日本は島国でまわりが海であるため、海が境界となって国境というものを意識しない。ということは、日頃から国家という事もあまり意識していないのではないか。だが、多くの国には国境なるものがある。
今年の春にタイ国境の町ノーンカイからラオスに入った。いままで何度も来ていて、眼の前を流れるメコン川の先にラオスが良く見えた。いざ入国するとなると、やはり煩雑な手続きが待っていた。
行先はラオスの首都ビエンチャンであるが、そこはタイバースが普通に通用し、同じ言葉、同じ人種で、社会主義国家なのに、金髪のチャラチャラした若い子が目立っていた。
国境を超えると、これが国という囲いなのか、と肌で感じることがある。そこは、民族として運命を共にする集団生活の枠組がある。
一緒の連れて行ったタイの子供たちにはパスポートはなく、大きなザラ紙にコピーされた戸籍のようなものが代替した。日本人は0歳児からパス・ポートがある。
ラオスの朝、ホテルのテラスでコーヒーを飲んでいると、子供の乞食が足元に来て金をねだった。その時、何となくだが、国によって命の重さが同等でないようなことがあると思った。