学年だより「箭竹(2)」
「ご生害のとき父上がいちばんお考えになったのは、あなたのことだと思います、あなたが人にす ぐれた武士になり、父のぶんまで御奉公をするようにとそれだけお望みになすったと思います。 あなたにはそう思えませんか」
「そう、思います、母上」
「自分の修行を一心になさい、そして千人にすぐれた武士になるのです、それだけがあなたのつと めなのです、母のことなど気を使ってはいけません、母には母のつとめがあるのです、あなたを 育てることと、父上のつぐないをすることです。父上の仕残した御奉公をつぐない申すのです、 それが茅野百記の妻としての一生のつとめです」
安之助は、感動しながら母の言葉を聞いていた。
芯の強い人であることは、生まれてこの方ずっと一緒にくらしていればわかる。
しかし女である母に、ここまでの覚悟が備わっているとまで思わなかった。そう思うと自分の考えの浅さを反省した。あるべき「志」に比べたなら、目先の暮らしの大変さなどはあまりにささいなことだ。
安之助は、修業を続け立派な武士になることを約束し、こう言った。
「いつかは、わたくしたちの真心がとのさまにわかって頂ける時がございますね」
みよは、この辛苦はどんな報いを期待するものではないと思いながら、なんとか安之助は世に出したいと強く思うようになる。
以来、みよは、作った箭竹の筈巻(根元のところ)に「大願」ときわめて小さく彫り込むようになった。もしかしたら、それがしゅくんのお手に触れるかもしれないと。
みよはますますいい箭をつくるようになった。この願いがかないますようにと心をこめて。
ある時、その節竹が江戸の将軍家(いえ)綱(つな)の目に留まることになる。
みよの作った箭竹はできがいいということで将軍家に献上されていたのである。
家綱が感触のよい帯の根元を調べると、きまって「大願」と小さく彫り込んであることに気づく。
家綱はどこの国から献上されたものかを調べさせた。
その箭竹を献上した三河藩の水野忠幸は、みよをつきとめると、自らその取り調べを行った。
そしてみよの申し立てを泣きながら聞いたのだった。
ほどなく安之助はめしだされて父の跡目を継ぐこととなる。
みよはそのとき、なおこう言って安之助を戒めたのである。
~ 「これで望みがかなったと思うとまちがいですよ、むしろこれから本当の御奉公がはじまるのですから、今までよりもっと心をひきしめ、ひとの十倍もお役にたつ覚悟でなければなりません。あなたは茅野百記の子です、ひとさまとはかくべつなのですからね」 (山本周五郎「箭竹」―『小説日本婦道記』新潮文庫) ~
「志」に終着点はない。