日、テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」を運営するユー・エス・ジェイ(大阪市)と淡島神社(和歌山市)に、日本人形をお化け屋敷などで展示しないよう求める抗議文を送付したと発表した。

USJは9月10日からハロウィーン期間限定のアトラクションとして、お化け屋敷「祟(TATARI)~生き人形の呪い~」を開催。施設内には、人形供養で有名な淡島神社から貸し出された数百体の日本人形が陳列されている。

抗議文は「日本人形を恐怖の対象として扱っており、イメージを著しく損ねている。供養を目的に神社に奉納された人形を転用するのも問題がある」としている。

これに対し、USJは「抗議文の指摘は法的な根拠に基づいたものではなく、アトラクションは予定通り続ける。ただ、貴重な意見として参考にしたい」とコメントしている。
サイトより


ネットやTVでこの話題を見て思い出したこと

あれは30年ほど前のこと・・・

実はオットの仕事の関係で新婚時代を関西で過ごしたワタクシ、そしてムスコもそちらで生まれた(もっとも生まれて3か月で東京に戻ったのでその記憶はないと思うが)

詳細省くが、あちらから東京に戻ることになり、なぜかこの神社を訪ねたのである。
生後三か月のムスコを連れて、しかも夕方。
確か4時頃だったと思う。
オットが運転する車を駐車場に停めて、ムスコを抱いて桟橋?のような所を渡ったのを覚えている。
冬の日の短さゆえ、あたりはもう薄暗く、こんな時間に参拝する物好きは他にいなくて私たちだけであった。

その頃から(今ほどではなかったと思うが)この神社には奉納された人形がそこかしこに置いてあって十分気味の悪い雰囲気を醸し出していたが、お礼参りゆえ、この時を逃したらなかなか行けないと思って、家族で参った。
他に誰もいなかった。

そして、また桟橋?のようなところを渡り、ふと振り返ったら、神社の拝殿の脇(人形が並べられているその中に)佇んでいる女性の姿を見つけたのである。

ひ~~~~~っ

今でも覚えている。あのなんだか人間じゃない雰囲気のあの女性を

オットも私がびっくらこいたのを見て振り返ってそうとう驚いたらしく
二人で同時に駈け出して駐車場の車に駆け込んだ。

怖いとしか思えず、それを口に出すのもはばかられて、なぜか無言で和歌山市内まで戻ったのを覚えている。

あれはいったいなんだったのだろう?


で、冒頭の話題に戻りますが・・・



そりゃーああいうUSJみたいな施設は人が入って儲かれば ある程度なんだってやろうってのはわかる。
違和感を覚えるのはああいった趣旨で使われることを想定していたであろうに貸し出した神社側。

神社に供養として送った人たちの中には、その人形を愛おしんだり、それを愛した人の思い出もあるだろうに。
手元に置きたくても置けなくて送ったひともあるだろうに・・・

こういう形で使われて嫌な人もいるんじゃないでしょうかね?

その上神社も供養代って形でお金も受け取っているだろうに、USJからもそれなりに貸出料も入るだろうから二重取りじゃないかいな?


こういうの見ちゃうと、宗教法人への税金面での優遇ってどんなもんかなって思うのよね。
あの辺からしっかり税金でもとれば消費税なんて上げなくてもいいんじゃないかと思うんですけどね。

話がそれた。
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花火の日に

2016-08-13 21:35:04 | 記憶の箱
ベトナムリアルタイム日記、途中で挫折

とても楽しい&おいしいで、日記放置してしまった。
そのうち気が向いたらアップします。

帰ってきたら帰ってきたで、色々留守中にたまった用事を片付け、大きなスーツケースからホーチミンで着たものを洗濯し、それをまた小さいスーツケースに詰め替え実家へ。

今日は息子一家と待ち合わせて実家に行き、花火見物の予定であった。



かくごしていたが、高速はめちゃ混み
これだけの人たちが、故郷に帰るために大移動するのは、もしかしたら世界共通かもしれない。

ホーチミンからメコン川までのツアーで行ったけど、そのバスのガイドさんから聞いた話

メコン川がもたらす恵みの土壌と、気候により、ベトナム南部はお米が三毛作できるらしい。
しかし、一キロ50円くらいでしか売れないので、農民の生活は豊でなく、若者たちは都会に働きに行ってしまうらしい。

そして週末、故郷に帰っていく。
バイクに故郷への土産をもって、母の食事と家族の団らんを求めて

小さい中古の日本製バイクに何人も乗って。
信じられないような大荷物を背負い、一日かけて、故郷を目指す。

途中、眠くなったらハンモック喫茶で休んで

その光景を想像すると胸があつくなる



息子一家と見た故郷の花火



ちょうど同じような場所で、同じように見た、幼い息子と若かったオットと私。

鮭が生まれた場所に戻ってくるように、人も自然に思い出の場所をたどるのだろうか
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母校の変身

2016-05-06 02:26:53 | 記憶の箱
両親のことで殆ど費やした今年のGWだったけど、そこは私のこと、合間を縫っておいしいものを食べたり友達と会ったりしましたよ。

その中の一つ。
私の出身高の某音楽関係の部活による公演を見に行ったこと。

前回の帰省の時だったっけ? 市の広報に載っていたこのクラブのプレ公演が我が家の近くのホールで行われるという、その整理券を配っていたので興味を持った。
最近のわが母校のその部の活躍は耳に入っていたので。
そして演目は宝塚でも人気の元はブロードウェイミュージカル

lineグループでそれを揚げたら、親友Aと宝塚観劇仲間のMちゃんが、「私も行きたい」と。
そしてなぜか 兄代わりのAちゃんも
四人で鑑賞






全部で80人を超える部員がいるという。生オケでミュージカルするなんて大したものである。

オケもちゃんとしてたし、ミュージカルも初々しい中、ジェンヌにもなれそうな美貌とオーラを持った子たちも何人か観られ、「あら~やるじゃん、我が後輩」と嬉しく鑑賞できた。

鑑賞終わって みんなで地元デパートの食堂街の中のイタリアンに行ったのだけど、卒業生女子三人の一致した感想として
「あの学校も変わったねえ・・・」
「ホント 私たちの頃ってなにか一生懸命がんばったって記憶がなにもないもんね」

共通項は私たちが小中附属組、そこで受けた教育に影響を受け、その時の仲間で今でもつるんでいるが、その後男子と女子と別れて進学した高校ではなんとなくシラケて日々を過ごした感じ。
そしてそこそこの大学に進学のために上京してそのまま東京にってパターン。
なぜか、高校への母校愛に欠けているのである。(小中の仲間にはしょっちゅう会ったり同窓会には出ているけど高校の同窓会はスルー)

当時は部活も盛んではなくて、先生は日教組が多くて休講も多く、進学指導もイマイチ熱心じゃなかった。建築学科に行きたいと志望したNちゃんなんて
「じゃ、これ読んで調べたら」と蛍雪時代を渡されて終わったと笑い話がある。

小中の熱心な先生方との格差があまりにも大きいことの戸惑い、しかし校則はなきに等しく、制服も着崩し自由みたいなもんだったので、放課後といえば学校帰りに喫茶店に寄ってダラダラ過ごしたとか、他の男子校の生徒と放課後待ち合わせて勉強と称して図書館で遊んだりとか・・
当時も進学校ではあったので今よりは少なかったがT大とか国立医やK、Wに行った友達もいるが、元々の素頭が良くて、そのまま入っちゃったみたいな人たち故、そんなに必死に勉強してたイメージもなかったのである。

ところがビックリ。
今の我が母の進学実績や評判などをネットで見てみたら(今回のことで初めて見たってくらい母校に愛着がなかったw)堂々たるというかびっくりぽんな文武両道進学校になってたのね。文化部同様に体育系部活でも実績がありそうだし・・・。しかも女子だからか現役合格が多く、それでの数字ってことにビックリ。地方っていうハンディも多少あるのに。
そりゃ、悪い気はしないけどなんだか自分のいた頃のあのでれ~~っとした雰囲気はまるでないんだろうなあ。そういえば制服もちゃんと着ているw 違う学校の話を見ているみたい。



今の雰囲気のこの学校に入ったらどういうJK生活を送っていたのかしらねえ。なんて話にもなった。
「局ちゃんはこういう公演の脚本でも書いてたんじゃない?」とNちゃんが言ったけど、ん~~ そういうのも面白かったかも。なにかきっかけがあれば、人と一つのものを作り上げるってのは嫌いではないはず・・・
しかし あの三年間、あそこでもうちょっとどうにか意識的に動いて将来の事を考えていればキャリアウーマンになれた?あるいは自分の本当にやりたいことを職業にできた?
まあ同じ環境だった親友Aは世間で知られるくらい自分の得意なことを活かして活躍しているから私が怠け者だったのかもしれないけど。

多分三人三様でもう一度高校生に戻ったらと脳内で想像しつつ、予想外においしかった田舎デパートのイタリアンで昼ワインのグラスをかたむけたのであった。







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あれは何年前?

2015-09-20 22:17:42 | 記憶の箱
とっても喜ばしいこと、ラグビーのワールドカップで日本代表が優勝候補である南アフリカに勝った!

 ☆  大番狂わせだのスポーツ史最大の下剋上とか聞きようによっちゃ失礼しちゃうわ だけど 今までの結果から見れば仕方ないであろう。
まっ とにかく めでたいことだわ。

普段スポーツ観戦ってのはほとんどしないんですよね。人の試合なんてみてもどうも夢中になれない。どうもenthusiasumってところに縁のない性質、プロ野球なんて見に行ったらあの熱狂の中で一人醒めてそうな予感がするので怖くて行けない。
オリンピックとかサッカーのワールドカップなどはさすがに気になるから見るし日本が勝つと嬉しいけど。

ただね、大学ラグビー それも早慶戦だけは10年以上前から見に行っていた。
あのスタジアムの雰囲気は好きなのよね。野次とかはまずないし、観客もおとなしめ。アスコットタイなんて締めたおしゃれなじいさんが、銀髪を綺麗にセットした奥さんを連れて、段差のところでさりげなく手を貸して観覧席にサポートするような。
オットとオットの友達、多い時は20人くらいの団体で観戦するのも楽しかった。(私たちのグループが一番品がなくw 一人酔っぱらうとやじを飛ばすK卒オトコはよく前の人に注意されていたっけ)
秩父宮の周りの銀杏並木もちょうど色づく頃で美しく、試合後に青山あたりでちょっとお茶を飲んで帰るのも楽しかったのである。

そして ワタシが観戦するようになった次の年、南アフリカ戦で大活躍した五郎ちゃんのデビューの年だったのである。

このブログを書きはじめたのは2006年だけど その二年前の2004年に五郎ちゃんが早稲田でレギュラーデビューした時から彼に目をつけていた我々夫婦。探してみたらありました。秩父宮に行った時の記事が

2006年早慶戦

2007年早慶戦



1月の大学選手権は寒くて行かないから これで五郎丸くんの見納めだと思うとちょっと悲しい・・・ 来年から何を楽しみに行けばいいのだろうか?
しかし、殆どラグビー素人の私をして 四年間これだけ視線をくぎづけにした彼のオーラは忘れないと思う。
これからサントリーあたりに行くのかな?
←抜粋

2007年の記事にはこう書いてありました。

彼の一年生のころは、まだ今のように引き締まった筋肉だけの身体じゃなくて、もうちょっと柔らかそうな肉がちょっとだけ外側に層を作っていて顔もふっくらしていて五月人形の金太郎みたいでとってもかわいかったのを覚えている。でもその頃からボールをとったときの敏捷な動きは目を奪われるようで、ホントに目立っていたのである。
ちょうどドラ(ムスコ)同じ学年の彼である。だから余計気になって応援していたのかもしれない。
オットが都合が悪くてムスコと観戦した年もあったが、秩父宮を埋めるファンを見て「なんだよ 同じ学生スポーツなのに この観客の数、しかも金払ってこんなに来てくれるんだぜ いいな~」とうらやましがっていた。
彼も団体スポーツをやっていて社会人一年目には日本代表になってプラ○の世界大会に出たのだけど、多分知る人が知るだけであって、私もネットで結果しか見なかったくらいである。
まあメジャーなスポーツをやっていたらドラなんぞの実力じゃ代表にはなれなかったであろうが・・・

話は五郎ちゃんに戻るが、確か卒業してから 今の所属しているチームの企業じゃなくて九州のどこかの企業に行ったのじゃなかったですかね? しばらくメディアにも出なかったので、時折思い出してはどうしてるのかな~なんて思っていたのだけど、再度メディアにとりあげられて目にした時に、もっと鍛え上げられた肉体と雰囲気とオーラを身にまとって現れたので、オバサン感激しましたね。

宝塚にたとえて言えば、研2くらいの時に目をつけていた男役のジェンヌが、トップになってデビュー公演がこれまた傑作な作品。歌もダンスも抜群で、ああ この子を応援して良かったと思った時のよう(なんのこっちゃ)

とにかく次の試合もがんばって 史上最大の番狂わせでもなんでもいいからどうせなら優勝プリーズ!

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スムージー一杯から

2015-07-28 23:51:37 | 記憶の箱
いつもの朝ごはんの時間

一刻も長く寝ていたくて時間のないムスメのために

とりあえずスムージーだけ作っておいた

バナナとパイナップル たいていは小松菜を入れて、豆乳をベースにしてミキサーにかける

今日は小松菜を切らしていたのでやむなく豆苗を入れてみた

「今日の野菜なに? なんだか芝生食べてるみたい」とムスメ

そういえばこの青臭さは芝生の匂いに似ている



「芝生なんて食べた事ないくせに」ワタシの言葉に応えず

「これ、運動会の匂いだよ」と飲みかけのコップに鼻を突っ込んで

「あー懐かしいな。リレーが終わってグランドに座ってる時にこの匂いがした」

ワタシも中にもムスメの観戦に緑の濃い学院のグランドの草いきれが蘇ってきた

赤いハチマキをして座っていた幼い彼女の姿

今はいっぱしのレディや奥様になっている小さかったクラスメイトたち

色々価値観も違う親子だけど

こうやって共通の記憶でふと繋がりを思い出す

スムージー一杯から
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お稽古事の記憶

2015-05-16 18:09:40 | 記憶の箱
ぶどうさんがご自分のブログで子供に習わせたかった習い事について興味深い記事を書いてらした。

習い事ねえ・・・ 色々蘇る自分と子供のそれらの記憶。

ここで、子供のは後回しとして、自分が過去から現在にかけて色々やってきたことを思い出してみようと思う。

★結婚以前 幼少時から結婚するまで

ピアノ ・・・ 一番はじめに習った事。自分がやりたかったのか親が習わせたかったのか不明。ただ小さい時から音楽は好きだったので、双方一致したのだと思う。多分幼稚園の年長くらいから高校一年の夏までやった。あの頃はブームだったのか近所にピアノの先生はたくさんいたが、結婚されたりなんだりで四人ほど変わった。二番めの先生がピアノの他にソルフェージュと聴音も教えてくれたので、後の音楽のテストなんぞにとても役にたった。
子育て中はストレス解消のためと子供たちにも習わせていたので弾いてたけど、いつのまにか弾かなくなっちゃったので四年ほどまえにピアノは売ってしまった。 

お絵描き ・・・ 幼稚園の時にコンクールで賞をとったのがきっかけで親がほのかな期待をして習わせたものだと記憶あり。やっぱり近所の先生。ところが日本画専門のじいちゃんで、教えてくれるのは写生のみ。それもアジの干物なんかを描かされてつまらないし、嫌になってやめさせてもらった。これは弊害しか残らず、絵を画くのを嫌いになっただけでなく、自分の想像の世界を描けなるという後遺症が残った。結婚後にトールペイントに出会うまで自分は画くことが嫌いと思い込んでいた。

習字 ・・・ これも近所のおじいちゃん先生の所。同じ学校に通う子たち数人が行っていたので炭を摺りながらおしゃべりしたり半分遊びだった。小学校中学年から卒業するくらいまで通った。筆の運び方や形の取り方なんかは身に着いたから、字にコンプレックスは感じたことはない。だけどどうせやるなら草書くらいまでできないと習った意味がなかったかなと思う。

スキー ・・・ 小学校の頃から親に連れてってもらっていたけど、なぜか中一の冬から、合宿のスキー学校に入れられた。なんのツテだか知らないが、東京の私立の小学校の子たちも来るスキー学校だった。今思うと教え方が抜群に上手だったので親からテキトウに習ってた頃と比べ物にならないくらい短期間で上達したけど、濡れたままのスキーウエアを次の日着なくちゃならなかったこととか悪条件が重なって嫌になったのと、東京セレブ組の中にすごい意地悪な女の子がいて(元捕手で某球団の監督だった人の娘)そいつとソリが合わずに三年目からはやめた。でもこの合宿のおかげでスキーは好きになって色々良い思いができたことは、無理やり押し込んでくれた親に感謝している。

箏 ・・・ 高校一年から そろそろピアノに限界を感じ(手も小さすぎた)た事と、中学校の謝恩会の時に同級生の母親の一人が箏を弾き、それに合わせて一人が日本舞踊を踊ったのを見て、その音色に惹かれた。 その時に箏を弾いた先生の所に入門し、それを機会にピアノは打ち止めにした。結局受験中も続け、大学にも箏曲部があったのでそこに入部して続けた。助教というヒトに教えられる資格までとり、その資格に必要だったからお三味線も中伝って資格まで取った。
発表会に出るのに何枚か着物をあつらえてもらったり最初は母のを使っていた箏も自分のものを買ってもらったし、資格をとるたびに数十万とお免状料も親に払ってもらいお稽古事の中ではもっとも親に金銭的負担をかけたと思う。こんなにしてもらったのに悪いが、実は今、その箏はベッドの向こう側の壁に立て掛けてほこりを積もらせて早幾年である。
ただ、和物のお稽古(邦楽とかお茶とかお花とか)は、上下関係とか目上の人に気を遣うとか色んな会の時に自分の仕事を見つけて色々立ち働くなんてのが身に着くもんだと思う。のほほんとそういう事をまるでしないで高校生になっていたワタシは、何もできないデクノボーの我が身を自覚させられて落ち込んだものである。だからムスメにも和物のお稽古は経験させたいのですけどねえ・・・

お茶 ・・・ 大学三年の頃から。親友Aとなぜか習いたいね と話がまとまって二人で色々先生を見つけて歩いた。今のようにネットもないし、なんで見つけたんだったっけかな? 学芸大学から徒歩20分くらいのとっても通いにくい所だったが、落ち着いたお屋敷街(近くに青○美×の邸宅もあった)の中にこぢんまりした和風の平屋建て。風情のある庭もあり、先生は「THE お茶のせんせい」 って感じでいつも着物を召していて落ち着いた品のある女性だった。ここは卒業してからも二年くらい通ったが、やっぱり遠すぎて断念。奥深い世界だからほんの入り口をかじっただけだけど経験しておいて良かった習い事の一つ。

お料理 ・・・ 就職してからと結婚してから。GWに一緒に飲んだオット同士も友達の友人からの紹介。当時彼女は外○省の関係団体に勤めていてそこの御用達みたいな先生だった。他の生徒も東京銀行(当時)とかJALのCAとか(当時)華やかな若い子たちが多く通っていて色々刺激もあって楽しかった。先生は青○学院卒でフランスにも留学していた女性。六人一組くらいでフランス料理と中華のコースをみんなで作ってフレンチの時は先生の焼いたパンとワインを加えて試食、中華も紹興酒をお飲みながらと、話も弾んだ。母は料理は上手だが、教え上手じゃなくてさっさと自分でやっちゃうタイプだったので、殆ど料理の経験なかったワタシが一から色々習えた良い教室であった。今でもこの時のレシピは役にたっている。


ここまでは独身時代のこと。思い返すと、色々やらせてもらった両親(特に母)には感謝しているけど、めんどくさい姑(ワタシのおばあちゃん)と同居していて自分の時間がなかったのと交通不便な地方都市で運転免許も持っていなかった彼女は、お稽古事の先生の選択肢は「近所」から選ばなければならなかったんだと思う。
当時附属小中にバスで通っていたワタシと弟だったので、そこの教育ママたちの情報を駆使すれば、もっと良い(というか子供に合った)ところもあったと思うが、それを果たせない事情もあったのであろう。
思い返すと あの絵の先生の所は失敗だったなあ。あんなに自由に描くのが好きだった自分が、あの教室に通って以来、小学校の図画工作の時間に白い画用紙を前に茫然としてしまった記憶が切ない。やっぱり師の選択ってのは重要とも思った。

まあ それも経験だけど。

                 続きます(多分)
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ひな祭り

2015-03-03 22:29:40 | 記憶の箱
今日は仕事の予定が急に変更になったとムスメが早く帰って夕飯を食べると言う。
オットは食べない予定だったので冷蔵庫の寄せ集め一人飯のつもりが、せめて御節句だし、チラシ寿司でも作ろうってことにした。

寿司は冷蔵庫の野菜とホタテ缶で。
ムスメにハマグリと菜の花だけ買ってくるように頼んだ。




実家の母のチラシ寿司は 根菜類をと干しシイタケをホタテ缶の汁も一緒に煮込み酢飯に合わせる。それに気分で魚介類 いくら 穴子を載せて、錦糸卵と海苔を散らす。
昔から この「五目ずし」が好きだった。



デザートはイチゴ大福。

まったりムスメと過ごしていた食後の時間に実家から電話

「ねえ、あなたのお雛様 ○○さんが紹介してくれたホニャララホームにあげたいんだけど、いい?」と母。

唐突すぎてまるでわからない話の流れ・・・

「あそこはちゃんとしたお雛様がないんだって。○○さんのご主人が今、理事をしてるから家もお雛様を飾らなくなったのよね なんて話をしたら譲って欲しいって」

ホニャララホームも○○さんも知らないけど、要するに児童養護施設にワタシのお雛様を寄付したいんだけどいいか?という話らしい。
母もせっかちは変わらないが、ここのところ人に説明するのに順序だてて話を持っていくのがとてもヘタになった。

「ホニャララホームってどこにあるの?」

「キリスト教の信者さんがやってる昔からの施設よ。小暮美千代が慰問に来たんだよ。あれ、あんた知らないの?」

知らないって 小暮美千代?女優さんだったがどんな人?とwikiで調べたが1990年に亡くなっていらっしゃる。代表作が愛染かつらと青い山脈・・・
いくらワタシも昭和の女としても知らないよ・・・ さすがに。

まあ とにかくその施設にワタシの七段飾りのお雛様を寄付したいとのこと。

ただ寄附すると言ってももう10年以上出していないので蔵の奥の方に押し込まれている状態、そこから出して運んでくれる男手も必要なんじゃないの?

「私もね、差し上げるのはかまわないけど、運ぶのは年より所帯だから無理ですって言ったのよ。そうしたらそこはお金はないけど人手はあるんだって」とのこと。

「それとね、やっぱりあんたのピアノがあるじゃない? どうせならあれも持ってってもらおうかなと思うのよ。弾かないピアノがあるっていったら、それもいただけるならいただきたいんだって」

「もう何年も調律してないピアノでしょ。あれでもいいの?」

「うん。とにかく様子みさせてもらって持っていきますって言うの。あれも寄附しちゃっていい?」

正直 心の底がチクっと痛んだ。

自分のアルバム、初めての子供だったのでたくさん撮ったのだろう写真の中に大きく引き伸ばしてある初めてのカラー写真はこのお雛様の前で、亡くなった祖父母に抱かれて撮ったものだったから・・・

初孫でとてもとても可愛がってもらった記憶しかない祖父母が嬉しそうに私を抱いている写真。
あの写真の風景の一部が無くなってしまう。

お雛様は惜しくないが、思い出の背景は惜しい・・・

しかし、置いておいてもこの先出して飾ることはまずないし、ムスメのは親王飾りがあるし、この先女の子の孫ができたとしたらその時はその時で考えればいいし、もう一つアンティークの親王飾りがあるのでそれを上げてもいいとおもう。

そうするとこの先茶箱の中の中で日の目をみないで過ごすよりも施設の子供たちに愛でられて毎年飾ってもらえるほうが、お雛様としても幸せな第二の人生となると思う。

「いいよ。もらってくれたらありがたいじゃない。ピアノも引き取ってもらっちゃいなよ。」

わざと何でもなさそうに母に言ってみた。
思い出は心の中に置いておけばいい。



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夜の蝉

2011-08-04 22:44:55 | 記憶の箱
オットは土曜日も終日仕事の代わりに 木曜の午後と金曜の午前中は休みをとるようにしている。
とは言うもののきっちり半日ずつはとれなくてふと気づくと3時くらいまで仕事をしてしまっているなんてこともありがちみたいだけど、いつもよりは早く帰ってくるのである。

週の半ばをちょっと超えて身体の疲れもたまってきた頃にちょっと空く時間にほっとするようだ。

今日は私が帰るより早く帰ってきていたのであわてて夕飯を作り 夕食後ゆっくりしてから9時頃に一緒に犬の散歩にでかけた。

近くには私立高校のグランドがあり、ちょっと低めのコンクリートの塀で囲まれている。
その塀の上にオットが蝉の幼虫を見つけた。

 わかりにくいですね。

今年は7月の半ばを過ぎてもなかなか蝉の声が聞かれず、どうしたのかな?と思っていたが、8月になってつい最近鳴き声を聞いた。
ウルサイと感じるくらいの夏もあるけど、なければないとなると、いよいよ東京の夏は蝉も住まなくなったのかと不安になることもあるもんだ。

この蝉も長い間地面の下で過ごして、健気に這い出して来たのだろうけど、この長い塀を伝ってちょうど良い木にたどりついて羽化できるのだろうか?
連れて帰って庭の木にでも放してやろうかとも思ったけど、無理な力がかかって死んじゃっても嫌だから放っておいたけど・・・


小学校時代 あの頃の夏休みってたんと宿題が出たもんだけど、お決まりは理科の自由研究ってのがあった。

それが結構大変で浮草の観察って郊外の田んぼに浮草を取りに行ったり、ぼうふらを取ってきて蚊になるのを待ったり、パンにカビを生やしてみたり 色々したもんだった。

ある夏 3年か4年くらいの時だったが、祖父が庭で今日見たような蝉の幼虫を拾ってきたことがあった。
茶の間の下で家族が集まってそれを羽化するのを見届けた夏の夜を思い出した。
結構教育ママだった母が 「ちょうどいいから観察してノートに書きなさいよ、自由研究になるわよ」と提案し(母もカビの生えたパンを部屋のあちこちにおかれるよりは良いと考えたのであろう)私と弟は蝉の変化を観察しながら、それをノートに写生したのであった。
今の子ならデジカメか携帯でとってすぐさまプリントして貼ればいいのだろうが、ムカシの小学生と言うのは今思うと何をやるにも手間暇がかかったものでありますね。

羽化するまで何時間かかったののだろうか?祖父母は寝てしまい、弟と私たちに付き合う母と三人で眠さをこらえながら変化があるたびにスケッチした。庭に開け放した縁側から入ってくる夜の風の涼しさと蚊取り線香の匂いが今でもよみがえる。

茶色の背中が割れてそこから透き通った羽がのぞき、たたまれていたそれがだんだんと伸びて今思うと初々しい蝉がその中から現れた瞬間。
子供なりに感激した瞬間だった。
夏の記憶っていうのはなぜか懐かしくてまぶたの奥を熱くさせる。






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カンニングの思ひ出

2011-03-02 22:44:28 | 記憶の箱
京大入試の際に携帯電話とyahoo知恵袋を使ったカンニング事件。
まだ全容はわからないながら、知恵袋に投稿した携帯所有者が特定されたらしいとニュースでやっていた。

センターである程度の成績をとって(それもカンニングだったのか?w)京大を志望校にするくらいだからバカじゃないだろうし、何度も繰り返してリハーサルみたいなこともしてるらしいから、ある程度の計画性もあるんだろうけど、なんかツメが甘い気がする。
自分の(親がかりの)携帯で投稿するとか 答えを求める先が誰でも見られる掲示板形式のサイトだとか・・・

ここまで世間を騒がせて、当人も周りも(親や学校関係者も)今頃針のむしろであろう。

しかし、試験中にあれこれ携帯その他を操作したりするのは容易じゃないだろうし、時間もロスしそうだし、こんな苦労してあげくの果てにバレてこの先の自分の未来がどうなるかわからないような局面に立たされるのだから、こんなことしないで試験の問題に集中したほうがよほど健全だし結果も得られそうなんじゃないかしらと思うんだけど(前にも書いたようにバカじゃないんだからさ)

とはいえ カンニングって行為は「学生」「試験」にはある程度付き物ではないだろうか?

カンニングって意識がなくても 試験中に前の座席や隣の座席の人の答案が見えてしまって それが成績の良い人で自分と答えが合ってた場合 「あ~良かった」と思うくらいのことは誰にでも経験があると思う。

もう時効だから私がかかわったカンニングを懺悔してしまおうと思う。

大学時代のこと・・・ このブログにも何回か書いている ワタシの兄代わりのAちゃん(敢えて書いた記事にはリンクしないが) ワタシの高校時代の親友R子と一緒に当時私の住んでいた同じ沿線のアパートの一室に住んでいた。
一浪して偏差値の高い文系の私大に行っていたが、R子は現役でもっと偏差値の高い三田の私大に行っていた。
Aは素頭はいいのだが、努力が大嫌いで遊び人で授業も出なかったもんだから一年の第二外国語の単位を落として二年に持ち越していた。
だから二年の時に一年の外国語の試験を受けなくてはならず、それもまったく勉強していないので前期試験も落として夏休みに入る直前に再試験になった。
それなのにまったく勉強する気がなく、しかしここで単位をとらないと留年の危機ということもあったらしく、同じドイツ語をとっている私とR子が招集されたのであった。

もうドイツ語が始まって何か月もたっているのに教科書も開いたあともないし、一番初めに習うはずの冠詞の変化も知らなかったAであった。
私は単位を落とさない程度の勉強であったがともかくその何か月かで基礎的なことは理解していたし、英語もすんごくできてドイツ語もその時点でかなり吸収していたRはその兄のテイタラクに呆れつつ 「Aちゃん まずこの基本的なことだけ覚えなよ。あとは英語と同じだからさ~ あとは辞書の引き方くらいは知らないと話になんないよ~」と教えようとしたし、私も基礎の参考書を示しつつ 「ここだけ理解して あとは範囲の日本語訳でも覚えりゃいいんじゃないの?」などと協力の姿勢を見せたのだったと思う。
最初の1時間くらいは神妙に勉強していたAちゃんだが、過去問をみたら結構文法的な問題も出ていてヤバいと思ったらしく

「こんなの明日までに覚えられるわけねえ。こりゃアンチョコ作って持ち込むしかないな」と言い出したのである。

「え~っ そんなの無理だよ」

「バレたらもっとヤバいよ」と私たちは止めたのだが Aは気にせず、薄い紙を長く切って、そこに定冠詞の変化とか不規則動詞なんかを細かい字で書くことを私たちに命じたのであった。

「お前たちだけにはさせねえよ 俺も書くからよ」となぜか威張ったA (あたりまえだ、あんたの試験だ)

Aはその薄い紙でつくったカンニングペーパーを巻物状に丸めて小さくナンバーをつけて そのナンバーと内容だけ覚えれば後はバッチリと言って次の日意気揚々と登校したのであった。

カンニングペーパー作りにほぼ徹夜で付き合わされた私とR子は

「あれだけの情熱があれば、まともに勉強すりゃいいのにね~」

「ホントバカだよ、私の兄ながら情けない・・・」と言いながらAを送り出したのであった。

結局その後Aはドイツ語の必修単位取得を4年次まで持越し、口がうまいので就職は一流企業に決まったあとに,そのドイツ語のために卒業が危うくなり、ドイツ語の主任の先生に必死で頼み込んでやっと卒業できたと聞いた。
やはりカンニングしてもロクなことにはならないのである。


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NZ地震

2011-02-22 22:07:04 | 記憶の箱
NZの大地震。

ニュースで見てびっくりしてしまった。
去年の夏に行ったクライストチャーチ、その懐かしい街並みが大変な被害にあっていたから。

ムスメと7時のNHKニュースを見ながら

「えっ この大聖堂の上まで上ったのに~」
「この通り 毎日 何度も通ったのよ」
「ちょうどこの辺だよ ワタシの泊まった所~~」

とても親切でおおらかで素敵な人たちが多かったNZの被害を見ながら心配していたのだった。

去年の旅日記はこちら。

 ☆   ☆   ☆ 

まさに私たちが泊まったプチホテル、ウロウロしていた街の中、おいしかったレストランなどの近くが崩れ落ちている様子である。
そんな時に NZ旅行で同行した カオル女史から電話がかかってきた。

「見た? NZの地震のニュース」
彼女の家でもNHKを見ているらしく彼女の声の向こうから我が家と同じ音声が聞こえてくる。

「ショックだわ~ この辺毎日歩いたよね~」「あのホテルのおじさんたちも みんな無事だといいね」なんて会話を交わしたあと、カオル女史

「あのね~ ワタシが行った国ってその後結構コトが起こってるのよ」と言い出した。

「インドでテロでしょ、ロシアも自爆テロがあったし、タイも帰ってきたらすぐ暴動起こったしさ」

「ひえ~~ ホントだ~~」

って言うか 色々行きすぎ、カオル女史。

その時彼女は言ってなかったが今ワタシはもう一つ思い出した。転覆したスイスの登山鉄道にもそのちょっと前に乗っていたはず・・・

ひえ~~~

それはともかく ニュージーランド。
彼の国の人たち、暮らしていたり旅行の途中だったりの日本人のみなさんも無事でありますように。

そしてあの美しい街並みが復興されることを祈りたい。 





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らくご そして 伊能忠敬の思い出

2011-02-03 20:52:44 | 記憶の箱
  昨日の記事 ★ の続きです。

志の輔さんの「落語」に関して続けると、その時間軸と空間、現実とフィクションの間を行きかって話が進む。それでも彼の表現力で観客は混乱することがない。
その上、大河ドラマプロジェクトを進める主任とその部下。多分50代くらいの千葉県庁あたりの公務員のおじさんと30代くらいの部下が ご当地を盛り上げるプロジェクトとして分室をまかされ、伊能忠敬をNHK大河ドラマに取り上げてもらおうということで色々やっているわけだけど、その人の良さそうでのんびりとした空気がなんとも言えない面白みとして表現される。一方では歴史上の出来事のクライマックスとしては完成された伊能図が将軍家斉の前で広げられる所は 江戸城の大広間に伊能図が広げられ、その迫力に人々が息をのむ様子まで私たち観客が容易に想像される話だった。

笑える所は思い切り笑え そして感動してしみじみできる。

才能ある噺家さんって スゴイものなんですね~。と、つくづく・・・


ところで伊能忠敬。日本史上の偉人として小学生でも知っている人物だと思うけど、彼が自分で測量した結果が地図になるのを見届けていないという事実ってあまり知られてはいないんじゃないかと思われる。
この話の中でも出てくるのだけど、地図が完成して幕府に献上されたのは忠孝の死から2年後なんです。しかもその間、忠孝の周りの人々(高橋景保以下チーム伊能の面々)によってその死は隠されていた。志の輔さんの話の中では それが忠孝の残した測量という地道な仕事に対するチームからの敬意として最後まで(地図の完成まで)忠孝の仕事として完成させたかったのではないかとなっていたが、その通りだと信じたい。
ただ忠孝の 「ただ地球の大きさを知りたい」(子午線の長さを知って地球の外周を知りたい)ってことは彼の生前にもわかっていたのだと思う、それは良かったなと思う。

そしてね、この話を聞いている間も懐かしさがこみ上げてきたのだけど 伊能忠敬って我が家にとってはとりわけ親しみ深い歴史上の人物なのですよ。

ムスメが小学校の時・・・ ホント今思うととてもめんどくさい小学校でね、「卒論」があったわけです。6年生になると自分でテーマを決めて色々調べたり作ったりしてまとめる。テーマによって相談する先生も決められる。教育熱心な家庭の多い環境(今思うとよくあんな面倒なことできたなと自分で自分を褒めてあげたいがその時は周りにつられてやっていたw)家族としても色々な所に連れて行ったり実験に付き合ったりしていたようだった。
そしてさらに その6年の卒論に向けての練習として5年生でプレ卒論みたいなもんがありましてね、夏休みの自由研究のちょっと重いもののような位置づけとして 社会科と理科の研究があったのだ。
それを我が家では(家のムスメの研究だったのだが、結局親までまきこまれたもんだ)「伊能忠敬」をテーマにしたのよね。

資料を読んで生涯をまとめたり、佐原にある記念館に行ったり(ちょうどお祭りもやってて面白かったが)それだけじゃつまらないので 実際に忠孝のやったやり方で近所の地図を作ってみよう(これは私が思いついてムスメが研究テーマに書いちまったおかげで後でさんざん苦労したもんだ。)などとひと夏 忠孝漬けで過ごした。
しかし これだけ熱心に色々やったのに家のムスメ、まるで歴史とか古典とかワタシのリキ入れた部分の興味が育たなかったのが今となっては不思議~。そう思うとムナシイもんだがこの先の彼女の人生でどこがで良い影響があるんだろうか?
まったく子供なんて思うようには育たないもんだ。ってここで愚痴っても仕方ないけどさ。

それからですね、偶然ドラ(ムスコ)が入った中学は 卒業生に忠孝の子孫がいらっしゃったらしい。ドラが高校になってからだったか?その縁で伊能図が学校に来て公開されるとかってイベントがあったように思う。
その頃私はもうかなり 「子供の教育熱」からは冷めていたし、ドラもろくでもないことばっかりしていたので なるべく近づかずにすむ場面では学校には近づかなかったのである(トホホ)
今思えば、行っておけばよかったな。
一方ね、去年の夏 「はやぶさ」の地球帰還ってニュースがあったでしょ? なんだか暗いニュースばかり、かつめちゃ暑くて日本中が疲弊していた夏の終わり、あのニュースは久々の明るいハナシとして歓迎されましたよね。
あのはやぶさプロジェクトに ドラの学校の卒業生が3人居たんだって。しかも天文部だか気象部だかで。らしいなぁとあとで聞いてなんとなく納得した。
地球の大きさを知りたい と言って ただひたすら同じ歩幅でとてつもない距離を黙々と歩いた男。そして何万キロ先の小惑星までたどり着いてまたそこから帰ってくる探索機を作りたい そして長いスパンで数々の困難を乗り越えてそれを成し遂げた男たち。

その二つの事柄になんだか同じ気脈を感じてしまったのよね。

ドラの学校、こうしてインスタントでないなんだか遠くて大きな理想に向かって行けよ って感じで教育してくださる理念のある学校だったな~と今になっては思う。先生たちも「勉強しろ」などとはまるで言わない方たちだった。(たまには言ってくれよ~とも思ったけどね)

今思うとこういうセンスは伊能忠敬センスだね。茫洋としてガツガツしてない。ちょっとオタクテイストもあったが個人が好きなことをやってそれを伸ばしてくれようとする、今思うと良い学校だった。

だいぶ話がそれたが終了します。


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残暑の赤っ恥

2010-09-07 22:01:57 | 記憶の箱
この夏は 「マキシ」なぞと我々年代には懐かしい響きを感じるファッションが若いオナゴの間に流行っているようであった。

ちょっとリゾートっぽいニュアンスを持つワンピースや 何段も切り替えがあるティアードスカートなどワカモノの街でよく見かけるファッションである。
これって アラフィのみなさま。 我々の大学時代あたりに流行ったもんじゃありませんか? 流行は繰り返すってホントだね。

思い出しついでに掘り起こすと ワタシの大学時代はJJという読者モデルのハシリになった雑誌が台頭して 既存のanan とかnonnoといったファッション雑誌と拮抗してきた時代であった。 
ワタシの居た大学でも 地方の進学校からきたマジメなジョシはnonno系。 東横線 横須賀線などから北進してくる 垢抜けた横浜や田園FとかFとかのミッション系ジョシは ハマトラという特異なファッション そのほかちょっと遊び人テイストの入った神奈川県立共学高のジョシは サーファー という分野をそれぞれ確立して混在しつつ共存をはかっていた感がある。

ワタシはどうしていたかと言えば、テストの時は地方進学校マジメ女子のノートにすがり、サーファー女子と飲みに行ったり、横浜元町をミッション系女子に案内してもらったりと 割りに色々バラエティに富んだ友人関係を楽しんでいたような気がする。
したがって 当時のアルバムを見ると 聖子ちゃんカットにフクゾーのポロシャツを着て紺色ハイソックスを履いた姿や すそ広がりのパンツに花のついたイアリングをつけた写真もあって 結構笑えるもんであります。

そして今年の夏 巷で見られたのは当時の nonno系女子が好んでいたファッション(当時は今年バージョンほど露出はすすんではいなかったが)に似ている。
懐かしくなって私も一枚だけくるぶしのちょっと上くらいの長い丈のティアードスカートをこの夏購入したのであります。



今日は仕事のあと原宿に出てちょっと用をすませてウチに帰って来た。
すぐに着替えればよかったのだが この暑さにソファにへたりこみ冷蔵庫のお茶を飲んだついでに そうだお米だけといじゃおうなどと思い立ち そうなると犬のおしっこシートの取替えやら色々用事も思いつき 帰って来た格好のまま 色々動き回っていた。(途中宅急便の再配達も来た)

ところでまた ジョシのみなさま。

ゴムとびって遊びをしたことがありますでしょうか? なんのことはない 輪ゴムをなが~く繋げて一本のひも状にしてそれを飛び越す遊びである。なぜか興じるのはジョシであった。
輪ゴムのひもさえあればそんなに場所も使わず 人数も4,5人から10人以上でも遊べるし、めんどうなルールも少ないが案外チャレンジ心も刺激されて、放課後の小学校の校庭、公園の片隅などで遊んだものであった。

で 唐突になにを?とここまで読まれた方は思うかもしれない、それとももう題名を見て 「あ~ それか」と思った勘の良い方もおられるかもしれない・・・

何を言いたいかと言えばですね。 ゴム飛び時のお約束というのは 少しでも高く飛ぶためにスカートのすそはパンツ(ってスラックスじゃなくショーツね)の裾に挟みこむってものであります。
やったよね? ワタシの実家地方だけじゃないよね?

そう、ワタクシそれを無意識のうちにやっていたのである。 暑いんだもん。久々に履いたロングスカートって家事の邪魔以外のなにものでもないのである。

そして 玄関のチャイムが鳴った。犬友でもある前の家のおしゃれな奥様であった。
「局さん カボスをいただいたからおすそわけよ~」 あら今日は秋刀魚を焼こうと思っていた なんとタイムリー。
ワタシも宅配便で届いたばかりの梨を袋に入れつつ玄関を開けた。
笑い転げる前の家の奥様。
「や~だ~ 局さんったらそのスカート」
気がつけばワタシはゴム縄飛びファッションのままに玄関のドアを開けていたのであった。

まあ近所の奥様はワタシのボケは常日頃からわかっているので今更仕方がない。ただその前に応対した飛脚のお兄ちゃんの時はどうだったのであろうか? 帰宅後すぐだったからまだゴム縄にはなっていなかったのかもしれないけど・・・

この残暑 みなさまも気をつけましょう(こんなことするのはワタシだけか)



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ムスコのお中元とゴキブリ退治から過去を振り返る

2010-07-21 00:55:24 | 記憶の箱
連休中日・オットが龍馬伝を見ているかたわら夕食の後片付けをしていたら玄関のチャイムがなった。

宅急便。それもクール便。
季節柄お中元だね。




差出人を見てびっくり ドラ(ムスコ)からではないか。

ブルーシールアイスクリームの詰め合わせ36個分。

「どうしてあいつがウチに送ってくるんだろう?」とワタシ

「これから誰かに配るんじゃないか?」とオット

ドラの携帯電話はずっと留守電(あとで聞いたら故障中だったらしい)

どうしたらいいのか悩む夫婦二人。素直にドラがウチで送ってきたと信じられない夫婦二人・・

このままじゃ溶ける。しかしアイス36個分のスペースを冷凍庫に空けるのは至難のわざである。

色々整理したり肉や魚を冷蔵庫におろして次の日なるべく使う算段をしたり・・・

「どうせなら一つずつ食っちゃおうぜ」とオット。

頭の中を???が占めながらもブルーシールアイスクリームは結構おいしかった。この日はドラと連絡とれず。


そして月曜日・・・
オットはある法律改正に伴う説明会に都心の会場まででかけていった。出張から帰って来たばかりの休日なのにご苦労なことである。
ムスメも出かけて一人になったのでのでジムにでも行こうと出かけて帰ってきたらうちのドアのカギが開いていてドラとM子が居間でくつろいでいる。

「あっ すみません お留守中に勝手にお邪魔して」とM子

ドラに

「どうしたの?あのアイス?」って聞いたら仕事関係の付き合いで買ったらしい。寮の自分の部屋には冷蔵庫がないのでお中元代わりにウチに送ることを思いついたらしい。

「そうならそうとあらかじめ言いなさいよ」と言ったら
「サプライズだよ。気が効くムスコだろ」と得意そうなドラ。

確かに36個ってのはサプライズだね。それなら遠慮なくいただきましょう。

改めて三人でアイスクリームを食べて一緒にWii fitで戦った(何してるんだ ワタシ)

そして

「オレたちこれから用事ないんだけどさ、おかん 今日の夕飯は何を作るの?」 何作るのってオットはセミナー後懇談会で外飯だしひとりだから昨日の残り物くらいで済ませようと思っていたんだけどね。

「オカンの手料理食べたいな~ なっ M子!」M子困ったように笑っている。
わかったよ 作りますよ

幸い作りおきのラタトューユがあったのでそれをベースに冷凍牛肉を炒めたのを混ぜ合わせ、更に冷凍ご飯をタマネギのミジン切りとバターとあわせて乾燥イタリアンパセリと混ぜ合わせたバターライスの上にぶっかけ 溶けるチーズを載せてオーブンにかけてライスグラタンにする。
ちょうどよくいただきものの志摩観光ホテルのアワビのスープの缶詰があったのでもったいないがそれを放出。

カリフラワーがあったので茹でてバルサミコとオリーブ油で和えて生ハムと混ぜ合わせる。
トマトは角切りにして NZで買ってきたチーズの角切りと昨日冷凍庫を空けるために冷蔵庫におろしておいたイカを茹でてガーリックオイルで下味をつけたのと混ぜ合わせたらちょうどいいお味。

ここまで30分の早業(荒業) M子よ、これが主婦歴25年の技であるぞ。心するように(すでに姑目線)

「わ~ おいしそ~」という二人の声に (ふふふん)と得意になりながら食卓に向かう。(写真を撮ろうと思っていたが次に発生したハプニングのために忘れてしまった)

「うまっ!」「おいしい」という賞賛に (オホホホ ざっとこんなもんよ)と思っていたその時・・・

PCの壁のすぐ上に 黒いものが横切ったのを発見。 ゴキではないか・・・ それも禍々しいまでの大きいヤツと見られる。

とっさにゴキジェットプロをむんずとつかみ窓辺に突進するワタシ・・・
ゴキの横切った先の植木鉢の後ろに向かってゴキジェットを噴射。

ワタシのすばやい動きに何事かと注目していた二人、ゴキブリだと悟ったらしい。
ゴキが苦手らしい(そりゃぁ好きな女の子もいないと思うが)M子 すでに中腰で逃げる体制である。

ゴキジェットに追い出されたゴキ、床を走る すかさずもう一度噴射。
物見高い犬がこちらに来そうになるのを「OOちゃんを押さえてて!」と二人に頼み、ゴキジェット大量噴射に力尽きて足を上にもがいているゴキをキッチンタオルとビニール袋を重ねたものでわしづかみにしてゴミ箱へ・・・
ざっとこんなもんさ フン(鼻息)

石鹸で手を洗って何事もなかったように食卓につくと

「すっご~~い」と心からの尊敬って感じのまなざしと賞賛の声をM子から浴びた。そこには 「畏怖」という感情も混ざっていたと思う。ここがソンケイのしどころかい? どっちかというと料理早作りでこのソンケイのまなざしは浴びたかった・・・

ゴキブリをわし掴みにするのがそんなにたいしたものなのだろうかM子よ。

ドラが

「おかんも 20代の頃はこうじゃなかったハズだよ。M子と同じにキャーキャー言って騒いでたに決まっているよ」

なぜか フォローに聞こえるそのコメント。彼女の前でおかんがゴキブリ退治したら悪いのかい?

「これからお前もさ、ゴキブリが出たら俺に電話するよりおかんに助けを求めたほうが早いぞ」ってあんたの彼女のゴキブリまで退治に行く義理はないぞ、ドラよ。

思い返せばオットは ドラやムスメの小さい頃は殆どウチに居なかった。今も忙しいっちゃ忙しいが 当時は一週間職場に泊まりきりとか帰ってきても滞在時間5時間とか日常茶飯事であった。
両腕に幼い子を抱えてお風呂に入り、チョロチョロ動き回るドラを目で追いながら、眠くてぐずるムスメをロッキングチェアに寝かせて足で揺らしながらご飯を作ったこと。信じられないくらいの当時の薄給に加えて体育会性質で後輩にはどんとご馳走してしまうオットのおかげゆえに新聞代にことかいたので月末の集金に居留守を使い、なぜか金があるだろうって誤解してかかってくる 今と変わらぬ「マンション買いまへんか?」という悪徳不動産屋からの電話におびえ(今は鼻先であしらってるが) そりゃ~ゴキブリだって嫌だけど 自分が退治しなきゃあとは幼子だけっていう環境なら息の根を止めるまで自分で対処せざるをえない環境であった。
両親と祖父母とオトナの多い家庭で育ち、先回りして色々やってもらって育ち 大学の頃までは「おっとりした」という形容詞も似合ったワタシなのに~~!!!(と声を大にして言う)

しょうがないじゃん。おかんが強くなったのはオットのせい。父親不在であんたたちを育てたせいなんです。

今思うともっと泣き言を言えば あそこまでオットも仕事に没頭しなかったのではないかと思う。何でもっと文句言わなかったんだろう・・・
オットと同業者でももっと家族といる時間を大切にする主義の人もいたものね。(今は当たり前のような風潮ですが)

髪振り乱して殆ど一人で子育てに没頭した30代。そりゃ~それなりに楽しいこともあったけど今の目線で当時の自分を振り返ると あまりにも無知で世間知らずでどこかで空回りしていた部分もあって可哀想だったな~と思う。
それでもどうにかドラは自立して両親にお中元を贈ってくるくらいには成長してくれた。
そしてその時期があったから 今はかなり自由がきいて好きな事もできるし 家族からも文句が出ないんだけどね。(言わせないとも言ふ)

ムスコのお中元とムスコカップルとの会食から話がそれた。

ムスコのお中元を一番喜んでいるのはムスメである。寝起きに冷凍庫をあけて 「いいなぁ 朝起きるとおいしいアイスがある生活って最高!」と毎朝嬉しそうに食べている。










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移り変わるもの

2010-02-16 16:01:28 | 記憶の箱
日曜日、この日も寒かったがお昼過ぎにオットとちょっと長めの犬の散歩に出かけた。

この日は普段あまり行かない大通りを横断して今住んでいる家からみて駅の反対側まで歩いてみた。

すると今の家に住む前に5年間住んだ賃貸マンションがなくなっていた 



ムスコが1歳半くらいの時、ムスメがお腹にいる時にここに引っ越してきて、娘が小学校一年の春までここにいた。
髪を振り乱して子育てに奮闘していた時期の大半を過ごした場所・・・


私たちが都心からここに越してきた時、もう一人家族の増えることでそれまで住んでいたところが狭くなるし、ムスコは喘息と診断されて少しでも郊外に行ったほうがいいと思ったのである。住んでいたところは東京でも空気が悪いスポットに近かったし、今だったら色々なところが近くて便利♪と思うけど、その当時は子育てには向いている場所ではなかったのだった。
なんとなく引っ越したいねといって確か弟の車でふらりと覗いた不動産屋でこの物件を見つけて一目ぼれしたが、他の同じ条件よりかなり安いけど大家がうるさくて店子の職業を選ぶという高飛車な事を言われた。他にも希望者がいたが、どうやらおめがねにかなったらしくて借りられることになった。

大家はこの辺の大地主で大金持ちのおじいちゃんだった。
当時 このマンションの向かいにアパートがあって そこの掘っ立て小屋が大家さんの事務所代わりだった。
そこで家賃や駐車場代を現金払いの人から日曜日などは受け取っていたおじいちゃん。
私たちが引っ越した当時挨拶に行ったら、ちょうど集まった家賃を数えていた最中だったらしく
「ああ よろしくお願いしますね」と元はお百姓さんだったのがしのばれるごつい右手を差し出してきたのだけど 左手には分厚い一万円札を握り締めていたのがおかしくて笑いをこらえるのが大変だった。
大金持ちなのにいつも地下足袋を履いて麦藁帽子をかぶって マンションの庭の木の手入れはいつも自分でやるし、気が向くとトラックで庭木を運んできて植えるのにはお金を惜しまなかったが、建物に不具合があると業者使うよりまず自分で直すという 気前がいいんだかケチなんだかわからないおじいちゃんだった。

もうその大家は亡くなり、今はそこのムスメ婿が残された不動産を管理しているらしい。
アパートと掘っ立て小屋もこぎれいなマンションに建て替えられた。
私の住んでいたところも今はせいぜい築20年だし、鉄筋だったからもっと持つだろうけど、直し直ししているよりは綺麗なのを建てちゃって貸した方が高く貸せるのかもしれないし。他にもたくさん不動産を持ってるみたいだから資金には困らないのであろう。
まあお金持ちは思い切ったことができるもんですね。

3階と低層で一階に4所帯 あわせて12所帯の小さなところだったけど、一階には芝生の庭があってブランコを置いたりして遊ばせられるので当時は便利だった。ちょうど隣には家の子より1歳ずつ年上の兄妹がいて、そこの奥さんとも仲良しになった。
夏には交代で庭にプールを置いて水遊びさせたり、小さなサクラの木でお花見の真似事をしたり、その木にたくさん毛虫がすみついているのを発見して大騒ぎしたこともあった。

敷地は広かったので駐車場の空きスペースでウチの子供たちは自転車の練習もできた。

駅の反対側の今の家に引っ越してきて、ごくたまに前の家のそばを通ることはあったが、広さの割りには家賃も安くて駅にも近くて日当たりもいいので いつも空き室はなくて誰かが住んでいる状態だったのでこんなに早く壊されるとは思わなかった。

建築確認で後に建てられるのも共同住宅となっていて大家も同じ名前だったので、小奇麗な新築マンションが建てられるのであろう。

私は実家は生まれたままの家なので、自分の思いいれがある場所が壊されているのを目の当たりにしたというのは初めての経験である。

なんだか淋しいこと。

子供たちに壊されたマンションを写メで送ったら

「へ~ なんか淋しいね」と同じ感想が帰って来た。 
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宿題の記憶

2009-09-01 20:35:38 | 記憶の箱
今日から一般の小中学校の新学期のようですね。。
昨日まで宿題の追い込みをやっていたご家庭も多いのではないでしょうか?

ウチはもう過ぎてしまったから今思えば懐かしいだけだけど、結構大変だったな。
特に娘の小学校の夏の作品展なんてオヤゴさんの知性と努力が計られる場といったオモムキがあっておっそろしいものがあった。
世界遺産のどうたら っていう発表では実際にヨーロッパの何箇所か行ってのその歴史的背景のまとめ なんてのもあって これは財力の為せるワザと無力感に襲われたこともあったしな(まあ人様と比べてもしかたがないけど)

ウチは家族でヨーロッパなんてものはとても果たせないので 伊能忠敬を研究した。千葉の佐原の生家を訪ねたり、彼の方法で実際に自分の住んでいる周りの地図を書いて見たりとか、四千万歩の男っていう井上ひさしの本を読んだり(最後の巻まで読んだのは私だけ)結構力を入れた記憶がある(ワタシが 笑)
考えてみればあの頃は子供のことでずいぶんエネルギーを使っていたのね。
あのエネルギーを注いだ結果が踊る娘ってのが 今となってはよくわからない結果でありますが・・・

人間は成るようにしか成らないってもんですわね~

中学の夏休みの美術の宿題はいまだに部屋に飾ってある。



これはタイルを極細かく砕いてモザイクで描いたもの。
テーマは聖書からとるってことだったが なぜか娘は踊る女性の首から下の図にした。(モデルは誰だったのだっけかな? 忘れた)
他のみんながマリア様と幼子キリストとかのいかにも宗教画だったにもかかわらず。
この辺が娘らしいなと思うけど、これはリビングのテーブルを使って夜な夜な母娘でがんばりましたよ。

ほとほとイヤになったけど 今思うと懐かしい時間ですね~

さて明日からオット、娘と珍道中に行く予定です。
娘に今日は旅行の用意があるから早く帰っておいでといったのにまだ帰って来やしない 

オットもまだ職場を出ていないようす・・・
無事出発できるのか?

犬と一緒にお留守番部隊は息子(と多分M子)留守の間は寮から抜け出したウチから出勤するらしい。「ああ 通勤ラッシュがイヤだ」とこいていますが、40分くらいで通えるのに贅沢な・・(寮が近すぎるのである)
「何か土産買ってきてよ」って言うから
「うん コダマ何匹か連れてかえるよ」と言ったら
「それもいいけど腹の足しになるもんもよろしく」と言われた。




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