現代文の時間、「城の崎にて」に入った。
文学史上、名作と扱われ、教科書にもずっと掲載され続けている小説だ。
谷崎潤一郎が「文章読本」の中で、これぞ名文と「城の崎にて」の一節を取り上げていることも有名だ。
見つからないので、記憶でだけど、たしかこの部分。
~ ある朝のこと、自分は一匹のはちが玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。ほかのはちはいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いているはちはいかにも生きているものという感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかのはちがみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。 ~
さすが「小説の神様」と称される方の名文中の名文 … と、今は思わないなぁ。
ふつうかな、と。
たとえば三島由紀夫とかね、洋食のフルコースみたいな豪華絢爛な文章があります。
志賀直哉は、今読んでみて思ったかもしれませんが、真逆なタイプですね。
簡にして要を得ながら、人生の神髄に迫っていく文体。一見質素な料理だけど、ものすごい素材ととんでもない手間暇をかけた一品みたいな。
お皿に大根の煮たのがひときれのっている。え、これ? と思いながら一切れ口に含んでみると、出汁に用いられた様々な素材の味が渾然一体となって口に広がり、海や山の風景が眼前に開けていき「忘却のサチコ」状態になるような … 、え、しらないの? ま、そんな感じの文章とされているのです。
て、いちおう説明したけど、そこまですごいのでしょうか。
おれが書いてる文章だって、今日なんか、ある担任から「今日の文章よかったよ、ごほうびあげる」と言われお煎餅もらったくらいなんだけど。
高校のとき、志賀直哉の短編は相当数読んだ。
~ 自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、――中学で習った『ロード・クライブ』という本に、クライブがそう思うことによって激励されることが書いてあった。実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。 ~
今日、「城の崎にて」を音読しながら、志賀直哉先生て、ほとんど中二病なのではないだろうかと思った。
「 僕が死のうと思ったのは~ ウミネコが桟橋で泣いたから~ 」
とか、カラオケ行って歌ってたんじゃないかな。
ていうか、こっちの歌詞の方がよほど文学的に見える。