~ 「人は、実在する事象のなかに存在しているけれど、それだけで生きられるものではない。事象を解釈し、そこに願望や想像を重ねて、初めて人間として生きることができる。その願望や想像が〈物語〉よ」
〈輪〉は、そういう物語の集積だ。
「世界に対する解釈の集積」
そして、物語は人の数だけ存在する。
「その結果、〈輪〉は実在する世界よりも、宇宙よりも広大になって」
多種多様な〈領域〉を、そのなかに内包している。
「わたしたちがいるこの現実、これも〈領域〉。わたしたちがいるこの国、これも〈領域〉。〈領域〉という言葉は、そういうふうに、広い意味でも狭い意味でも使われるの。人類を単位に考えるなら、地球全体がひとつの〈領域〉。ある民族や国家を単位に考えるなら、その民族集団や国家がひとつの〈領域〉。そこには、それを構成する人々が共通して保持している物語が存在するから」
「ち、ち、ち」
「ちょっと待った?」
「そう。ユリちゃん、君、間違ってる」
「どこがどう間違ってる?」
「ある民族集団や国家を構成する人びとが共通して保持しているものは、物語なんかじゃない。それは〈歴史〉だ」
友理子は余裕の笑みを浮かべた。
「そうね。でも、歴史も物語よ」 (宮部みゆき『悲嘆の門』毎日新聞社) ~
問 「余裕の笑みを浮かべた」のはなぜか。
問 「歴史も物語よ」とあるが、どういうことを述べているのか。
問 カギ括弧「」の使い方を説明したものとして、最も適当なものを選べ。
というような問題を作れば、この作品で、評論、小説の両方の要素を測ることができる。
数年後の総合問題の練習として、来年のセンターでは、1番、2番融合問題をつくってみたらどうだろう。
われわれの日常とは異なる「物語」を構成する「領域」から、怪物はやってくる。
孝太郎は、ガラと呼ばれるその怪物に「力」をもらう。
「物語」を読み取る力だ。
その力の宿った左目は、個々人が蓄積している「物語」を見通してしまう。
発せられた言葉の痕跡から、その言葉と感情を蓄積を見ることもできる。
たとえば、孝太郎が左目をこらして、おれを見つめたなら、過去にどんなに人のためになることをしてきたか、慈悲深い行いをしてきたか、その積み重ねた陰徳がすべてばれてしまうのだ。
おれと真逆に、積み重ねた悪事やエロい経験がばればれになってしまう人もいるだろう。
そういう「力」の設定は、一見荒唐無稽のものに思える。
でも私たちも、他人の、言葉の節々に現れる微弱な感情の動きを察知することはできる。
言葉そのものが発せられなくても、喜びや怒りや悲しみ、不満・たいくつ・むかつきを感じることもある。
この商売を長くしてると、これはウソだなとひらめくこともある。
そんな力が極端に強い状態になったと考えれば、納得できる。
たとえば孝太郎が一枚の紙を手にしたとき、そこに書かれた言葉から火のような怒りや邪悪な思いを感じ取る場面があるが、そういうこともあり得るなと思ってしまう。
その力を利用し、孝太郎は犯人に近づき、思いもよらぬ事実に遭遇していく。
人間の所行のおぞましさは、空想の怪物よりもよほど恐ろしいものだった。
しかし、それはいい悪いではなく、人間の「業」であると作品は主張する。
どんなに陰惨な事件でも最後に一筋の光を見いださせるのが宮部作品だと、今までの経験から思っていた。
『悲嘆の門』はそうではなかった。むしろ闇の中にほうりこまれる。
しかし今、身の回りに実在するおどろおどろしい事件群を想起するならば、この希望のなさこそが人の世の姿かもしれないとの思いに茫然とせざるを得ない。