~ 空港からバスに乗っていると道路沿いの桜並木が眼についた。
暮れかけた青紫の空を背景に淡いピンクの花が映えている。ムンバイに発ったのは三月のなかばだったから、桜はまだ咲いていなかった。
この桜をアナンとラクシュミーに見せてやりたい。
瑞希は窓の外をすぎていく桜を見ながら、ムンバイでの日々を思いかえした。
アナンとラクシュミーは前に逢ったときより、ひとまわり大きくなっていた。ふたりはいつか日本にきたいという。瑞希も必ず日本を案内すると約束した。
アナンとラクシュミーが日本へきたら、自分が楽しいと思ったことはぜんぶ体験させたい。
美しいと感じたものはぜんぶ見せたい。自分が美味しいと思ったものはぜんぶ食べさせたい。
だが、ふたりにとってそうすることが幸せなのか。
考えるたびにわからなくなる。日本を見せたいと思うのなら孤児院の全員にそうするべきで、ふたりを優遇するのはエゴではないか、自己満足ではないか。
そもそも、ふたりの喜ぶ顔を見たいというのも自分の欲望だ。
無償だから善意とは限らない。ボランティアといいながらも自分が楽しんでいるのなら、それは観光というべきだろう。院長のラニは、あなたができる範囲でやればいいといった。
しかしその範囲とは、どこまでなのかがわからない。
孤児院の子どもたちは豊かな自然と美味しいカレーと大勢の友だちに囲まれて、貧しいながらも笑顔が絶えない。ネットや携帯やゲームやコンビニやファストフードや有名ブランドがなくても、ひとはじゅうぶん幸福なのだと彼らに教わった。先進国からきたような顔で、お節介を焼くのはおこがましい。同情も憐憫も必要ない。
子どもたちに必要なのは、充実した医療とバランスのとれた食事と自立に必要な教育だ。
そうした分野ですこしでも力になりたい。閉ざされた未来を開いてやりたい。そう考えるのもエゴであったにせよ、それができれば満足だった。 (福澤徹三『死に金』文藝春秋) ~
子どもには、自分が楽しかったことは体験させたいし、美味しかったものは食べさせたいと思う。
ただ、親子の場合は、自分ができなかったことの押しつけや、代理人にしてしまう危険があることは、気をつけなければならない。
自分も、娘達がまだ言うことを聞いてもらえる時分には、演奏会や映画につれていったり、ぶんぷくのカツ丼を食べさせたりした。おいしそうに食べる様子をみて喜んでいたのは自分だった。
対部員でも同じだ。自分がいいと思った音楽を知らせてあげたいし、音楽座さんのミュージカルを全員で観に行ったのも、とにかく経験させてあげたいとの思いからだ。
子どもにとっても、部員にとっても、それは大きなお世話なのかもしれないが、受身ではあってでも経験があるのとないのとでは異なる。
もっといえば、自分の学年の生徒全員に、おすすめの本を読ませたいし、GOGOカレーを食べさせたい(個人的には最近重くなってきたけど)。
「純連」や「くるり」程度が美味しいと言ってる人に、「みかみ」の辛味噌ラーメンを食べさせたい(これは、少しちがうかな)。
逆の面から見ることもできる。うちの部員たちは、音楽座さんを観に行ったり、ダンスのレッスンを受けたりはできても、自分が顧問のままでは、全国大会を経験させてあげられない。
人に何かをしてあげるということは、何かをしてあげられないとの現実と背中あわせだ。
「無私」の思いとは、その想定をすることではないだろうか。
ボランティアでインドまででかけ、子ども達の面倒を見ながらも、自分にはなぜ何もできないのだろうと瑞希は悔しがる。
帰国後、瑞希は矢坂の死を知る。
矢坂から預かったサボテンを世話しているうちに、自分に託されたメッセージに気づく。
矢坂は亡くなったが、矢坂の思いは瑞希に伝わることになって生き続ける。
何億のお金があっても、それが自分の見栄や欲望を満たすためだけに使われるなら、しょせんは「死に金」だ。
自分の残した莫大なお金を「死に金」にしない方法を見いだした矢坂は、瑞希との出会いを心から喜びながら、旅立っていったにちがいない。