臓器移植法案A案成立
2009年7月13日(月)
13日、臓器移植法案A案が参議院で可決し、既に衆議院で可決しているので、成立した。「A案」とは、年齢に関係なく、「脳死は人の死」とするものである。
「うぅ~ん」(私の呻き)
臓器移植法案については、国民の関心も高く、TVでもよく取り上げられる。「たかじんの何でも言って委員会」でも最近取り上げられた。
この番組は、かつて首相番をしていた「評論家」の三○康○氏が仕切る番組だ。(三○氏には辟易している。)
氏はA案に賛成の立場で、「とにかくやってみて、都合が悪ければまた変えればいいではないか。」と主張する。
氏の知識、情報力、記憶力には敬服するものがあるが、発言を聞いていて、私にはどうも違和感がある。
最近その原因がようやく分かった。氏の価値観は、家族もっと言えば「家制度」に基づくもので、私のように「個人」を基本とする価値観ではないのだ。
それはともかく、「都合が悪ければ変えればよいではないか。」とは、随分乱暴な意見だ。氏は「臓器提供を必要としている人がいるのだから」と言うが、「臓器提供の問題」より、「死を定義」することの方がよほどか重要である。
そもそも、「死」というものを、何かの目的(この場合は臓器提供)のために定義するというのが、私には受け入れられない。「死」とは、絶対的なものと思うからである。
いろいろと疑問も出る。「死」と密接なのは「相続」であるが、相続を受けんがために、早く脳死判定を受けたいという動機が働きはしないか?
看護疲れで、脳死判定を受けたいという動機は働きはしないか?
脳死だから医療は必要ない、という意識が醸成されはしないか?
立花隆のノンフィクション「脳死」をどうしても思い出す。立花は「脳は宇宙のような存在だ」と言うのである。人類が分かっていないことがほとんどなのだ。その脳について、人類の浅知恵で「脳死は人の死」と判定することは、私は禍根を残すことになると思う。
(2009年8月16日、追記)
私のところへ何故か、広島法律事務所の「ひろしま」という機関紙が送られてくる。次は、弁護士坂本宏一氏の「改正臓器移植法成立に想う」という一文である。
7月13日、15歳未満の子どもからの臓器提供に道を開く改正臓器移植法が成立した。(中略)
今回の改正案に対しても日弁連は、「脳死を一律に人の死とする改正及び本人の自己決定を否定し、15歳未満の子どもの脳死につき家族の同意と倫理委員会等の判断をもって臓器摘出を認める改正を行うことを到底認めることはできない。」と強く反対してきた。
・・映画「闇の子どもたち」は心臓移植しか助かる可能性のない子どもを持つ日本人が、タイに行って人身売買で生きた子どもの心臓の移植を受ける話で、ノンフィクションだ、いやフィクションだと話題になった。
どちらであるにせよ、人の命を金で買うという問題を臓器移植は常にはらんでいる。何とかわが子を生きながらえさせたいという親の気持ちはわかるが、そのために人の死期を早める脳死という考え方には、法律家として以前に、人間として強い抵抗を感じる。もはや科学万能の時代ではないと思うのだが。
私も、「科学万能」ではないと思う。
「生命」について、人類が知っていることは、僅かと思う。未知の領域、いわば神の領域、に立ち入って、「死」を決めるべきではない。
2009年7月13日(月)
13日、臓器移植法案A案が参議院で可決し、既に衆議院で可決しているので、成立した。「A案」とは、年齢に関係なく、「脳死は人の死」とするものである。
「うぅ~ん」(私の呻き)
臓器移植法案については、国民の関心も高く、TVでもよく取り上げられる。「たかじんの何でも言って委員会」でも最近取り上げられた。
この番組は、かつて首相番をしていた「評論家」の三○康○氏が仕切る番組だ。(三○氏には辟易している。)
氏はA案に賛成の立場で、「とにかくやってみて、都合が悪ければまた変えればいいではないか。」と主張する。
氏の知識、情報力、記憶力には敬服するものがあるが、発言を聞いていて、私にはどうも違和感がある。
最近その原因がようやく分かった。氏の価値観は、家族もっと言えば「家制度」に基づくもので、私のように「個人」を基本とする価値観ではないのだ。
それはともかく、「都合が悪ければ変えればよいではないか。」とは、随分乱暴な意見だ。氏は「臓器提供を必要としている人がいるのだから」と言うが、「臓器提供の問題」より、「死を定義」することの方がよほどか重要である。
そもそも、「死」というものを、何かの目的(この場合は臓器提供)のために定義するというのが、私には受け入れられない。「死」とは、絶対的なものと思うからである。
いろいろと疑問も出る。「死」と密接なのは「相続」であるが、相続を受けんがために、早く脳死判定を受けたいという動機が働きはしないか?
看護疲れで、脳死判定を受けたいという動機は働きはしないか?
脳死だから医療は必要ない、という意識が醸成されはしないか?
立花隆のノンフィクション「脳死」をどうしても思い出す。立花は「脳は宇宙のような存在だ」と言うのである。人類が分かっていないことがほとんどなのだ。その脳について、人類の浅知恵で「脳死は人の死」と判定することは、私は禍根を残すことになると思う。
(2009年8月16日、追記)
私のところへ何故か、広島法律事務所の「ひろしま」という機関紙が送られてくる。次は、弁護士坂本宏一氏の「改正臓器移植法成立に想う」という一文である。
7月13日、15歳未満の子どもからの臓器提供に道を開く改正臓器移植法が成立した。(中略)
今回の改正案に対しても日弁連は、「脳死を一律に人の死とする改正及び本人の自己決定を否定し、15歳未満の子どもの脳死につき家族の同意と倫理委員会等の判断をもって臓器摘出を認める改正を行うことを到底認めることはできない。」と強く反対してきた。
・・映画「闇の子どもたち」は心臓移植しか助かる可能性のない子どもを持つ日本人が、タイに行って人身売買で生きた子どもの心臓の移植を受ける話で、ノンフィクションだ、いやフィクションだと話題になった。
どちらであるにせよ、人の命を金で買うという問題を臓器移植は常にはらんでいる。何とかわが子を生きながらえさせたいという親の気持ちはわかるが、そのために人の死期を早める脳死という考え方には、法律家として以前に、人間として強い抵抗を感じる。もはや科学万能の時代ではないと思うのだが。
私も、「科学万能」ではないと思う。
「生命」について、人類が知っていることは、僅かと思う。未知の領域、いわば神の領域、に立ち入って、「死」を決めるべきではない。