金印
2008年6月10日(火)作成
「金印」は中学校の歴史の教科書で習った記憶がある。しかし、何のことかさっぱり理解していなかった。
志賀島の金印公園には、次にように説明があった。
中国の古い書物である「後漢書」に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国からの使者に印綬を授けたことが書いてあります。
この印が天明4年(西暦1784年)偶然この地から出土した金印(昭和29年3月20日、国宝指定)であります。印面には、「漢委奴国王」と凹刻されており、「委」は日本人に対する古い呼び名で、「奴」は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名であります。
これからすると、中国の漢時代、福岡あたりは中国の支配権が及んでいたということだろう。
私が持っている岩波書店の「日本史年表」では、「金印」の発見は西暦57年という具体的な年数を表記してある初めての歴史上の出来事だ。
その前の項目は、「紀元前後 この頃、倭人は百余国に分かれ、一部の国は前漢の楽浪郡に朝貢(後漢地理志)」とある。(何を貢いでいたのでしょうか。)
このように、なにせ古いことだから、中国が日本を侵略していたなどと目くじらを立てるようなことではない。(日本が満州を殖民地にしていたことは、近世のことだから、日本は反省しないといけないですが。)
ともあれ、不思議なのは、志賀島でなぜ見つかったのかということだ。志賀島は、地理的に中国に近く航路の要衝であったことは伺えるが、一国の、今でいう「首都」のような所ではない。しかも一辺2.3㎝という小さなものだ。
どういう歴史的経緯があったのか、いろいろと想像をかき立てられる。
ところで、弥生時代の美人は一重まぶただったと言われている。妻を見ながら、私の妻も「当時なら」美人に見えたのか、と想像してしまった。
(写真)志賀島の金印公園の金印の印刻の拡大模型。2008年6月8日撮影しました。一眼レフカメラの電池切れのため、携帯で撮りましたが、意外とよく写っていました。
2008年6月10日(火)作成
「金印」は中学校の歴史の教科書で習った記憶がある。しかし、何のことかさっぱり理解していなかった。
志賀島の金印公園には、次にように説明があった。
中国の古い書物である「後漢書」に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国からの使者に印綬を授けたことが書いてあります。
この印が天明4年(西暦1784年)偶然この地から出土した金印(昭和29年3月20日、国宝指定)であります。印面には、「漢委奴国王」と凹刻されており、「委」は日本人に対する古い呼び名で、「奴」は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名であります。
これからすると、中国の漢時代、福岡あたりは中国の支配権が及んでいたということだろう。
私が持っている岩波書店の「日本史年表」では、「金印」の発見は西暦57年という具体的な年数を表記してある初めての歴史上の出来事だ。
その前の項目は、「紀元前後 この頃、倭人は百余国に分かれ、一部の国は前漢の楽浪郡に朝貢(後漢地理志)」とある。(何を貢いでいたのでしょうか。)
このように、なにせ古いことだから、中国が日本を侵略していたなどと目くじらを立てるようなことではない。(日本が満州を殖民地にしていたことは、近世のことだから、日本は反省しないといけないですが。)
ともあれ、不思議なのは、志賀島でなぜ見つかったのかということだ。志賀島は、地理的に中国に近く航路の要衝であったことは伺えるが、一国の、今でいう「首都」のような所ではない。しかも一辺2.3㎝という小さなものだ。
どういう歴史的経緯があったのか、いろいろと想像をかき立てられる。
ところで、弥生時代の美人は一重まぶただったと言われている。妻を見ながら、私の妻も「当時なら」美人に見えたのか、と想像してしまった。
(写真)志賀島の金印公園の金印の印刻の拡大模型。2008年6月8日撮影しました。一眼レフカメラの電池切れのため、携帯で撮りましたが、意外とよく写っていました。