学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(1)」
試験お疲れ様でした! 今日のうちに必ず、これからやらなければならないことをリストアップしておこう。新しくノートを作ったり、問題集の一問だけでも解いたり、「今日中に」何かやっておくこと。今日だけは休もうと思っている人は、明日も休む。「明日やろう!」は「ばかやろう!」だ。
現在、中東は厳しい情勢をむかえている。
世界史で習ったように、近代以降の中東地域は、宗教上の対立や、石油利権と大国のエゴがあいまって、穏やかな時代が今まで一度もないと言っても過言ではない。とくに現代は、武器や情報機器の発達のせいで、犠牲になる人の数が想像を絶するものになっている。
みなさんが生まれる前にも、「イラン・イラク戦争」とよばれる長期間にわたる戦争があった。1980年代のことである。
国境の争いから始まったこの戦争は、徐々に都市への爆撃へと及び、長期化していった。
イラン国内には、首都テヘランを中心に多くの外国人が滞留していた。日本も例外ではない。
商社マン、多くの技術者、その家族、日本人学校の職員たち … 。
国外退去を急がないと、命の安全が保障されない状況になりつつあった。
1986年、イラクのサダム・フセイン大統領は突如、イラン上空を航行する飛行機を無差別に撃墜するという声明を発する。攻撃開始までの猶予時間は48時間。彼の言葉がただのおどしでないことを、国際社会は承知していた。どの国も退去を急いだ。
日本とイランとの定期便が就航していなかったため、日本大使館の面々は、他国の航空便に日本人を乗せてもらうよう交渉を続けた。しかし、交渉は困難を極めた。どの国も自国民を助け出すことで精一杯だったのだ。
大使館は、日本本国にも救援を依頼する。しかし、日航機の臨時便を飛ばしてほしいという願いは、乗務員の安全が保障されないとの理由で実現しない。自衛隊の救援機を送ってほしいという要請には、国会の承認が必要なので、すぐには送れないという。
時間はかぎられている。日本人だけがこのテヘランに取り残されるかもしれない。
隣国のトルコにお願いできないだろうか。在トルコ日本大使の野村豊は、トルコ大使館に出向いて、個人的にも親交のあったビルセル大使に支援を要請した。
ビルセル大使は本国に連絡を送る。すると、オザル大統領は、日本のためにチャーター便を一機飛ばすことを決定してくれたのだ。
撃墜される危険がともなう状況下で、なぜ、トルコ政府は日本人を救おうとしてくれたのか。
それを知るには今から125年前に起こった事件に遡ることになる。
和歌山県の南端串本町の沖合約2㎞に位置する紀伊大島。
「 ♫ ここは串本~ 向かいは大島~ 中をとりもつ巡航船 」と串本節に歌われるこの島は、古くから江戸から大阪に向かう航路の拠点の一つであり、島の東には石造では日本最古の灯台がある。
明治23年(1890年)9月16日の夜であった。
灯台守は、海の方から風と波をつんざくような爆発音を聞いた。