「維新」という文字が最初に出てくるのは横井小楠の『国是三論』だそうだが、それが世に出たのが1860年だという。もとは「一新」が原由(ゲンユウ)だそうだ。(松本健一『日本の近代1』中央公論社)、
それから4年経った1864年1月の高杉晋作の書簡に「自ら不忠不孝の人となり 国政を維新たらしめんと欲す・・・」と出てくる。維新という言葉が力をもって世に広がった。
ところで関西の方の「維新」はいったい何を一新するんだろうか。
肩を怒らせて、口角沫を飛ばして、アンケート程度の選挙をやって、それを民主主義の必要経費だと開き直る、それって世の中を一新させることなのかな。
コメント利用規約に同意する
フォロー中フォローするフォローする
1989年に「平成」となったとき、大前研一が『平成維新』を出版して、その運動体である「平成維新の会」を92年に立ち上げた。大前が提唱する「道州制」など日本の21世紀の構造改革に賛成する国会議員(と候補者)を、平成維新の会は支援した。しかし、当落が分かった段階でいずれの候補も「口約束」で、選挙目当ての支援取だったことが分かり、平成維新の会は「国会議員」に失望せざるをえなかった。それでも「平成維新を実現する会」として「いい国作ろう」運動が粘り強く繰り広げられた。
『維新』が先か「橋下」が先かと言えば「平成維新」が先にあった。たまたま大阪での動きが、現場指導の松井、表指導の橋下、裏(参謀)指導の浅田と揃い、多くの有力なブレイン=大前、堺屋と揃い、少し寄り道だが「都構想」を掲げ動き出した。誤算は石原にすり寄られたことだった。これで本来の切れ味を失い、しかも人材調達係の今井、東の2人組が押し寄せる候補者の数に負け「無能のレベル」の人選に陥った。これが橋下の国内カード以外に不慣れな「慰安婦」という国際カードを切ったことに要る逆風と相まって、局面は一気に暗転した。今回の大阪市長選は、大義がないんではない。マイナー事案になっただけだが、そのこと自体も逆風となっている。『維新』という言葉自体は、本来疑ってしかるべきものだ。しかし、『平成維新』という言葉に提唱者が込めた思いを損なっていいのだろうか。中央政府が現在から税を巻き上げ、将来には借金を残すというモラルハザードを許していいはずがないからである。