水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

城の崎にて

2015年10月28日 | 日々のあれこれ

 

 現代文の時間、「城の崎にて」に入った。
 文学史上、名作と扱われ、教科書にもずっと掲載され続けている小説だ。
 谷崎潤一郎が「文章読本」の中で、これぞ名文と「城の崎にて」の一節を取り上げていることも有名だ。
 見つからないので、記憶でだけど、たしかこの部分。


 ~ ある朝のこと、自分は一匹のはちが玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へ垂れ下がっていた。ほかのはちはいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはい回るが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いているはちはいかにも生きているものという感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかのはちがみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。 ~


 さすが「小説の神様」と称される方の名文中の名文 … と、今は思わないなぁ。
 ふつうかな、と。

 たとえば三島由紀夫とかね、洋食のフルコースみたいな豪華絢爛な文章があります。
 志賀直哉は、今読んでみて思ったかもしれませんが、真逆なタイプですね。
 簡にして要を得ながら、人生の神髄に迫っていく文体。一見質素な料理だけど、ものすごい素材ととんでもない手間暇をかけた一品みたいな。
 お皿に大根の煮たのがひときれのっている。え、これ? と思いながら一切れ口に含んでみると、出汁に用いられた様々な素材の味が渾然一体となって口に広がり、海や山の風景が眼前に開けていき「忘却のサチコ」状態になるような … 、え、しらないの? ま、そんな感じの文章とされているのです。

 て、いちおう説明したけど、そこまですごいのでしょうか。
 おれが書いてる文章だって、今日なんか、ある担任から「今日の文章よかったよ、ごほうびあげる」と言われお煎餅もらったくらいなんだけど。

 高校のとき、志賀直哉の短編は相当数読んだ。


 ~ 自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、――中学で習った『ロード・クライブ』という本に、クライブがそう思うことによって激励されることが書いてあった。実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。 ~


 今日、「城の崎にて」を音読しながら、志賀直哉先生て、ほとんど中二病なのではないだろうかと思った。

「 僕が死のうと思ったのは~ ウミネコが桟橋で泣いたから~ 」

 とか、カラオケ行って歌ってたんじゃないかな。
 ていうか、こっちの歌詞の方がよほど文学的に見える。

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自分を変える

2015年10月28日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「自分を変える」


 今やっている理系科目で苦労している状態で理系に進んでも、理系としての人生にはたどりつけないと述べてきた。
 では、文系ならどうか。興味のある学部・学科に進学し、そこで学んだことをいかした職業につくことができるのだろうか。
 残念ながら、そういう現実はない。限られたいくつかの職業だけは、対応する文系学部で学ぶ必要はあるが、ほとんどの職業は大学での学問との関連性はない。
 具体的に言えば、金融関係に進みたいから何学部がいいとか、マスコミ関係に強いのは何学部だろうかとかを、考える必要はまったくないということだ。
 今言えることがあるとしたら、いっぱい勉強して、少しでも難しいとされる大学に入ろうということにつきる。
 ただし、高校程度の、しかも本校で学んでいる程度の勉強さえいい加減にしかできない状態では、みなさんが漠然と考える「夢」的なものには届きにくい。
 受験勉強は大変ではあるが、大人になってから与えられる課題に比べたなら、やはり基礎中の基礎の作業だ。
 夢、志、目標、やりたいこと … 。
 それらをもつことはもちろん大事だ。
 しかし、願っているだけでは叶わない。
 目標を紙に書いて壁に貼って毎日見ていたとしても、裏付ける努力なしには何も生まれない。


 ~ 成績はなぜ上がりにくいのか? 同じことをやっても、成績に差ができるのはなぜだろうか。成績を上げようとしている君たちも、このことは一度は考えた方がよい。成績を上げるには、どうすればよいか、と。
 成績を上げることを「賢く」なることと同義だと考えてみる。「賢く」なるには、では、どうすればよいか。今までの自分とは違う何かに変容させればよい。経験、智恵、知識、コツなどを受け入れて、新しい自分に変われば、「賢く」なる。今までの自分にはなかった《他なるもの》を受け入れ、自らを変成させる。「賢い」とは、《他なるもの》の受け入れが上手であることを意味している。
 とすると、成績が上がらない人は《他なるもの》を受け入れず、自己を変えようとしない者となる。自己を変えたくない、自分は自分なりにマイペースでやりたい、自分を大切にしたい。そんな人は《他なるもの》を受け入れられず、成績を上げられない。とはいえ、誰もがどこかで自分を大切にしたいと思っている。自分は自分だ、と。 (柴田敬司『現代文 解法の新演習Ⅱ』桐原書店) ~


 人は変わらず生きる方が楽だ。人にかぎらず、慣性に従っていれば抵抗はすくない。
 逆に考えると、いやだな、つらいなと少しでも思えることは、成長の源なのだ。

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