次の文章は、西川美和の小説「ディアドクター」の一節である。主人公「ぼく」の父親がゴルフ場で倒れ、救急病院に運ばれる。実家から離れて暮らす兄とは直接の連絡がとれない。「ぼく」は、医者である父に幼いころから特別な感情を抱いていた兄がどんなに動揺するだろうかと心配しながら、兄の到着を待っていた。
二十八歳になったぼくの結婚式に帰ってきた兄は、こざっぱりと髪を刈りこみ、顔は健康的に日焼けして、恰幅の増した体には、スーツもよく似合っていた。
兄は、持ち前の明るさを存分に仕事に生かしている様子で、家を出て行った当時よりも随分と軽みを増していた。その日初めて会ったぼくの妻に対しても、花嫁姿を持ち上げ、転がし、笑わせて、終いには抱きあっていた。これなら医者にも看護師にも事務方にも受けるだろうな、と納得したが、文字通り、医者を舐(な)め切ってやろうという様子が、かつての父に対する思いへの反動のようにも思えて、ぼくには痛々しかった。ぼくらの座らされた高砂席から見える家族のテーブルで、父のグラスに1〈 こなれた調子で 〉たびたびお酌をする兄の姿が不純な感じで、たまらなくいやだった。ぼくはなんだか悔しくて、不覚にも、A〈 そんな日にそんな理由で、涙を落とした 〉。しかし「おやおや、新郎もこの喜びに、感極まった様子でございます」と2〈 目ざとい 〉司会の女が大声をマイクに通し、会場は、歓声と、拍手に沸き、その日一番の盛り上がりに達した。涙の理由が、正確に理解されることは少ない。
その後の兄のことは、ほとんどぼくは何も知らない。
母方の伯父さんが死んだ時の葬式に現れたことがあったが、それ以外は、たまにふらりと実家に帰ってきて、わざわざぼくを呼び立てることもないまま、すぐまた3〈 発 〉った。
数年後には世話になった病院の重役から誘いを受けて、メーカーをやめて、そこの事務職についたと聞いた。
「お給料だって悪くなかったはずなのに。なにかいいことがあるんでしょうか」
「あるんだろうさ。どうでも、誘ってもらえるのはあいつの人望だ」
たまに電話で話をしても、所帯を持つ気配もなく、ただ境遇の移り変わるだけの兄に心を痛める母の言葉も、父は相変わらず4〈 杞憂 〉としか受け止めず、飄々と聞き流した。
その後も何度も職場を転じて、今では我が家から陸続きとは思えないほど遠く離れた寒村の、医師が一人と看護師一人でやっているような小さな診療所で、事務を任されて働いているのだそうだ。
どうしてそんなところに行ったのかは、本人に聞かなければ分からない。
結局兄は、自分でも言っていた通り、ぶんぶんぶんぶん、医者の周りを飛んでいなければ、生きていけない性分なのだろうか。
それでも父は悠々として、言うのだった。
「診療所の周り一面田んぼだなんて、想像できるか? 年寄りが多いから、きっと先生と一緒になって飛び回ってるんだろう。おれも一度くらい、そういうところでやってみるんだった」
兄のことをどれほど父が解っていたか、それは明らかではない。けれど、安定とはほど遠く、一ところに留まらずにころころと転がり続けていく兄のことを想う時の父は、いつもB〈 遠いところに吹く、澄み切った風を望むような眼をしていた 〉。
廊下の椅子に座っている間じゅう、ぼくの携帯電話は結局押し黙ったままだった。液晶画面を開いてみると、時計は九時五十分を表示している。電波状況は極めて悪く、表示バーは圏外との間を泳いでいた。もしかしたら兄は、ぼくに電話をしたかもしれない。その時たまたま受信できなかったのかもしれない。留守電が入っているのかもしれない。
あと十分で、最終の面会時間だ。
兄と通じるところへ、出て行こう。ぼくは、半分灯りの消された長い廊下を足早に抜けて行った。
救急搬入口の外に出ると、父を乾かした昼間の灼熱がうそのように空気はしっとりとして、Tシャツの織の目を冷たい風が通り抜けた。闇夜で表はとっぷりと暗かったが、見上げれば西の空には月の留守を守るように金星が輝いていた。
ぼくの携帯が受け取っていた留守番電話には、「おじいちゃんはどうですか。春ちゃんもお祈りしてるからね」と、娘のさえずるような声だけが入っていた。
遠い、青い稲のにおいに包まれた土地では、ここよりもずっとたくさんの星が兄を照らしているのだろうか。そのやさしい、暗い光の下で、ぼくの留守電を聞いた兄は病床の父を、どんなふうに想っているのだろう。
ぼくはいつの頃からか、両親の老いていくこと、死んでいくことを、近くで受け止めていこうと自分なりに覚悟するようになった。それでもたかが母の手が年寄りじみたということにすら、やっぱり面喰(く)らってしまうけれど。親たちが自分たちを見つめて、人生を豊かにしたように、ぼくも親の絶えていくさまを、見つめて人生を肥やしていくんだ、と妻にも話をしている。
しかしそれとはまた別に、ぼくは父の死を恐れてきた。父の死が、兄にもたらすものを、恐れてきたのだ。兄は、父を失うことに耐えられるのだろうか? 父の「生命」は失わなくても、このまま父の人格、知性、ぼくらとの記憶が失われてしまったとしたら、兄は?
C〈 ぼくは、ほとんど衝動的に兄へのリダイヤルボタンを押していた 〉。
留守番電話になったら、何というべきだろう。とにかく帰ってきてくれ、なのか、それとも、もう帰らなくていい、なのか、無言で切るのがメッセージなのか。
「慎也か」
呼び出し音をワンコールも聞き終わらないうちに、電話はとられた。ぼくは5〈 息をのんだ 〉。
「おれだ」
兄の声は、落ち着いていた。
「どのあたりに行けばいい。今、救急搬入口が見えてる」
はっとしてあたりを見回すと、D〈 黒くむっくりとした塊 〉がこっちに向かって歩いてきていた。
「ああ、それか。お前か」
塊がにょき、と手を伸ばして、大きく振った。
「ちょっと太ったか」
「もう四十だもん、おれ」
ぼくはようやく声を発した。
早送りをした画像のようにすったすったと塊の足取りは力強く、あっという間に近くまでやって来て、搬入口の明かりに照らし出されたその面影は、まぎれもないぼくの兄であった。いくらかくたびれたようで、アイロンをかけないで済むようなものばかりをくったりと身にまとい、伸びかけた無精ひげの中には、まばらに白く光るものも交じっていたが、なぜか前に見た時よりもむしろずっと、ぼくの知っている昔からの姿に近かった。
「悪かったな。どうだ」
「薬で、眠らされてる」
「先生、何て言ってる」
直接耳に聞くその声は、もうまるで父の声そのものだった。母に似てけんけんと甲高いぼくとは違い、低くて、ふくよかで、足元伝いに響くような。
「目は覚ますけど、麻痺が残ったり、しびれが残ったりするだろうって」
「うん」
「あと、言葉が、お父さん 」
どうしたことか、急に喉の奥に熱くて固いものが押し上げてくるような感じがあって、E〈 ぼくの言葉はそこで詰まった 〉。
兄は黙って頷くと、ぼくの肘を軽くついて、促した。
「分かった。行こう」
「血圧が高くなって、薬も出されてるのに、いい加減で、ちゃんと飲みもしないって、お母さんが前から言ってて、おれもそれを聞いてたのに、ほとんど聞き流してた。(注)フレッド・カプルスって分かる? 見ねえよな、ゴルフなんて。お父さんが好きなゴルファーなんだよ。だからカプルスと同じキャップ探して、いつか誕生日におれがあげたんだよ。別に大したキャップじゃないんだぜ。なのにやけに喜んじゃって、気に入って、いつも被って行ってたんだ。でも今日はそれを玄関に忘れて、ゴルフ場で売ってんの適当に買えばいいのに、何にも被らずにそのまんま炎天下で十八ホール回って、それで、倒れた」
歩きながら、そばに付いている兄にべらべらと自分の口が動いた。兄がふいに立ち止まり、ぼくの肩をつかみ、F〈 ぎゅうっときつく握りしめた 〉。
ぼくはそうされて初めて自分の体ががたがたと震えているのに、気づいた。
兄はしばらく肩をつかんだまま言った。
「息大きく吸ってみな」
「うん」
「そうだ。で、吐く」
言われた通りに、呼吸を繰り返した。少しすると、体がすうっと軽くなった。まるで医者みたいだった。
「カプルスのキャップか」
兄はつぶやいた。
G〈 「それは替えが効かない気がするわ」 〉
さっきの看護婦さんに言われていた時間より三十分も遅れたが、今度対応してくれた少し年かさの人は、ほとんど事情も聞こうとせずにぼくらを労わるように〝天使の微笑み〟を浮かべ、快くICUに入れてくれた。
押し黙って目をつむり、不自然な音を立てて呼吸する父を目の前にしても、兄はうろたえることもなく、周りの計器を少し見回したりした後、しばらくじっと黙ってその顔を見下ろして、幾度か頷いただけだった。そして、薄い患者衣の肩にかすかに手をあてると、胸の上のタオルケットをすいっと引き上げて、その上から肉厚な手でゆっくりと、温めるように擦った。
ぼくは理解した。兄は、とっくに父を卒業していたのだ。
兄は、長い長いトンネルを抜けて、蒼く、広い空の下に出ていたのだ。ぼくは、大きな安堵感が胸を湿らせるのと同時に、大好きなシリーズ物のテレビアニメが最終回を迎えた後のような、H〈 身勝手な空しさ 〉を感じた。
(注)フレッド・カプルス … 一九五九年生まれ。一九九二年に世界ランキング一位を獲得。アメリカを代表するプロゴルファー。
問一 傍線部1の意味として最も適当なものを選べ。
ア 本音を押し隠して
イ 無理強いするように
ウ 取り扱いに慣れた様子で
エ 明るく気さくな接し方で
問二 傍線部1の意味として最も適当なものを選べ。
ア 見つけるのがはやい
イ きわめて注意深い
ウ 場の雰囲気をつかんだ
エ 人の気持ちがわかる
問三 傍線部3「発」と同じ意味用法のものを選べ。
ア 犯罪を摘〈 発 〉する。
イ 〈 発 〉車の合図が鳴った。
ウ 台風が〈 発 〉達している。
エ 反〈 発 〉する心が生まれた。
問四 傍線部4の意味として最も適当なものを選べ。
ア 話がおおげさで、現実にはあり得ないこと。
イ どういう結果になるのか気が気でないこと。
ウ なかなか思いどおりにならずに落胆すること。
エ 心配してもしょうがないことを気に病むこと。
問五 傍線部5の意味として最も適当なものを選べ。
ア 驚いて一瞬息をとめた。
イ 予想外の結果にあわてた。
ウ がっかりしてため息をついた。
エ 不信に思い声を出せなかった。
問六 傍線部Aの説明として最も適当なものを選べ。
ア 父に対する兄のなれなれしい態度の裏側には、いまだに父への反発心がうずまいているはずだと思うと、自分の喜びも忘れるほど父と兄の関係が心配でしょうがなかったということ。
イ 結婚披露宴での兄のふるまいには、かつての夢であった医者という職業に対する鬱屈とした思いが感じられ、自分が祝福を受けるための日でありながら、自分のことより兄が気がかりで涙があふれたということ。
ウ 父の前でも自分が医者になる夢をあきらめたことを外に表さず、ひたすら弟の結婚を祝福しようとしてくれる兄の気遣いに申し訳なさを感じ、涙がとまらなかったということ。
エ 結婚を周囲から祝福されることに純粋に喜びを感じるが、まだ独り身で、両親の面倒も弟にまかせている兄の心情を思いやると、もしかしたら自身のふがいなさを感じているのではないかと心配になったということ。
問七 傍線部Bの表現についての説明として最も適当なものを選べ。
ア 長年にわたり都会の病院に勤めてきた父にとって、兄の生き方はうらやましいものであり、自分も引退後は思い切って田舎に移り住みたいという願いをもっていることをそれとなく示している。
イ 医者として思うような人生を歩んでこられなかった自分の人生を思うと、長男にはできることなら医療関係ではなく、もっと自分が本当にやりたいことを見つけてほしいと願っていることを表している。
ウ 兄に対する思いが薄れてきている様子を描くことによって、父がいつしか年老いてしまったことや、いつか病に倒れるようなこともあるかもしれないと読者に感じさせる働きをもっている。
エ 自分とは正反対のような人生を歩み続ける兄を心配する様子が全くなく、そういう自由な生き方こそ兄にいちばん合っているはずだ思う父の気持ちを暗示している。
問八 傍線部Cにおける「ぼく」の気持ちとして最も適当なものを選べ。
ア いつか両親に死が訪れることを漠然と理解はしているつもりだったが、実際に父が倒れるという現実をつきつけられて自分一人でそれを引き受ける自信がなくなり、一刻も早く兄に来てほしいと願う気持ち。
イ 父の命が助かったとしても何らかの障害が後に残るであろうことが予想され、父自身よりも兄がその現実を受け入れられずに自暴自棄になってしまうのではないかと心配する気持ち。
ウ 父の死を現実のものとして意識したとき、それをおそれる気持ちは兄の方が強いにちがいないと思うといてもたってもいられなくなり、とにかく兄に事実を伝えたいとあせる気持ち。
エ 両親の年齢を考えたら今回のようなことが起きることは十分想定できることであるにもかかわらず、長男でありながら実家を離れて暮らしているうえに、なかなか連絡のとれない兄への怒りの気持ち。
問九 傍線部Dの表現を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 兄だと予想される人影をこのように表現することで、兄を頼もしく、大きな存在だと「ぼく」が意識していることを表してる。
イ 「ぼく」にとって兄は何があっても動じない人であり、もっとも頼りになる人が現れたという安堵の気持ちが表されている。
ウ 兄の到着を心待ちにしていながらも、いざ目前にするとなんと声をかけていいかわからなくなった「ぼく」の気持ちが投影されている。
エ 兄の体格がずいぶん変わってしまったと表現することで、兄が思いもよらない人生を過ごし、不健康な状態であることを表している。
問十 傍線部Eとあるが、その理由として最も適当なものを選べ。
ア 兄がそばにいないからこんなことになるんだという思いを押しとどめることができなかったから。
イ 父親を心配ばかりさせてきた兄への恨み言が思わず口をついて出そうになるのを、必死の思いで押しとどめたから。
ウ 兄をみて安心し、それまで押し隠していた不安や焦りが急にこみあげてきたから。
エ 父がもう助からないのではないかという不安を口にしてしまうのがこわくなったから。
問十一 傍線部Fとあるが、その理由として最も適当なものを選べ。
ア なげやりになっている弟の幼さに驚き、いままで両親の世話を弟に、まかせていたことへの罪悪感を感じたため。
イ 病院内であることも忘れて大声で話し続ける弟の口をふさぎ、冷静さをとりもどさせようとしたため。
ウ 自分が落ち着きを失っていることに気づかずに話し続ける弟を、いったん落ち着かせようと思ったため。
エ 動揺している弟の姿をみて、自分の中にも大きな悲しみが生まれ、それを弟と共有しようとしたため。
問十二 傍線部Gとあるが、兄がなぜこのように言ったのか。最も適当なものを選べ。
ア 仕事の合間に必ずゴルフに出かけていた姿を思い出すと、尊敬するプレイヤーの帽子を大事にしている様子が思い浮かび、何事にもこだわりをもって取り組んでいた父が懐かしかったから。
イ 父と弟との暮らしぶりを幼いころから目にしてきた兄には、ほかのどんなものも弟があげた帽子の代わりにはならないだろうと思うはずの父の気持ちが理解できるから。
ウ どうせたいしたキャップじゃないと口にする弟を見ていると、自分自身をあえて軽くみようとするところは父と似ていると思いながらも、素直に価値を認めるべきだと諭したかったから。
エ 自分のあげた帽子が倒れた原因の一つかもしれないとまで考える弟を見ていると、長年自宅を離れているあいだに、どれだけ父と弟との関係が深まったのだろうかと感慨深かったから。
問十三 傍線部Hの説明として最も適当なものを選べ。
ア 幼いころから、やみくもに父にあこがれ父の後をおいかけてきた兄なので、倒れた父を見てどれほどとりみだすことかと心配していたが、動揺を外に表さずに必死に堪えている兄を見て、もっと素直に自分の感情を出してほしいという気持ちになっているということ。
イ 父の仕事との接点を少しでも持ち続けたいがために医療関係の仕事についている兄は、本来の自分の姿を見失っているのだと思っていたが、そんな弟の心配とはうらはらに、すっかり落ち着いた生活をし、医者以上に医療に精通しているような兄に対し、うらやましく思いながら嫉妬の念もわきあがってきている。
ウ 父を追い求めるがゆえに父から離れて自分の人生を模索しているかのように思える兄を気遣い、年老いた両親は自分が面倒を見ようと心に決めていたが、兄が長男としての役割を果たそうとする気持ちでいることに気づくと、自分の積み上げてきた両親との関係をはかないものに感じてしまったということ。
エ 父を見てどれほど取り乱すことかと心配していたが、予想外の落ち着きぶりを見て、自分の心配とはうらはらに兄は父とは一歩距離をおいた自分の人生をとうに歩んでいることに気づき、自分の心配は何だったのだろうと思わざるを得ず、気が抜けたような感覚になったということ。
問十四 この文章における表現の特徴についての説明として最も適当なものを選べ。
ア 「ぼく」の回想場面に描かれるエピソードを通して、父や兄がどんな人生を過ごしてきたのかが垣間見られ、現在の状況下における兄のふるまいの意味や、それを見守る「ぼく」の心情が重層的に表されている。
イ 主人公である「ぼく」の視点で物語は進行するが、必要に応じ周りの人物の視点も取り入れて語られているので、それぞれの人物の心理が分かりやすく理解できるようになっている。
ウ 兄や父の心情は直接述べられていないものの、「ぼく」の視点を通して兄と父との長年の確執が浮き彫りにされ、父の病気をきっかけにして二人が和解していくのではないかと予想させる表現になっている。
エ 時間の流れは一見複雑に見えるが、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、その折々の「ぼく」や兄の心情や行動について、原因や理由を明らかにしながら描かれている。