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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

箭竹

2015年10月05日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「箭竹(やだけ:矢に用いる竹の部分、矢柄)」


 寛永18年。駿河国、三河藩の水野忠善(ただよし)の家来、茅野(かやの)百記(ももき)の妻みよは、縁側で幼子が歩くのをほほましげに見ていた。柿の若木には、実が五つ六つなっている。
 そのとき、家士の足守忠四郎が、旅支度のまま庭にかけこんでくる。

 「旦那さまが、久能山で御生害(しょうがい)〈自ら命を絶つこと〉でございます!」

 いったい何があったのか、無理に自分を落ち着かせようとするみよに、忠四郎はこう告げる。
 お役目の途中に同僚と言い争いとなり、刀を抜きあい、相手を仕留めた。周囲の者も旦那様に非はないと言っているが、役目の途中の不始末をわび、自らも切腹した … 。
 役目中の刃傷沙汰ということで、家族にも処分が下されることとなる。妻みよは、二歳の安之助をかかえたまま、食録召し上げのうえ、領内追放の処分を受けることとなった。

 しかしみよはひそかに領内にとどまった。
 主君に仕えるという夫の意志を受け継ぎ、主君の治めるこの土地で生き続けたい、そして、いつの日か子息安之助の仕官がかなうことを願ったからである。
 みよは、使用人を頼って粗末な小屋を借り、草鞋(わらじ)を編んで生計を立てた。みよの作る草鞋はいつしかその質のよさが評判になるほどにもなった。
 数年の後、主君の水野忠義が改易となると、みよは引っ越しを決意する。せっかく生活の基盤が整ったのに、子どもも幼いのに、とひきとめられたが、主君水野さまのいらっしゃる土地が自分たちが生きる場所だと言って考えを曲げなかった。

 息子の安之助は、小さいうちから寺で学問をさせ、剣術の稽古にも通わせた。
 十二歳になった安之助が形ばかりの元服をした頃、いろいろと面倒をみてくれている家主の紹介でみよの再婚の話がもちあがったが、みよは、いささかも迷うことなく断るのだった。

 その後、みよは、土地の産物である竹を使って箭竹を作り始める。
 草鞋づくりよりずっと技術が必要である。初めは手に切り傷が絶えなかったが、慣れるにしたがって腕をあげ、仕事がおもしろくなっていった。誰にもまけない良い矢箭をつくろうとも思った。

 十八歳になった安之助が、ある日居住まいを正して、みよにこう言う。

「私ももう十八歳です。母上はこれ以上賃仕事で苦労なさらないでください」

 今の自分は、働きに出してもらえれば母子二人が食べていくぐらいの稼ぎはできると。

「どうか私に代わらせてください」という言葉をさえぎり、みよはこう言う。

「あなたは考え違いをしています、母がはたらいてきたのは、あなたをりっぱに成人させたいため です、けれどそれさえはたせれば役が済むというわけではないのです」

 意味がわからないと首をかしげる安之助に、父の最期を思い出せと、こう続ける。

「父上は、不運な出来事のために、御奉公なかばで世をお早めになさいました、そうせずにはいられない場合だったのでしょう。さむらいの道にはずれたと申し上げなければなりません、死んでいく父上にも、そのことがなによりもお苦しかったと思います。 … 生きるかぎり生きてごしゅくんに奉公すべきからだを、私ごとのために自害しなければならなくなった、さむらいにとってこれほど無念な、苦しいことはありません。どんなにご無念だったことか … 。」

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