登校して授業のプリントをつくっていると、自主練の一年がやってくる。
学年だよりを書き終えた時点で、予想していたより全然早い時間だったので、二回目上映で見ようと思っていた「天空の蜂」を午前の回で見ようとウニクスまででかけた。
さすが日曜日で、客席にはそれなりにお客さんがいる。
原作を読んだのは十数年前、ほんとに一気読みした。今まで読んだ東野作品のなかでは、これが一番という実感は今もあるが、中身は全くといっていいほど覚えていない。
何者かに遠隔操作で乗っ取られたヘリコプターが、高速増殖炉もんじゅの上をホバリングする。
要求をきかないと墜落させるというメッセージが犯人から入る … 。
犯人の真の目的は何かという謎解きと、たまたまそのヘリに乗り込んでしまった小学生の救出作戦とが2本の柱となり、全編息をつくひまがない。
同時に、原発をめぐる日本人のさまざまな立ち位置が浮き彫りになっていく過程は、あまりにリアルで身につまされる。
リアル?
もし原作が発表されてすぐ、つまり20年前に映画化されていたら、ここまで実感をもって受け止められただろうか。
たとえば「政府にとっては人の命よりも原発が大事だ」というセリフを、まさかそこまでは … ととらえたのではないか。
現場の声に耳をかさず、「すべては東京の本店の言うとおりにすればいいんだ」と指示する様子を、実際にはそんなことないよねと見てしまうのではないか。
先の大震災を経験したわれわれは、映画の数々の場面がほんとだったことを知っている。
「格納容器は何重にも守られているので絶対大丈夫」と知らされたことがウソだったことも知っている。
思えば東野圭吾氏は、20年前によくこの作品が書けたものだ。
あの大事件を経て、そして原発については解決していない問題が山積みになっていて、それでいて今は多くの人が忘れたかのように日々の暮らしを送っていることも知っている。
「臭い物に蓋をする」私達の習性は、習性だからどうにもならないのかもしれない。
救いは、現場で働く男たちの腹のくくり方だろう。
自衛隊員、消防、警察、そして原発施設の所員たち。
ヘリから救出された少年が成長して自衛隊員となり、震災の現場で働いている姿を入れることができたのは、もちろん原作にはないはずだし、今作ったからこそ入れることができたのだ。
二十年前はトレンディな俳優さんだったおっきい兄ちゃんも、もっくんも、立派な大人となって重厚なお芝居を見せる。
いろんな意味で、二十年の時を経てはじめて映像化の機が熟し、熟成という幸せな結果を手にした作品だ。
問題提起としても、映画という「エンタメ」としても、観る価値のある、いや観るべき映画と思えた。