玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

市井の近現代史(12)

2023-06-20 13:20:08 | 近現代史

―知識人は感情の発露をしたのだろうか?―

保坂正康はまた「あちこちで「万歳」の声が上がった。アメリカに押さえつけられて背伸びできない鬱屈感があった。特に感情の発露は知的階層に多かった。」とも書いている。

伊藤整が「あゝこれで言い、これで大丈夫だ、もう決まったのだ、…」と言ったとか。長與善郎は「国民の顔がパッと明るくなったのが印象的だ。生きているうちにこんな嬉しい、痛快、こんなめでたい日に遭えるとは思わなかった、…」と云ったとか。保坂はそういう文献の文脈から知識人の感情を想像したのであろう。

しかし、永井荷風は「10/18、この日内閣変わり、人心更に恟々たり。日米開戦の噂益々盛なり。12・8に渡米開戦の号外出づ。12/9近隣物静かになる。12/12電車やその他の広告に「屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だ」、12/31除夜の鐘なるを聞かず。翌正月元日、新年賀状一枚もなきは法令ためなるべし。」と日記に事実だけを単に羅列している。

荷風は6月の段階では「米国よ。速やかに起つて、この狂暴なる民族に悔悛の機会を与へしめよ。」と書いている。

彼は当時の憲兵や特高が彼の日記を読むのを恐れて、自分の日記においてすら、感情の発露を隠したのである。

当時は正に全体主義、軍国主義の最盛期であり、軍国的でない感情の発露は控えねばならない、或いは偽らねばならなかった。そうした背景を保坂は何処まで把握して、「知的階層に感情の発露が多い」と言ったのか、その本意は理解できない。

敗戦で朝日新聞を辞めた武野武治(むのたけじ)が云うように、「国民不在のままに戦争が開始され、国民不在のままに戦争が終了させられたことだった。」という捉え方が一般的に客観的な事実であったと思う。

多くの国民にとって、何の情報も与えられない暗黒の時代と捉えるべきではないだろうか。

保坂正康『あの戦争は何だったのか』より

 

【引用文献:保坂正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、勝田龍夫『重臣たちの昭和史(下)』文春文庫、永井荷風『断腸亭日乗(下)』岩波文庫、鎌田慧『反骨のジャーナリスト』岩波新書】

 

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市井の近現代史(11)

2023-06-19 11:00:46 | 近現代史

―日米開戦どう捉えたらよいのか―

いま生存している歴史家としては保坂正康がいる。彼は日米開戦を「この戦争は遅かれ、早かれ軍の爆発が起こっていた筈だ。…今で云う”逆ギレ”のようなものだろう」と述べている。斯く言う保坂は1939年生まれで、開戦時は2歳、終戦時で6歳であるから、どのようにして日米戦争の開戦の宿命を知ったのだろうか。

既に鬼籍に入った渡部昇一は日米開戦を知って「これで長年のモヤモヤが晴れた」という感情が国民にあったと例示している。彼は1930年生まれ、開戦時は11歳である。この「モヤモヤ」という言葉は大政翼賛会文化部長を勤めた岸田国士(1890~1954)が「やっぱりもやもやが取れて、すっきりした思いがする。」と述べている。

所詮、実体験でモノを言うのと、後に文献等で共感して、言われた言葉を引用するということの歴史の「あやうさ」「あいまい」を常に座右に置くことをせねばなるまい。

当時、陸軍士官学校生だった三根生久大(1926生まれ)は、「堪忍袋の緒が切れて斬り込んでいった…」と振り返っている。

当時、実際に戦艦比叡に乗っていた山岡貞次郎(1917年生まれ)は「大東亜戦争は引くに引けなかった、逃れようとして逃れられない戦争だった」と述懐している。

この辺り人たちの言葉から、保坂の「逆切れ」「遅かれ早かれ」という表現が出てきたのではないだろうか。

所詮、実体験のない戦後世代にとっては、今に残った文献からその当時の歴史の事実への糸口を掴むしか事実に近い歴史を知る道はない。

保坂正康『あの戦争は何だったのか』より

 

【引用文献:保坂正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、三根生久大『日本の敗北』徳間書店、山岡貞次郎『大東亜戦争』育誠社、勝田龍夫『重臣たちの昭和史(下)』文春文庫】

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あやふやな専権事項

2023-06-18 16:12:21 | つぶやき

アベ・スガ政権の時の官房長官は「解散権は総理の専権事項です」と記者会見で何度も言っていた。それについて尋ねる政治記者は誰も居なかった。訝る、疑う記者もいなかった。

だが、今回は、何で天皇が外遊している時は総理専権の解散ができないのか?それでも可能という見解も造ったそうだが、…。これなら何でも有りで憲法は要らない。

単に憲法7条の天皇国事行為の列記事項を、謂わば便法的に「内閣不信任議決」以外の解散に利用してきただけなのを、よくもまあ総理の専権事項とまで持ち上げたものである。

単なる慣習法だろう。こんなところが長期政権の弊害だと思う。そして、メディアと政府は利益共同体なのかしら?

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平塚は旅の始まり

2023-06-17 16:26:40 | 旅行

神奈川県民にとっては、平塚駅から先に行けばもう小さな旅なのです。

そう思う理由は、昔は平塚から先は車内での喫煙が許されたのです。

平塚まで煙草を我慢して、過ぎると煙を吐きながら日常からの逃走に安堵するのです。

平塚とは、そんな駅なのであります。本当は平塚止まりがあって、鉄道管区が違うのでしょうが。

実はコロナ小康期を利用し、2日前に箱根に行ってきました。

ホテルからの景色です。外人客も多く、インバウンドの効果はありそうです。

出がけに気なったのは、藤沢駅で電車を待ちながら食べた立ち食いソバのことです。

ここはコロナ前は、たまに食べていましたが、明らかに不味くなっていました。たぶん材料の質が落ちたのでしょう。

欧州の戦争のための材料不足か、新自由主義の貪欲経営なのか分かりませんが。

 

 

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宮中用語の復活

2023-06-16 18:32:26 | 雑感

昔「裁可」という言葉を使う都知事が居た。

この言葉は天皇の承認行為の言葉と思うが、軽々しく使っていた。何様だと思っていたのだろう?

野党議員は政権批判に「看過できない」と使う。「見過ごすことができない」と反対挙証が難しい場合に使う一種の左傾の逃げ言葉のような気がする。

近頃、よく使われているのが、「懸念」だ。

これも元は宮中用語ではないだろうか。

戦後世代はこの言葉を使って来なかったから気になっているのだ。本来は「物事の心配・不安」の意味であろうが、「危険・恐れ」の意味にも拡張して政権側やそれに忖度するメディアが使っている。

最近のメディアでは「懸念度」と意味の解らん統計的用語として使ったのには呆れた。さすがにその後は使われいないようだが、…。

こんな志の低いマスコミ・放送メディアは、報道機関として受け入れたくない。だから、新聞も購読しない、TVも信用していない。特に政権に人事が握られている似非役所のNHKはもう要らないモノである。

だが、裏読みで正しいことが解る効用がある!情けないメディアだね。

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