2005年5月21日 御料牧場
時間が経つにつれて、雅子様の中では「内親王の療育(自分で)と「静養」は仕事のようになっていきました。
ご自分の中でもそれが自然で一番楽しい事だとわかってしまったのです。
全て「治療の一環」でどこへでも行けるし、朝、起きるのも自由、食べる時間も自由、レストランも青山にいい場所を見つけたので通う。勿論皇太子様も一緒です。
もはや雅子様にとって皇太子様は「名刺」「免罪符」と同じで、一緒に行動すれば誰にも何もいわれないと思いました。
世間では、あまりにも雅子様に振り回され、いいなりにっている皇太子様について「廃太子」論も出てきているというのに、雅子様はどこ吹く風です。
廃太子なんぞ出来るわけがない事をしっていたので、全ては庶民が勝手にあれこれいう事でしかない。
5月4日には、ニュージーランドのヘイリーのコンサートを私的に訪れ、コンサート終了後、楽屋で話し込み、サインをねだり、6日は東京プリンスホテルタワーで行われた「ペネロプ展2005日本展」を鑑賞、6月29日には、国立博物館で「恐竜展」を私的に鑑賞し7月15日には、近代日本画を見に行く・・・とにかくプライベートでは元気な姿を見せていました。
そして、段々、雅子さまにとって愛子内親王は「切り札」のようになっていきました。
皇太子様に何かお願いをする時も、切り札である「愛子もそう思ってる」と言えば、大抵の事は叶うようになっていたからです。
御陵牧場、那須御用邸をハシゴして静養するのは当たり前、御用邸などにつけば、近くのレストランで昼食、舟遊びや動物園に行く、お風呂は御用邸内の温泉につかる。
でもこれらは全て雅子様が小さい頃、叶えられなかった事です。
お父様は仕事で忙しく、お母様は社交で忙しい。いつもお手伝いさんと取り残されていた雅子様にはいい思い出があまりありません。
成績も振るわなかったし、妹達の面倒でお母さまが精一杯なのはわかっていましたので。だから、今、こんな子供らしい遊びを体験できるというのは新鮮で楽しかったわけです。
ただ、内親王は長い距離をまだ歩けず、しかもすぐに転ぶので、どんなに重くても抱っこしていかなくてはなりません。
職員に任せればいいのですが、パニックを起こされても困るので、仕方なく毎回抱っこしていました。
2005年5月31日 帰京
2005年7月20日 愛知万博日帰り
愛知万博は、国の大事な行事で、スペシャルデーにには沢山の海外王族が来日しました。
つまり、世界に日本の技術を紹介し、または世界の今はどんなものなのかを見る事が出来る貴重な行事で、皇族方もみな、一度は万博を見にいかれましたし、そこで働く人達を激励しました。
しかし、雅子様にとって万博はまるっきり興味のない事でした。
だから、海外のお客様に会う事もしないでいたのです。
でも、名誉総裁はあくまで皇太子様なので、開会宣言は勿論、一度は見に行かなくてはなりません。
東宮職にそう説得され、「じゃあ、一日だけなら」という事で愛知に行く事にしましたが、宮内庁の要求を呑んでしまった自分に腹が立ち、終始ご機嫌は悪く、不愛想になってしまいました。
予備知識もないまま万博に行き、せっかく迎えてくれた公式キャラクターのモリゾーとキッコロを無視して歩いてしまいました。
雅子様が興味をしめしたのは、イギリス館のみで、せっかく名古屋パビリオンで藤井フミヤが、「ご夫婦で手を繋いで」と促したのに、無視したという事もありました。
この件で「やはり雅子さまは回復していない」という事になったのですが、本意ではない事は全て拒否という態度で臨むので、仕方のない事でした。
2005年5月6日 聖路加国際病院の夏祭りで子供が作った割りばしピストルを持ち帰る。
「気の毒な子供に心を寄せる」雅子様は時たま、聖路加病院を訪れて、様々な話を聞いたりしていたのですが、実際は何とか愛子様を治す方法はないかと考えていたのです。
しかし、その年の夏祭りでは、雅子様が体験した事のない子供達の「夏祭り」が開かれており、その様子があまりにも楽しそうに見えたので、ついつい遊びに興じ、尚且つ子供達が作った割りばしピストルを「持ち帰ってよろしい?」といい、一つ貰って来てしまいました。
愛子様の為・・・という事になっていましたけど、本当は自分がこれで遊んでみたかったのです。
雅子様はご自分が子供返りしていってると言う事に全然気が付いていませんでした。
ただただ、自分の子供時代を取り戻したい、あの頃に返ってやり直したい・・そんなお気持ちだったのです。